【第5章】 第125話

【第5章】第125話 お帰りなさい


帰る場所

水晶竜は王都の上空を大きく旋回した。

眼下には王宮。

貴族街。

賑わう街並み。

そして遠くに見える城壁。

クラリスはその景色を見下ろしていた。

先ほどまで薔薇園にいたことが嘘のようだった。

頬を撫でる風が心地いい。

隣ではレオンハルトが笑っている。

「どうだ?」

「……高いわね」

「そこかよ」

思わず二人で笑った。

その笑い声が、自分でも驚くほど自然だった。

先ほどまで張り付いていた重苦しさが、どこにもない。

自由だった。

誰にも答えを用意されない。

誰にも行き先を決められない。

ただ空を飛んでいる。

それだけなのに。

胸の奥が軽かった。

やがて水晶竜は進路を変える。

向かう先はシュバルツ邸だった。

大きな庭の上空へ差しかかる。

使用人たちが慌ただしく外へ飛び出してくる姿が見えた。

「帰ったぞー!」

レオンハルトが手を振る。

誰に向けてなのか分からない。

たぶん全員だ。

水晶竜がゆっくりと高度を下げる。

着地。

地面が僅かに揺れた。

クラリスが降り立った瞬間だった。

「クラリス!」

真っ先に飛び出してきたのは真琴とフィオナだった。

そのまま勢いよく抱きつく。

「おかえり!」

「無事でよかったですぅぅぅ!」

「ちょっ……フィオナ、苦しい……」

「心配したんですからぁ!」

半泣きだった。

その後ろからメイドたちも駆け寄ってくる。

「お帰りなさいませ!」

「本当にご無事で!」

「心配いたしました!」

次々と声が飛ぶ。

クラリスは思わず笑った。

その様子を見ていたメイド長が、そっと目元を押さえる。

「まったく……皆、落ち着きなさい」

そう言いながら本人も少し涙ぐんでいた。

執事のアスターも静かに頭を下げる。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

その声は少しだけ震えていた。

さらに隣ではダークエルフのアリアがハンカチを握りしめている。

「うぅ……よかったぁ……」

完全にもらい泣きである。

「何でアリアさんまで泣いてるんですか……」

「だって感動するじゃないですか!」

クラリスは思わず吹き出した。

その時だった。

「いやー、一番の功労者は僕だからね?」

聞き慣れた声が響く。

リオだった。

いつの間にか皆の後ろに立っている。

「僕がいなかったら大変だったんだから」

「はいはい」

「扱いが雑!」

周囲から笑いが漏れた。

その空気が嬉しかった。

本当に帰って来たのだと実感する。

そして――

クラリスは視線を向けた。

そこにいた。

エマ。

グレアム。

そしてヴィクトル。

三人とも少し遅れて帰って来ていた。

先ほどまで王宮で共に戦っていた家族。

クラリスの視界が滲む。

気付けば走り出していた。

「お母様!」

エマが両腕を広げる。

クラリスはその胸に飛び込んだ。

「ただいま!」

「お帰りなさい」

優しい声だった。

頭を撫でる手が温かい。

グレアムも穏やかに笑う。

「よく頑張ったな」

その一言だけで涙が零れそうになる。

ヴィクトルも肩を竦めた。

「お疲れ様」

短い。

だがヴィクトルらしい言葉だった。

クラリスは笑う。

泣きながら。

笑う。

ようやく分かった。

王宮でもない。

薔薇園でもない。

婚約者候補でもない。

自分が帰りたかった場所は――

ここだったのだと。

シュバルツ家の庭に、穏やかな夕暮れが降りていた。



それから――

ようやく落ち着きを取り戻した頃。

クラリスはすっかりいつもの調子に戻っていた。

エマがテーブルの上に小さな箱を置く。

「あら、そうそう。王宮から持って帰って来たわよ」

「あっ!」

クラリスが慌てて受け取る。

例の小物入れだった。

両手で抱えるように持つ。

それだけで少し安心する。

「励まされたわ……」

ぽつりと漏らす。

「一人って、本当に心が折れそうだったもの」

部屋が少し静かになる。

あの薔薇園。

あの視線。

あの圧力。

思い出しただけで胃が重くなりそうだった。

グレアムが穏やかに微笑む。

「大変だったのだから、しばらくゆっくり休むといい」

クラリスは少し躊躇ってから尋ねた。

「あの……お父様。その後は大丈夫だったの?」

「ん?」

グレアムは紅茶を一口飲む。

「別に何も」

あまりにもあっさりした返事だった。

「正式な書簡のやり取りだ。問題ない」

クラリスが目を瞬かせる。

ヴィクトルが肩を竦めた。

「実際、決着はすぐだったよ」

「そうなの?」

「王様がね」

ヴィクトルは少しだけ笑う。

「アレクシス王子に向かって言ったんだよ」

『まだまだ勉強が足りない』

クラリスが目を見開く。

ヴィクトルは続けた。

「それだけ」

「え?」

「それだけで終わった」

グレアムも頷く。

「国王陛下としては、お前ではなくアレクシス王子を見ていたからな」

「……私ではなく?」

「次期国王として相応しいかどうか」

エマが紅茶を口に運びながら言う。

「だから皇后陛下も何も言わなかったわ」

「王様の判断に従いますってね」

「さっさと引き上げちゃったもの」

思い出したのか少し笑う。

クラリスは呆然とした。

あれだけ重かった薔薇園。

あれだけ逃げ場がなかった時間。

けれど王と皇后にとっては、自分ではなく。

アレクシス王子の方が見られていた。

「じゃあ……」

「うん」

ヴィクトルが頷く。

「たぶんだけど」

少しだけ意地悪そうな顔になる。

「一番怒られたのはアレクシス王子」

その瞬間。

真琴が吹き出した。

リオも肩を震わせる。

エマまで笑いを堪えている。

クラリスもつられて笑ってしまった。

ようやく。

本当に終わったのだと。

そう思えた。

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