【第3章】 第78話

【第3章】第78話 知らないという事は、無敵に近い


知らないという事は、
ある意味——無敵に近い。

想像は出来る。

本で知識も得た。
ありとあらゆるイレギュラーを想定し、
対抗策も頭に叩き込んだ。

だが、
実践に勝る教訓は存在しない。



「固定」

テレシアの声が飛ぶ。

その瞬間、
真琴の両腕に重い圧が掛かった。

水晶化が進行した腕。

そこへ、
ヒュドラ由来の再生組織を移植する。

言葉にすれば簡単だ。

だが実際は——
“異物”同士を、
無理矢理ひとつの肉体へ押し込む行為に近い。

「っ……!」

クラリスが息を呑む。

切開された患部から、
淡い光を帯びた結晶組織が露出していた。

血ではない。

砕けた鉱石のような、
鈍い破片。

普通の治療ではない事を、
嫌でも理解させられる光景だった。

「動かすな。
境界面が崩れる」

テレシアは、迷いなく器具を滑らせる。

その額には汗。
だが手だけは、異様なほど静かだった。

「再生が始まるぞ」

リオの声。

次の瞬間。

移植された組織が、脈打った。

どくん——

生き物のように。

いや、
生き物そのものだ。

「あ……」

ヴィクトルが低く漏らす。

移植片が、
傷口へ根を張るように伸び始める。

赤黒い筋。

血管とも違う。

触手じみた再生組織が、
結晶部分へ侵食を始めていた。

「拒絶反応じゃない……!
喰ってる!」

クラリスの声が震える。

正常な肉を治すのではない。
異常を、別の異常で上書きしている。

その事実に、背筋が冷えた。

「ここからが本番だよ」

テレシアが短く言う。

「ヒュドラの再生は、“元に戻そう”とする。
でも、この子の身体は既に別物だ」

器具を持つ手に、僅かに力が入った。

「つまり——
どちらの異常が、身体の“正常”として定着するかの奪い合いになる」

空気が張り詰める。

真琴は、初めて理解した。

これは治療じゃない。

肉体の定義そのものを、書き換える作業なのだと。

魔法ログも万能ではない。
メスの1ミリが生死を分けるように、
1文字の間違いは許されない。

次々に開いていく肉体の定義。
再生を読み解き、
正常の理解と箇所の固定化。

正常と正常。
異常と異能。

魔法が存在する世界だからこそ、
真琴の知らない“現実”がある。

ふらっと倒れそうになる真琴を、
レオンハルトとリオが支えた。

「落ち着いて。大丈夫、上手く行ってる」

リオも空間制御で手一杯なのに、
短く声を投げる。

ヴィクトルとクラリスは、
余計な介入を避けるため、
ガラス越しの手術室のように外から見守っていた。



そして、変化は静かに収束していく。

ヒュドラの再生は暴走せず、
“生きたままの安定”へと落ち着いた。

「……維持成功ね」

テレシアが息を吐く。

「殺してないわよ。ちゃんと“生きてる”」

その一言で、
ようやく全員の肩から力が抜けた。



「……終わったか」

ヴィクトルが呟く。

だが誰も即座には動けなかった。

今までの戦闘よりも何よりも、
過酷な時間だった。

真琴は膝をつき、
そのまま床に手をつく。

「……無理……」

リオも苦笑したまま座り込む。

テレシアでさえ、珍しく大きく息を吐いた。



その後、全員が倒れ込むように眠りへ落ちた。

戦闘よりも重い“作業”の後の、
限界を超えた沈黙。

クラリスとヴィクトルは、
そっと全員に布団をかける。

まだ終わりではない。
だが今だけは——

次へ進むための、貪るような休息が必要だった。

だが眠りは浅く、
誰も完全には休めていなかった。



沈黙は、まだ完全にはほどけていなかった。

眠りに落ちた者もいる。
意識を繋ぎ止めている者もいる。

だが——空気だけは、確実に重いままだった。

「……次よ」

テレシアの声が静かに落ちる。

誰も返事をしない。
できなかった、という方が正しい。

視線の先。

別の区画へと移された影があった。

エマ。

その名を口にする者は、ここにはほとんどいない。
それほどまでに、“人として扱うには危ういもの”になっていた。

「……行くか」

リオが短く言う。

全員が無言でポーションを飲み干す。
それが、合図だった。

空間が歪む。

次の瞬間、視界が切り替わる。



そこは、医療という言葉からは程遠い空間だった。

光は一定ではない。
壁も床も、固定された“物質”ではない。

揺らいでいる。

そこに横たわっているエマは——

「……これは」

ヴィクトルが言葉を失う。

“人間の形”をしている。

だがそれだけだ。

皮膚の境界が、ところどころ曖昧だった。
空気と肉体の境目が、溶けている。

呼吸はある。

それがむしろ異常だった。

生きているのに、
存在の輪郭が保たれていない。

「定義が……崩れてる」

クラリスが呟く。

「崩れてる、じゃないわね」

テレシアは淡々と修正する。

「“固定されていない”」

真琴は一歩、踏み出そうとして——止まった。

近づいてはいけない、と直感が告げていた。

これは怪我ではない。
病気でもない。

“存在の仕様書が欠落している”。

そんな感覚だった。

「人間として認識するには、遅れてるわね」

リオが静かに言う。

空間の観測データを展開しているが、
そのどれもが途中で途切れている。

情報として成立していない。

「ヒュドラとは逆よ」

テレシアが続ける。

「さっきは“過剰な定義”だった。
でもこれは——“定義そのものが抜け落ちている”」

沈黙。

重さがさらに増す。

「治療方針は?」

ヴィクトルが問う。

テレシアは一拍置いてから、短く答えた。

「修復じゃないわ」

刃を手に取る。

「一度、“存在としての枠組み”を作り直す」

空気が凍る。

クラリスが息を呑む。

「それって……」

「ええ」

テレシアはエマを見たまま言う。

「今そこにあるのは“人間”じゃない。
だから、人間に戻すんじゃない」

視線が鋭くなる。

「“人間として成立する状態”を作るのよ」

リオが小さく笑った。

「かなり無茶だね」

「無茶でもやるしかない」

その言葉には、迷いがなかった。

真琴は喉が詰まるのを感じた。

助ける、という感覚がどこにもない。

ただ——

“構築する”。

それだけだった。



「開始するわ」

テレシアが言った瞬間、空間が反転した。

エマの周囲に、幾何学的な術式が展開される。

それは魔法ではなく——

設計図だった。

存在そのものの。

「固定座標、再構築開始」

リオが空間を制御する。

「境界線生成」

ヴィクトルが補助する。

クラリスは、ただ祈るように見ている。

そして真琴は——

その光景を“理解しようとしてしまったこと”を後悔しかけていた。

見てはいけない領域。

人間が人間を作り直すという行為は、
優しさではなく、暴力に近い。



エマの身体が、一瞬だけ痙攣した。

だが悲鳴はない。

声を出す“枠”すら、まだ与えられていない。

「まだ始まりよ」

テレシアの声は冷たい。

「ここから先は、“人”を作る作業になる」

空間が軋む。

世界そのものが、ほんの僅かに“定義を書き換えられる側”へと傾いていく。

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