【第5章】 第123話
【第5章】第123話 薔薇園の問い
むせかえる甘い薔薇の香り
クラリスは、真っ直ぐとアレクシス王子を見据える。
もう、下を向き、自分の意見を言えない私ではない。
「私は…」いいかけて、
アレクシス王子がまた遮った。
「待って」
その声は、静かだった。
止めたというより、“そこに置いた”という方が近い。
クラリスの言葉だけが、空中で宙吊りになる。
アレクシスは、わずかに目を細めた。
「その言葉は、少し急いでいる」
穏やかな声。
だが、否定でも肯定でもない。
ただ“保留”だけがそこにある。
クラリスは唇を結ぶ。
今度は、飲み込まない。
だが、続きも出てこない。
エマの指先が、ドレスの布をほんの僅かに掴む。
グレアムの視線が、王子とクラリスの間を一度だけ往復する。
だが誰も動かない。
動けないのではなく、動く意味を測っている。
アレクシスはゆっくりと一歩、距離を詰めた。
「君は今、“自分の言葉”で語ろうとした」
「それはいい」
褒めているようで、評価でもない。
事実の確認。
「だが、その前に一つだけ確認させてほしい」
クラリスの視線が、わずかに鋭くなる。
アレクシスはそれを受け止めるように、軽く手を上げた。
「責めているわけではない」
また、その言葉。
薔薇園の空気が、少しだけ歪む。
責めていないのに、逃げ道だけが減っていく。
アレクシスは続けた。
「君が今ここで語ろうとしている“私”は」
「それは、本当に君自身のものか?」
一瞬、風が止まったように感じられた。
甘い香りだけが、やけに濃くなる。
クラリスの喉が、かすかに動く。
その問いは、さっきまでとは違う種類だった。
答えれば、何かが確定する。
答えなければ、それすら“答え”になる。
アレクシスはその間を見ている。
逃げ道ではなく、“選択の形”そのものを。
そして静かに言った。
「ゆっくりでいい」
「君の言葉を、私は聞く」
その優しさは、確かに優しさの形をしていた。
だからこそ、余計に重かった。
薔薇の香りが、肺の奥に沈んでいく。
クラリスは、小さく息を吸った。
今度こそ、逃げないために。
今度こそ、自分の言葉を出すために。
そして──
言葉が、落ちる直前。
アレクシスの視線だけが、ほんの僅かに揺れた。
⸻
「もういい加減にしないか?」
クラリスたちの背後からヴィクトルが横へと進み出た。
エマがクラリスの肩を抱きしめ、グレアムもクラリスの背中を支える。
「私たち家族を王子の盤上に据えないで欲しい」
アレクシスは、ゆっくりと瞬きをした。
驚いた様子はない。
ただ、そこに“予定外の要素が一つ増えた”という認識だけがあった。
視線がヴィクトルへと向く。
エマ、そしてクラリスへと順に移動する。
その動きは、まるで盤上の駒の配置をもう一度確認しているようだった。
「盤上……か」
小さく、呟く。
否定でも肯定でもない。
ただ言葉を“観察”している。
ヴィクトルは一歩も引かない。
「これは試験でも、評価でもない」
「少なくとも、彼女にとってはな」
エマがクラリスの肩を支えたまま、静かに息を吐く。
クラリスはまだ動かない。
ただ、さっきまで張り詰めていた“言葉を出すための圧”が、わずかに別の形に変わっていくのを感じていた。
アレクシスは視線を戻す。
クラリスへ。
その目には、先ほどまでの“問いかけ”とは違う質の光が宿っていた。
「なるほど」
一言。
それだけだった。
だが、その一言の中に“再計算”が含まれている。
アレクシスはゆっくりと距離を取るでもなく、詰めるでもなく、その場に立ったまま言葉を続けた。
「君たちの認識は理解した」
「私の立場が“盤上に置く者”に見えている、ということだね」
ヴィクトルが即座に返す。
「違うのか?」
アレクシスは微かに笑った。
だがそれは嘲りではない。
むしろ、静かな確認のような笑みだった。
「違うかどうか、ではない」
「どう“見えているか”の問題だ」
その言葉に、空気が一段だけ冷える。
エマの指先が、クラリスの肩から離れない。
アレクシスは続けた。
「君たちは、彼女を守るためにここへ来た」
「それは理解している」
視線が一瞬だけヴィクトルに向く。
「そして、その意思も尊重する」
その“尊重”という言葉に、クラリスの中で何かが微かに引っかかる。
さっきまで自分に向けられていたものと、同じ匂いがした。
アレクシスは薔薇園を一度だけ見渡した。
「だが一つだけ訂正しておこう」
静かに、はっきりと。
「私は彼女を“盤上に据えた”わけではない」
間。
「最初から、そこに“置かれていた”のは事実だ」
その言葉に、空気が止まる。
クラリスの呼吸が、わずかに浅くなる。
アレクシスは視線を戻した。
そして、今度はほんの少しだけ柔らかく言う。
「違いがあるとすれば」
「それを“誰がどう扱うか”だけだ」
薔薇の香りが、再び重く沈む。
その中で、王は静かに目を細めていた。
評価はまだ終わっていない。
ただ、試験の形が少し変わっただけだと理解しながら。
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