大和郡山城は巨大古墳を破壊していたーNew日常雑記㉗ー
大河ドラマ「豊臣兄弟」で脚光を浴びている街、奈良県大和郡山市のシンボル大和郡山城を歩いた。当城は本来、丘陵の高台を利用した土塁で築かれたものであったらしい。その場所に筒井順慶が新規築造をしたものが大和郡山城の基礎となる。
その大和郡山城の来歴を簡単に記しておく。
①天正8年(1580)織田信長の命により筒井順慶、大和郡山城を築城
②同年、筒井城破城(城主筒井順慶→大和郡山城へ)「國中破城令」
③天正10年(1582)6月2日本能寺の変 織田信長自刃
④天王山の戦い(明智VS羽柴)順慶 洞ヶ峠で日和見
⑤天正11年(1585)郡山城天守閣が完成。奈良中の大工を総動員
⑥天正12年(1586)筒井順慶 36歳で死去 定次が引き継ぐ
⑦天正13年(1587)8月 秀吉により伊賀上野へ国替え
⑧同年9月、羽柴秀長、羽柴秀吉と共に郡山城に入場
⑨秀長、紀伊・和泉・大和の百万余石を治める
⑩天正19年(1591)秀長、51歳で病没。城主が秀保となる
⑪文禄3年(1594)秀保、病没。豊臣家断絶、増田長盛が入城
⑫慶長5年(1600)関ヶ原の戦い~15年間城主不在
⑫元和元年(1615)水野勝成が入城。関ヶ原の軍功による
⑬江戸時代以降、天主台のみが残り、天守閣は存在しなかった
という流れだが、主題は城築城以前の環境である。


上写真は、ご覧の通り他の石材とは色彩が全く異なる。古墳の石棺に使用され、宮殿の礎石や台座に使用された、いわゆるブランドものだ。通称竜山石と呼ばれ、兵庫県高砂市の伊保山という地域で産出するものであり、地元では採石できないものだ。

逆地蔵(さかさじぞう)として著名である。天守台石垣の一部で、頭部が奥側つまり逆さまになっているため名付けられた。研究によると台座がなく光背となる部分が剝がされた様子か観察されることから、摩崖仏が刻まれた露岩を削ったものと推定されている。
さて、本題だ。大和郡山城の数次における調査で、古墳の存在が伺える埴輪(鰭付き)や、竪穴式石室の天井石と推定される石材があり、天守台を中心に約50㍍,全長約150㍍クラスの前方後円墳の可能性があるという。余程注意をして地形を観察しないとわからないが、眺望の良い高台に古墳が存在しても何ら不思議ではない。むしろその可能性は極めて高いと考えているのは既に記している。(近世城郭と古墳との関係)
城にも歴史があり、時空を超えた来歴がある。近世城郭⇒中世居館⇒古墳⇒高地性集落(弥生時代)⇒住居跡(縄文時代)と考えると益々歴史がアミューズメントするのである。
