【第5章】 第124話

【第5章】第124話 冒険に行こう


静かな圧は、まとわりつくように中々外れない。

アレクシス王子の言葉は優しい。

だが、その優しさの中には逃げ道がない。

視線。

沈黙。

言葉。

全てを先回りし、答えを用意する。

まるで盤上の駒を並べるように。

クラリスは理解していた。

この人は最初から答えを求めていない。

私がどんな言葉を選んでも、その先を用意している。

ならば――

どうすればいい。

どうすれば、この盤面をひっくり返せる。

その時だった。

エマがそっとクラリスの肩を抱いた。

グレアムも横に並ぶ。

後ろにはヴィクトル。

まるで壁のように。

「クラリス」

エマが小さく囁く。

「今よ」

『クラリス、聞こえる?』

突然、頭の中に声が響いた。

聞き慣れた声。

思わず目を見開く。

『そのまま。古代遺跡があった方を見て』

真琴。

ヴィクトルの影に隠れた真琴の声だった。

クラリスは言われるまま、遠くへ視線を向ける。

アレクシスの声が聞こえる。

だが、不思議と耳に入らない。

まるで遠くの雑音だった。

エマが一枚の書類を差し出した。

「クラリス。それを渡しなさい」

「あ……」

忘れていた。

クラリスは書類を受け取る。

そして真っ直ぐアレクシスへ差し出した。

アレクシスは眉をひそめる。

「何だ?」

受け取る。

開く。

視線が走る。

一枚。

二枚。

三枚。

そこで初めて。

アレクシスの手が止まった。

薔薇園が静まり返る。

「これは――」

言葉が続かない。

初めてだった。

常に次の答えを用意していた男が。

次の言葉を失った。

その瞬間。

クラリスは一歩前へ出た。

もう震えていない。

もう俯いてもいない。

「私は――」

誰も口を挟まない。

アレクシスも。

皇后も。

王も。

貴族たちも。

ただ聞いている。

クラリスは胸を張った。

そして、はっきりと言い切った。

「私は、アレクシス王子と婚約いたしません」

薔薇園から音が消えた。

風も。

鳥の声も。

誰一人として動かない。

その言葉だけが響いていた。

アレクシスが顔を上げる。

手の中には正式な書類。

皇后陛下の署名。

王の承認。

そして本人の意思。

受け取った時点で、もう覆せない。

アレクシスは初めて理解する。

盤面がひっくり返ったのだと。

その時だった。

バサッ――

空気が震えた。

誰かが空を見上げる。

続いて全員が見上げた。

巨大な影。

王都の上空を覆うほどの存在。

水晶の翼が陽光を反射する。

神話そのもののような姿。

水晶竜。

歓声すら上がらない。

あまりに現実離れした光景だった。

水晶竜は薔薇園の上空を旋回する。

そして――

その背に立つ一人の青年が手を伸ばした。

レオンハルトだった。

少年のような笑顔。

何も変わらない笑顔。

「クラリス!」

その声が響く。

「冒険に行こう!」

王位でもない。

婚約でもない。

責務でもない。

ただ一言。

冒険に行こう。

クラリスの目から涙が零れた。

思わず笑ってしまう。

そうだ。

私は最初から。

こっちへ行きたかった。

クラリスは手を伸ばす。

エマが背中を押した。

グレアムが笑う。

ヴィクトルも静かに頷く。

「行って来い」

その言葉に。

クラリスは迷わなかった。

初めて。

誰かに選ばれるのではなく。

自分で選んだ未来へ向かって。

大きく一歩を踏み出した。

レオンハルトがその手を掴む。

次の瞬間。

水晶竜が大きく翼を広げた。

轟音。

巻き上がる薔薇の花弁。

王も。

皇后も。

アレクシスも。

貴族たちも。

ただ、その光景を見上げていた。

薔薇園から飛び立つ少女を。

もう誰にも縛れない少女を。

水晶竜は空高く舞い上がる。

その背でクラリスは振り返った。

広がる王都。

遠ざかる王宮。

そして――

新しい世界。

クラリスは笑った。

心から。

自由だった。

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