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えび天の衣事件

 現在、私は診療所で医療ソーシャルワーカーとして勤務していますが、以前は在宅介護支援センターの責任者も兼ねていました。

 その頃、地域の高齢者の方々が外出や交流を楽しめる場として、いくつかの教室を運営していました。その一つが「はるかぜ会」です。

▼運営していた各教室についてはこちら。

 「はるかぜ会」は、月に一度、利用者さん8名ほどと職員が一緒に近隣へ出かけたり、お茶を飲みながら語り合ったりする小さな集まりでした。少人数だからこそ参加者同士の距離も近く、まるで親しい仲間同士のような温かな時間が流れていました。
 
 今日は、その「はるかぜ会」での忘れられない思い出を一つご紹介したいと思います。

 ひとり暮らしのS子さんは83歳。軽度の脊髄小脳変性症(※1)があり、歩行は少し不安定。さらに慢性閉塞性肺疾患(COPD)のため在宅酸素療法(※2)を行っており、外出時には酸素ボンベを積んだシルバーカーが欠かせませんでした。

 それでもS子さんは外出が大好きで、「はるかぜ会」にはいつも楽しそうに参加されていました。

 夏の強い日差しが照りつけるある日、利用者8名と職員2名の計10名で、郊外へドライブに出かけました。

 一面に咲き誇る花畑を眺め、道の駅を訪れ、広大な自然と青空の下でのんびり過ごしたあと、暑さに負けて「冷たい蕎麦でも食べよう」という流れになりました。

 S子さんはテレビ好きで、とくにお昼の情報番組をよく見ていました。ちょうどその頃、「脂質の多い食事は体に良くない」という特集を見たらしく、その内容がすっかり頭に刻み込まれていたようです。

 ところが、S子さんはえび天が大好物でした。

 健康への意識と食欲。

 その二つが激しく葛藤した結果、彼女なりの見事な折衷案にたどり着いたのでした。

 S子さんは、大きなえび天が二本のった“冷やしえび天蕎麦”を注文し、私は隣の席で“もり蕎麦”を注文しました。

 他の皆さんも思い思いに注文し、テーブルには涼しげな器が並びました。

 料理が運ばれてくると、S子さんはまず周囲を見渡し、みんなに聞こえるように言いました。

 「私はね、油物は控えてるの」と、いかにも健康に気を遣っていることをアピールしています。

 そして次の瞬間、なんと大きなえび天を手に取ると、衣を素手で剥がし始めたのです。丁寧に、そして少し慎重に、しかも指をぺろぺろなめながら。

 一枚、また一枚──ためらうことなく、大胆な手際でした。

 剝がした衣は小皿に二本分、こんもりと積まれ、えびだけを嬉しそうに頬張るS子さん。その姿を、周りの利用者も職員も苦笑いで眺めていました。

 私も思わず吹き出しそうになりながら、黙ってもり蕎麦をすすっていました。

 すると彼女が、ふと私の蕎麦と小皿の衣を見くらべました。

 具のない蕎麦。山盛りの衣。
そして何かを思いついたように顔を上げました。

 いやな予感。

 「もったいないから、あんた食べなさい」と彼女。

 その表情には一点の曇りもありません。純度100%の善意。

 むしろ具のない蕎麦を食べている私を気の毒に思っての“ご厚意”でした。

 私はただ、純粋にもり蕎麦が食べたかっただけなのですが、あまりに自然な流れだったため断る隙もありません。気づいた時にはもう遅く、剥がされたえび天の衣がまるでドカ雪のように私の蕎麦の上に振り積もっていきました。

 周囲からは小さな笑い声が漏れ始めています。

 私は観念して「あ、ありがとう……」。

 その善意を無駄にするわけにはいきません。私は衣ののったもり蕎麦を静かに食べ始めました。そして食べ終えたあと「ありがとう。美味しかったよ」。ひきつった笑顔でお礼を言うと、彼女はとても満足そうな顔をしていました。

 後になって職員から、「あの時ちょっと涙目でしたよ」。そう言われましたが、それはたぶん気のせいです。おそらく。

 その後はみんなでソフトクリームを食べ、笑いながら帰路につきました。

 数年後、在宅介護支援センターはその役割を終え、「はるかぜ会」もなくなりました。

 参加されていた皆さんの中には、すでに旅立たれた方も少なくありません。

 それでも、ふとした時に思い出すのは、立派な事業報告や活動実績ではなく、こうした何気ない一場面です。

 暑い夏の日の青空。

 そば屋のテーブル。

 そして、「もったいないから食べなさい」と言って、えび天の衣を分けてくれたS子さんの満面の笑顔。

 あれほど純粋な親切心で天ぷらの衣だけ譲られた経験は、後にも先にもありません。

 あの日、私が食べたのはもり蕎麦だったのか、えび天蕎麦だったのか。

 地域の居場所づくりとは、もしかするとこういう思い出を積み重ねることだったのかもしれません。

 今でもこの話は私の鉄板ネタになっています。そしてこの話をするとき、私は少し涙目になりながら笑ってしまうのです。
 
※1 軽度の脊髄小脳変性症は、体のバランスを保ったり、手足をスムーズに動かしたりする働きを担う小脳や神経が少しずつ障害される病気です。初期には、ふらつきや歩きにくさ、手先の動かしづらさなどがみられますが、症状の進行はゆっくりで、日常生活を続けながら治療やリハビリに取り組むことができます。
 
※2 慢性閉塞性肺疾患(COPD)は、長年の喫煙や加齢など様々な要因により肺や気道の働きが低下し、息切れやせき、たんが続く病気です。在宅酸素療法は、酸素不足を補うために自宅で酸素を吸入する治療で、呼吸状態を安定させ、日常生活を続けやすくすることを目的としています。

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