【第5章】 第114話

【第5章】第114話 名前だけが残る


王都・魔法庁外郭区画。

夜明け前。

空はまだ暗く、街の喧騒も薄い時間帯だった。

その静けさの中を、ヴィクトルとリオは言葉少なに進んでいた。

「ここだ」

リオが足を止める。

目の前には、石造りの小さな搬入口。
今では使われていないはずの旧搬入ルートの入口だった。

蔦が絡み、扉の金具は錆びている。
だが――その“錆び方”が不自然に均一だった。

ヴィクトルは眉をひそめる。

「……本当に使われてないのか?」

「普通はな」

リオは短く返す。

「でも、“普通じゃないやつ”が絡んでる」

鍵はすでに外されていた。

いや、外されたというより――最初から“閉じる必要がなかった”ような状態。

ヴィクトルはゆっくりと扉に手をかける。

重い。

だが抵抗は少ない。

ギィ……と鈍い音を立てて、扉は開いた。

中は暗い。

光がほとんど入らない通路が、奥へと続いている。

「……妙だな」

ヴィクトルが呟く。

リオも頷く。

「空気が“死んでる”」

湿気でもない。
魔力の残滓でもない。

ただ、情報が抜け落ちたような空白。

まるで“ここで起きた出来事だけが記録されていない”ような感覚だった。

一歩踏み込む。

その瞬間。

空気の質が変わった。

「……来るぞ」

リオの声が低くなる。

しかし、敵の気配ではない。

“監視”だ。

視線でも魔力でもない。
もっと曖昧で、構造的な圧。

ヴィクトルは歯を食いしばる。

「これ……魔法庁の内部管理か?」

「違う」

リオは即答した。

「“管理してる側のさらに上”だ」

通路の壁には、古い魔導灯が等間隔に並んでいる。

だがその灯りは、一定の位置だけ“微妙にズレていた”。

規則性があるのに、完全ではない。

それが逆に気味が悪い。

「設計はされてる」

リオが言う。

「でも“途中で書き換えられてる”」

ヴィクトルは足を止めた。

「書き換え?」

「そう。ここ、“二重構造”だ」

リオは壁に手を触れる。

微かな魔力反応。

だがそれは“過去の記録”ではなく――“現在進行形の監視”だった。

「誰かが見てる」

ヴィクトルが低く言う。

「いや」

リオは首を振る。

「“見てるという状態を維持してる”」

意味が違う。

監視ではなく、監視そのものを“システムとして固定している”。

ヴィクトルの背筋に冷たいものが走る。

「クラリスの件と関係あるのか?」

リオは一拍置いた。

「濃いな」

短い答え。

それ以上説明はしない。

必要ないからだ。

二人はさらに奥へ進む。

やがて、通路の先に広い空間が見えてきた。

旧搬入区画の中枢。

だがそこは“倉庫”ではなかった。

何もない。

あるはずの棚も、荷物も、記録も。

ただ、空白だけが広がっている。

「……消されてる」

ヴィクトルが呟く。

リオは静かに言う。

「違う」

「消したんじゃない」

「“最初から存在しなかったことにされてる”」

その瞬間だった。

空間の奥で、微かな音がした。

カチ、と。

何かが“切り替わる音”。

ヴィクトルが身構える。

だが敵はいない。

代わりに――空間そのものが一瞬だけ“揺れた”。

「今のは……」

「境界の更新だ」

リオの声が低い。

「ここ、定期的に“状態を書き換えられてる”」

ヴィクトルは息を飲む。

「誰がそんなことを」

リオは答えなかった。

答えられないのではなく、まだ“確定させたくない”のだ。

ただ一つだけ、視線を上げて言う。

「クラリスの周辺、完全に“管理領域”だな」

その言葉が落ちた瞬間。

空間の奥で、わずかに光が走った。

まるで――誰かがこちらを認識したかのように。

ヴィクトルは一歩前に出る。

「行けるのか」

リオは短く息を吐いた。

「行くしかないだろ」

そして二人は、空白のさらに奥へ進んだ。

王都の裏側に存在する、“記録されない領域”へ。



旧搬入区画・最奥。

空白の空間の中心に、ひとつだけ異質なものがあった。

それは“記録台”だった。

古い魔導式の閲覧装置。

だが、通常の書庫や研究室にあるような整ったものではない。

むしろ――途中で放置されたような、不完全な機構。

「……これだ」

リオが低く呟く。

ヴィクトルは無言で近づいた。

装置の表面には、薄い魔力の膜が張られている。

触れれば反応するタイプだ。

「開くぞ」

リオの声に、ヴィクトルは一瞬だけ息を止める。

そして頷いた。

「……ああ」

リオが魔力を流す。

瞬間。

装置が淡く光った。

空間に、文字列が浮かび上がる。

しかし――それは通常の記録ではなかった。

欠けている。

削られている。

空白が“最初からそこにあった”かのように、情報が存在しない。

ヴィクトルの視線が一点に止まる。

「……名前だけ、か」

そこにあったのは、ひとつの行だけだった。

――クラリス・シュバルツ

それ以外は、すべて空白。

生年月日。所属。研究履歴。魔法適性。交友記録。

全ての項目が“未定義”として処理されている。

「嘘だろ……」

ヴィクトルの声がわずかに震える。

「登録されてないんじゃない」

リオが静かに言う。

「“存在しない扱いに固定されてる”」

ヴィクトルは一歩近づく。

指先が震える。

「そんなの……ただのバグだろ」

リオは首を振る。

「バグなら修正される」

「これは修正されてない」

「“維持されてる”」

その言葉で、空気が重く沈んだ。

ヴィクトルは装置を睨む。

再度、魔力を流す。

すると――一瞬だけ、別の反応が返ってきた。

“アクセス権限不足”

ではない。

もっと異質だった。

――閲覧権限:存在しません

「……は?」

ヴィクトルの呼吸が止まる。

「権限がないんじゃない」

リオが目を細める。

「“権限という概念の外に置かれてる”」

装置が微かに震える。

まるで、何かに“見つかった”かのように。

次の瞬間。

空間の奥で、低いノイズが走った。

ザ……ッ

記録台の光が一瞬だけ歪む。

そして、ヴィクトルの視界に“もう一つの影”が差した。

ほんの一瞬。

クラリスの名前の横に、消えかけた赤い痕跡。

だがそれはすぐに消える。

「今の……見えたか?」

ヴィクトルが呟く。

リオは答えない。

だが、その沈黙が答えだった。

ヴィクトルは拳を握りしめる。

「……何をしたんだ、これ」

声は怒りではなく、理解不能への恐怖だった。

リオはゆっくり息を吐く。

「“記録を消した”んじゃない」

「“記録できない状態にしてる”」

ヴィクトルは歯を食いしばる。

「じゃあクラリスは……」

言いかけて、止まる。

その先を言うのが怖かった。

リオは短く答えた。

「いる」

「でも、このシステムの中では“扱えない”」

沈黙。

空間が、やけに静かだった。

まるでこの場所だけが世界から切り離されているように。

ヴィクトルは一歩後退する。

「……こんなの、管理じゃない」

リオは目を細める。

「そうだな」

「これは“固定”だ」

その言葉が落ちた瞬間。

装置の光が、再び微かに揺れた。

そして――

どこか遠くで、何かが“こちらを見た”。

ヴィクトルの背中に冷たいものが走る。

だがもう、後戻りはできなかった。

リオが静かに言う。

「ヴィクトル」

「見えたもの、忘れるなよ」

ヴィクトルは、ただ頷いた。

その目はもう、揺れていなかった。

代わりに――深く沈んでいた。

そして二人は、空白の奥へさらに踏み込む。

まだ“名前だけが残る場所”の、その先へ。


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