【第2章】 第15話
第15話 影に溶けるもの
執事アスターは、シュバルツ邸の奥——閉ざされた一室の前に立っていた。
先代領主の執務室。
扉が閉ざされてから、十五年が過ぎている。
「……今になって開けることになるとは」
小さく息を落とし、静かに扉へ手をかけた。
軋む音が、やけに大きく廊下に響く。
室内は、時が止まったままだった。
整えられた書棚。
埃ひとつ乱れていない机。
まるで、主が今も戻ってくるのを待っているかのように。
だが——
「……?」
アスターの視線が、わずかに止まる。
机上の書類が、ほんの数枚だけ位置を変えていた。
風も入らぬこの部屋で、それはあまりにも不自然だった。
「……誰かが、触れた?」
否定の方が早いはずの疑問が、喉の奥に残る。
そのときだった。
視界の端で、何かが揺れた。
黒い“点”。
虫とも言い切れぬ、小さな影。
音はない。羽ばたきもない。
ただ一瞬、そこに“存在していた”とだけ認識できる異物。
「……虫、ですかな」
そう言いかけて、アスターは言葉を飲み込む。
この部屋に、自然に入り込めるはずがない。
十五年、封じられていた空間だ。
それでも——追うべきではない、と直感が告げていた。
黒い点は、窓際へも壁際へも向かわない。
ただ、ゆっくりと。
まるで“視線”そのもののように、室内を一巡し——
壁に掛けられた肖像画の影へと、溶けるように消えた。
「……気のせい、ではありますまいな」
アスターは低く呟き、視線を上げる。
肖像画の中には、穏やかに微笑む先代領主夫妻の姿。
「ヴィクトル様も、クラリス様も……お二人によく似ていらっしゃる」
その声は静かだったが、どこか硬い。
「似ているからこそ……残るものもあるのでしょうな」
そして、誰にも届かない独り言のように続ける。
「……あるいは、残されているのかもしれませんが」
⸻
シュバルツ邸前。
「こちらはいけません。——はい、こちらの鞄をお持ちください」
「アスター、それには重要な書類が入っているんだ! それにそのマスクとマントは——」
門前で、執事アスターとヴィクトルが絶賛揉めていた。
原因は単純。ヴィクトルがどうしても持って行きたい“例の装備”——ペストマスクと黒マント、そして書類ぎっしりの鞄である。
「もし旅先でそれらを紛失された場合、責任はどなたがお取りになるおつもりですか?」
「ぐっ……!」
正論で殴られ、ヴィクトルは言葉に詰まる。
「お兄様、諦めてください」
クラリスは一刀両断だった。
「アスターの判断が正しいと思います。というか、どうしてそれを砂漠に持っていこうと思ったのですか?」
「研究者としての矜持だ!」
「砂に埋もれる未来しか見えません」
即死である。
そんな兄妹のやり取りをよそに、クラリス本人はすでに準備万端。どこぞの冒険譚から抜け出してきたような装いで、わくわくした様子すら隠していない。
一方その隣では——
「ドワーフ製のマジックボックスと伺いましたので、保存食をお詰めしました」「こちらは日持ちするおやつです。それと——バナナです」
メイド長とコック長に囲まれ、リオが神妙な顔で頷いている。
「なお、バナナはおやつには含まれません」
(いや何その絶対ルール)
真琴は思わず心の中で突っ込んだ。
(ていうか、なんでそんな大事そうに言うの)
「大事なことですので」
(聞こえてた!?)
びくりと肩を震わせる真琴。
フィオナとレオンハルトは、そんな騒ぎなどどこ吹く風で、淡々と荷を馬車へ積み込んでいる。
「おーい、早くしろよー!」
レオンハルトの声が飛ぶ。
今回の旅は、まず五日。シュバルツ家の馬車で砂漠の手前まで向かう予定だ。
——そこから先は、未知の領域。
案内人を雇うか、ラクダを使うか、それとも徒歩か。
本当の意味での“旅”は、まだ始まってすらいなかった。
馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を離れ、やがて街道へ。
御者台にはレオンハルトの姿があった。手綱を握りながらも、その視線は周囲へと鋭く配られている。
(あの人……普通に運転してるけど)
真琴は馬車の窓からその背中を眺め、小さく首を傾げた。
(護衛っていうか、もう完全に旅慣れてる感じじゃない?)
ふと気になり、隣に座るフィオナへと視線を向ける。
「ねえ、フィオナ」
「何でしょう?」
「レオンハルトってさ……神殿の護衛騎士、もう辞めたの?」
問いは軽いものだった。
だが——
「……辞めた、というよりは」
フィオナはわずかに言葉を選び、続ける。
「“戻る場所がない”と言った方が正しいかもしれませんね」
「え……?」
予想外の言葉に、真琴は思わず目を瞬かせた。
「本人はあまり語りませんが……色々と事情があるのです」
そう言って、フィオナはそれ以上を語ろうとはしなかった。
馬車の揺れに合わせて、沈黙が小さく揺れる。
再び窓の外へ視線を向ける真琴。
御者台のレオンハルトは、何事もなかったかのように前を見据えていた。
——だから引き戻す。
「レオン! 馬車でウィリーはやめてねー!」
「ウィリー? 何だそれ?」
後ろを振り向いた拍子に、手綱が引かれる。
ガタンッ!!
「それそれ! 前が浮くやつ!」
「真琴! お前ヤバい奴だな〜!」
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