【第2章】 第20話
【第2章】第20話 触れてはならない領域
領主館は、荒野と砂漠の荒れた土地とは到底思えない館だった。
庭は、緑溢れて、中庭には象徴のように噴水が絶え間ない水を流している。
——風もないのに、水面がわずかに揺れていた。
近くを通った使用人が一礼する。
その動きは丁寧だったが、わずかに——間が遅れていた。
クラリスが眉根を寄せた。
真琴が、その小さな異変に気づいて声をかけた。
「どうしたの?何か気になることでも?」
クラリスは、耳元にこそっと
「水がおかしいの。澄んで見えるのに澄んでない感じ?」
リオがそっと寄ってきて同様に囁いた。
「水を扱う者なら、わかるはずだ。どこが濃い?」
クラリスは、領主達に気づかれないように意識を集中した。
噴水の水の流れ。もっと奥。もっともっと…
背後で、別の使用人が水差しを運んでいた。
注がれた水が、ほんの一瞬だけ濁ったように見えたが——
誰もそれを気に留める様子はなかった。
真琴は心配して、クラリスの手をぎゅっと握る。
(魔法の制御は安定している。けど——どこか、削られるような違和感がある)
(リオが来てから、魔法の精度は確実に上がっている)
「見えた!オアシスの底に汚染魔獣の気配。形の気配から大型の亀…多分上位種ね」
「やはり、ここで上位種が出てきたか。おそらく街に蔓延るヴェールタス達とも繋がって、人間の洗脳している奴か」
遠くで控えていた使用人が、その言葉に反応するように顔を上げた。
だがすぐに、何事もなかったかのように視線を落とす。
リオは、ヴィクトル達にも通信機を使い、情報共有した。
「問題は二つだな」
「この館の中と——令嬢」
「……どちらが“先に壊れているか”だ」
⸻
案内を続ける領主は——
その表情は穏やかで、落ち着いている。
疲れの色すら見えない、整いすぎた笑み。
「娘の具合が優れず……お出迎えが遅れましたこと、お詫びいたします」
深々と頭を下げる。
その所作は丁寧で、淀みがない。
「医師も手を尽くしておりますが、問題はございません」
「すべて、正常の範囲内でございます」
——問題はない。
はっきりと、そう言い切った。
「少々、体調に波があるだけでして」
その声音には、不安も焦りもない。
ただ“そういうものだ”と受け入れている響き。
真琴は、わずかに目を細めた。
(……本当に?)
「もしよろしければ、ご令嬢の様子を拝見しても?」
クラリスが一歩前に出る。
領主は、すぐに頷いた。
迷いはない。
「ええ、もちろんでございます」
「娘も、きっと喜ぶでしょう」
——その言葉の直後。
廊下の奥から、かすかな笑い声が聞こえた。
鈴のように、軽い音。
だが——
それは“楽しさ”ではなく、
“そうあるべきだから笑っている音”だった。
リオの視線が、わずかに細まる。
「案内を頼もう」
領主は静かに頷いた。
「こちらへ」
歩き出す背中を見ながら、真琴は小さく息を呑む。
(この館——やっぱり、おかしい)
部屋に入ると、エイルシアはベッドに腰掛けていた。
先ほどと変わらぬ、儚げな姿。
「……来たのね」
小さく微笑む。
その表情は、先程と同じように“人らしい”。
「さっきはごめんなさい。少し、言い過ぎたかも」
「気にしなくていいよ」
真琴が柔らかく返す。
エイルシアは、ほっとしたように目を細めた。
「ありがとう。……優しいのね」
——その言葉に、ほんのわずかに“引っかかり”があった。
まるで、
“誰かの言葉をなぞっただけ”のような響き。
クラリスの視線が、わずかに揺れる。
「体調の方はどうですの?」
「ええ、いつものことよ」
エイルシアは淡々と答える。
「少し、身体が重いだけ」
「でも——問題ないわ」
その瞬間。
彼女の表情が、ふっと消えた。
感情が抜け落ちたような、空白。
「だって、私は——」
言葉が続きかけて、止まる。
一拍。
「……大丈夫だから」
次の瞬間には、元の微笑みに戻っていた。
何事もなかったかのように。
だが。
真琴は、その違和感を見逃さなかった。
(今の……なに?)
「……っ」
エイルシアの呼吸が乱れる。
空気がわずかに歪んだ。
「来る……!」
クラリスが叫ぶ。
次の瞬間、エイルシアの瞳から光が消えた。
——そして。
「揃えなさい」
低く、感情のない声。
それは先ほどの彼女のものではなかった。
フィオナが即座に動く。
「抑えます!」
淡い光がエイルシアを包む。
だが——
「これは……精神側に侵食が……!」
「完全には止められない……!」
真琴が一歩踏み出す。
「エイルシア!」
反応はない。
「聞こえてるでしょ!」
一瞬だけ、瞳が揺れた。
「さっき、自分で言ってたじゃん」
「この街、おかしいって」
「それ、ちゃんと“自分で考えた”んでしょ?」
沈黙。
押し潰すような圧が空間を満たす。
「なら——」
真琴は、強く言い切る。
「そっちに揃う必要なんてない!」
その言葉に。
ほんのわずかに。
エイルシアの指が、震えた。
「……っ」
次の瞬間、彼女はこめかみを強く押さえた。
「いた……っ」
呼吸が乱れる。視界が揺れる。
「……なに、これ……」
指先が、小さく震えている。
「……大丈夫」
無理やり顔を上げる。
「これくらい……いつものことだから」
だが、その声はかすかに揺れていた。
「……この感じ……」
眉をひそめる。
「どこかで……」
言葉が、途切れる。
「……なに、これ……」
ゆっくりと、顔を上げる。
怯えと、戸惑いと——
わずかな“理解しかけている感覚”。
「……触れてる……?」
小さく、呟く。
「違う……」
首を振る。
「触れられてるんじゃない……」
息を呑む。
「——私が、触れてる……?」
「……触れる……」
その瞬間。
——暗転。
音が消える。
感覚が、引きずり込まれる。
——揃っている。
——すべてが。
——乱れは、不要。
それは言葉ではなかった。
“意思”そのものが流れ込んでくる。
「っ——やめろ!」
リオの声で、意識が引き戻される。
エイルシアが崩れ落ちた。
「……今の……なに……」
真琴は、息を呑む。
(あれが——)
「……本体か」
リオの目が細くなる。
「やめておけ」
即座に、低く言い切る。
「それは“使うもの”ではない」
エイルシアは、ふっと笑った。
「でも——必要なんでしょ?」
その言葉に、空気が張り詰める。
「この街の奥にいる“何か”に触れるには」
「これしか、ない」
沈黙。
真琴は、一歩踏み出す。
「……使うなら」
全員の視線が集まる。
「一人でやるな」
エイルシアが、わずかに目を見開く。
「絶対、引き戻すから」
「——どこまで行っても」
——その言葉が、わずかに“何か”に触れた気がした。
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