1099年、エルサレムで何が起きたのか――「血の海」と虐殺の規模を、キリスト教・イスラム・ユダヤの史料から検証する|十字軍とテンプル騎士団シリーズ第2回
序章:エルサレムへの到達と記録の層
1099年7月、第一回十字軍はエルサレムの城壁を突破し、市内に突入した。ラテン語年代記は、この出来事を神の偉業の達成として記録した。
アラビア語史料の記述は一様ではない。初期のシリア系・エジプト系史料が事件を比較的簡潔に扱う一方、12世紀後半のイラク系伝統では、陥落はイスラム共同体全体の災厄として新たな意味を与えられていった。
十字軍によるエルサレム占領は、凄惨な殺害や略奪を伴った。後世の歴史叙述や映像作品においては、「街が血の海と化し、数万人の住民が皆殺しにされた」という描写が繰り返し引用されてきた。
本稿の目的は、占領に伴って発生した暴力を否定することではない。残された複数の史料伝統(ラテン語、アラビア語、ヘブライ語およびユダヤ=アラビア語)を突き合わせ、年代記に記された描写や数字が、誰によって、いつ、いかなる文脈で書かれたのかを検証することにある。
キリスト教、イスラム、ユダヤのそれぞれの内部にも、目撃者と非目撃者、地域、文書のジャンルによる差異が存在する。本稿では、劇的な表現や巨大な数字が史料のなかでどのような機能を持っていたかを整理し、極限状態の占領下で動いていたもう一つの現実をたどる。
第1章:占領前のエルサレム――極限の消耗と住民の退去
1095年のクレルモン公会議で呼びかけられた遠征軍が、エルサレムの城壁の前に到達したのは1099年6月のことである。
アナトリア半島からシリアへ至る行軍は、十字軍にとって極限の消耗戦であった。とくに1097年から翌年にかけてのアンティオキア包囲戦では、飢餓と疫病により軍の規模は大幅に縮小した。内陸部を南下し、水不足と過酷な気候のなかでエルサレムへ到着した時点で、諸侯軍の規模は出発時から大きく減少していた。包囲戦を開始したものの、攻城塔や兵器を建設するための木材すら不足していた。
一方、エルサレムの内部でも占領を前に大きな動きがあった。当時のエルサレムを支配していたのはエジプトのファーティマ朝である。12世紀後半に執筆されたティルスのギヨームの年代記は、ファーティマ朝総督イフティハール・アル=ダウラが、十字軍との内通を警戒し、城内の東方キリスト教徒を事前に退去させたと記している。
ただし、これは事件から数十年後に書かれた非目撃者の記録であり、退去の範囲を正確に確定することはできない。少なくとも、占領時の殺害や捕囚の対象として史料の中心に現れるのは、イスラム教徒とユダヤ教徒である。
第2章:殺害と生存の記録
1099年7月15日、十字軍の攻城塔が城壁に接舷し、兵士たちが市街へ雪崩れ込んだ。
市街戦の突入後、市内各所で殺害と略奪が行われた。遠征参加者とみられる匿名作者の目撃記録『ゲスタ・フランコルム(フランク人の事跡)』は、十字軍の兵士たちが敵を追撃し、神殿地区にまで至る過程で多数の者を殺害したと記している。
『ゲスタ・フランコルム』によれば、ファーティマ朝の総督はダビデの塔へ退避したのち、トゥールーズ伯レーモンと交渉した。レーモンは、総督とその同行者を無事にアスカロンへ退去させた。
一方、市内に留まったユダヤ教徒の共同体も暴力を受けた。アル=アズィーミー(12世紀前半・アレッポで編纂)などのシリア系史料にはユダヤ人被害への言及があり、イブン・アル=カラーニスィー(1140年代・ダマスカスの年代記)には、ユダヤ教徒がシナゴーグ(会堂)へ逃げ込んだところを、十字軍によって火を放たれ焼死したという記述が存在する。
さらに、アーヘンのアルベルトは、陥落から三日目、十字軍の指導者たちが生き残った捕虜の殺害を決定したと記している。
ただし、この三日目の追加殺害を伝えるラテン語史料はアルベルトだけであり、『ゲスタ・フランコルム』の叙述とも一致しない。占領後の確定した出来事としてではなく、非目撃者の年代記に残された一つの叙述として扱う必要がある。
第3章:血の高さの系譜
エルサレム占領の残虐性を象徴する表現として最も頻繁に引用されるのが、「神殿の域内で血が馬のくつわにまで達した」というラテン語年代記の記述である。これは、トゥールーズ伯の従軍司祭として遠征に参加した目撃者、アギレールのレーモンによって記された。
トーマス・F・マッデン(Thomas F. Madden)は、2012年の論文においてこの血の描写の系譜を分析している。マッデンによれば、ラテン語の文書間で血の高さの描写は「足首」から「膝」、さらに「馬のくつわ」へと段階的に上昇していった。ただし、血が「膝」に達したという表現はレーモン本人の記述ではなく、1099年9月に十字軍指導者たちが教皇へ送った書簡に見える表現である。また、血の海と化したとされる範囲もエルサレム全市街ではなく、最大でもハラム・アッシャリーフ(神殿の丘)、あるいはアクサー・モスク周辺に限定されていたことを論証している。物理的に見れば、アクサー・モスクや神殿地区の面積と、人体に含まれる血液量をもとに計算すると、馬のくつわに達する水位の血が形成されることはあり得ない。この「血がくつわに届く」という表現は、『ヨハネの黙示録』14章20節を踏まえた神学的レトリックとして年代記に組み込まれたものである。
ただし、ベンジャミン・Z・ケダー(Benjamin Z. Kedar)は、「馬のくつわまで」が黙示録に由来することと、神殿地区で大量の血が流れたことは両立し得ると論じる。局所的な血だまりまで否定する根拠はなく、レーモンだけが黙示録の言葉を重ね、光景を神の裁きとして拡張した可能性がある。
「血の海」は、現場をそのまま測定した言葉ではなかった。
ここから先では、次の三点を検証します。
・3,000人、1万人、7万人という死者数は、それぞれどの史料に由来するのか
・アラビア語史料のなかで、シリア系・エジプト系・イラク系の伝統はどう違うのか
・カイロ・ゲニザの書簡から、捕虜、身代金、聖典の買戻しと債務がどう見えるのか
ここから先は
十字軍とテンプル騎士団シリーズ
十字軍は、本当に純粋な信仰だけで始まったのか。聖地奪還、エルサレム占領、サラディン、第四回十字軍、テンプル騎士団の金融機能と壊滅までを、同…
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