【第3章】 第77話

【第3章】第77話 正常という呪い

――正常という呪い

魔物というのは、
人間でいう所の“心臓”にあたる部分が
死んだ瞬間に魔石へと変化する。

では、
再生能力の化け物であるヒュドラの場合はどうなのか。

九つの頭。

その全てを同時に潰さなければ死なない――
そんな伝承すら存在する怪物である。

「実際には、
少し違うんだよ」

潮騒の魔女――
テレシアは、
静かにそう語った。

机の上には、
リオがまとめた資料と、
テレシアの診察記録が並べられている。

「ヒュドラは、
頭ごとに“核”を持っている。
ただし、
完全に独立している訳じゃない」

「一つの核が破壊されても、
他の核から再生情報が流れ込む。
だから再生する」

「つまり、
バックアップが分散してる感じ?」

真琴が言うと、
リオが頷いた。

「近いな。
あれは、
単純な再生じゃない」

リオは、
資料を指先で軽く叩く。

「“状態を共有している”んだ」

ヴィクトルが腕を組む。

「共有……」

「ヒュドラ全体で、
“正常な状態”を記録している」

リオは、
一枚資料をめくった。

「だから、
一つの頭が潰れても、
他の部分が
『正常状態との差異』として認識する」

「それで修復が始まる訳か」

レオンハルトが低く呟く。

真琴は、
そこでふと目を細めた。

「……それってさ」

皆の視線が集まる。

「ヴィクトル達の両親と、
ちょっと似てない?」

空気が静かに止まった。

テレシアが、
小さく息を吐く。

「気付いたかい」

彼女は、
診察記録へ視線を落とした。

「結晶化は、
肉体情報の固定に近い」

「固定?」

クラリスが、
疲れた表情のまま顔を上げる。

「身体が、
“異常状態”を正常だと認識しているんだよ」

静かな声だった。

「だから、
回復魔法を掛けても戻らない。
治癒しても、
身体がまた同じ状態へ戻ろうとする」

「傷を治してるんじゃなく、
状態を書き戻してる感じか」

ヴィクトルが低く呟く。

リオが頷いた。

「そして、
ヒュドラは逆に、
“正常状態への復帰”を極端に強化した存在だ」

真琴は、
ゆっくりと息を吐いた。

「だからこそ、
水晶竜が必要だった」

部屋が静まり返る。

セラフィナが、
静かに口を開いた。

「“固定された状態”を書き換える為」

その声音は、
どこか硬い。

「私の力は、
本来そこに近いものだから」

壁にもたれていたルナミナが、
珍しく真面目な顔をする。

「でも、
無理矢理やれば壊れる」

「そうだねぇ」

テレシアは、
苦い顔をした。

「下手をすれば、
身体の情報そのものが崩壊する」

「だから、
ヒュドラの再生構造を参考にする必要があった」

リオが資料を閉じる。

「自己修復ではなく、
“正常状態への誘導”」

真琴は、
静かに目を伏せた。

「……治せるかもしれない」

その呟きに、
クラリスの肩が小さく震えた。

「まだ、
確証はないよ?」

テレシアが釘を刺す。

「相手は、
長期間固定された異常状態だ。
しかも結晶竜の影響が深い」

「わかってる」

真琴は、
静かに頷いた。

「でも、
方法は見えてきた」

ヴィクトルは、
何も言わなかった。

ただ、
その横顔だけが、
僅かに俯いていた。

希望を持つには、
まだ怖すぎたのだろう。

だから誰も、
軽々しく“治る”とは言わなかった。

それでも。

止まっていたものが、
少しだけ動き始めていた。



問題は、
時間が残されていない事だった。

グレアム・シュバルツの容態は深刻で、
現在は鎮静剤を切らさぬよう投与しながら、
ほぼ寝たきりの状態にある。

若い頃に鍛え上げた肉体。
それが辛うじて、
崩壊を先延ばしにしているに過ぎない。

テレシアは、
重く息を吐いた。

「正直、
いつ急変してもおかしくない」

その言葉に、
部屋の空気が更に沈む。

ヴィクトルは、
静かに立ち上がった。

そして――
深く頭を下げる。

「既に、
両親からは治療への同意を貰っている」

握られた拳が、
微かに震えていた。

「リスクも理解した上だ。
……それでも、
やって貰いたい」

その隣で、
クラリスも唇を噛み締めながら頷く。

涙を堪えているのが、
誰の目にも分かった。

真琴は、
その姿を静かに見つめる。

軽々しく、
大丈夫だとは言えない。

失敗すれば、
取り返しのつかない事になる。

だが。

それでも。

進まなければ、
何も変わらない。

リオが、
静かに目を閉じた。

「――なら、
準備を始めよう」

誰も、
反対はしなかった。

誰も、
反対はしなかった。



それは、
単純な治療ではない。

一種の“総力戦”だった。

結晶化した肉体を維持しながら、
崩壊を防ぎ、
正常状態へ誘導し直す。

その為には、
複数の工程を同時進行で成立させなければならない。

「まず、
治療環境の確保が必要だ」

リオが資料を広げる。

「外部干渉を遮断する。
術式暴走もあり得る以上、
普通の医療施設じゃ耐えられない」

「場所については、
私が狭間側で固定する」

セラフィナが静かに告げた。

「ヒュドラも部分的に解放する必要がある。
再生情報の流れを観測しなければ、
正常状態への誘導が出来ない」

「随分と物騒な話だねぇ……」

そう言いながらも、
テレシアの表情は真剣だった。

「なら、
私は肉体維持に集中するよ。
拒絶反応、結晶侵食、循環異常――
どれか一つ崩れても終わりだからね」

フィオナも静かに拳を握る。

「大量出血や、
内臓負荷への対応は私が行います。
治療中は、
身体そのものが暴走する可能性がありますから」

誰も、
軽い気持ちでは口を開いていない。

これは、
失敗すれば命を落とす治療だ。

そして――

真琴へ視線が集まる。

「最後に」

リオが静かに言った。

「固定された“異常”を、
正常へ書き換える」

真琴は、
静かに息を吐く。

「……ログ改変」

それは、
この世界の“状態”そのものへ干渉する行為。

だからこそ、
誰にも代われない。

部屋の空気が、
重く沈む。

だが。

「やるしかないよね」

真琴のその言葉に、
誰も異論を挟まなかった。


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