【第5章】 第121話
【第5章】第121話 皇后陛下のサイン
皇后陛下は、書類にサインをしていた。
「私、アレクシスに恨まれてしまうわね」
書き上げ、クラリスに渡す。
全ての書類を確認する。
リオにも確認してもらった。
「確かに全ての書類にサインをしていただきました」
「でも、アレクシスはしつこいわよ?まずはこの王宮を出ていけるかしら?」
皇后陛下は、リオを見た。
「この王宮、“入る”より“出る”方が面倒なのよ」
空間転移の魔法で出ては、攫われたといらぬ罪に取られるだろう。
だが、クラリスは皇后陛下ににっこりと笑い、
「母から皇后陛下に庭園での薔薇鑑賞会を依頼していませんでしたか?」
「ああ、来てたわね。この王都に住まう全ての貴族令嬢を招待し、薔薇鑑賞会に乗じてアレクシスも参加を依頼していたわ」
「でしょうね。目立つこと好きな方ですもの」
「耳が痛いわ。アレクシスは、その場で貴女のお披露目をしたかったのでしょうね」
「おそらく。薔薇鑑賞会は、何日になりますか?」
「20日よ」
「承りました。では失礼いたします」
クラリスは、リオと一緒に王宮の部屋に戻った。
「じゃ、僕は家に帰るけど、エマに20日に決行と伝えればいいの?」
「そうね。真琴たちは?」
「戻って来たよ。いつもと変わらずね」
「何か言っていた?」
「聞きたい?」リオは、意味深に聞き返した。
「聞かない方が楽しそうね」
「へー、クラリスも随分と変わったね」
「変わった?自分じゃわからないわ」
「じゃ、20日楽しみにしてるよ。何かあったら窓に向かって伝書鳩って言えばすぐ飛んでくるから」
「鳩が?」
「鳩が!もう、本当に真琴化してるんだから」
リオが去ってから、部屋に静けさが戻った。
扉の閉まる音が、やけに遠く感じる。
「……真琴化、ね」
クラリスは小さく繰り返し、思わずくすくすと声を漏らした。
鳩が飛ぶ王宮。
窓に向かって「伝書鳩」と言えば飛んでくる世界。
常識から少しだけずれたその軽さが、今は妙に心地よい。
だが、その軽さの裏にあるものも、クラリスは理解していた。
“いつもと変わらない”という報告。
そして、何も言わない真琴たち。
それは平穏ではない。
むしろ——準備が整っている沈黙だ。
クラリスは書類の束に視線を落とす。
そこに並ぶ皇后陛下の署名は、王宮の均衡を一度“外側へずらす”ための鍵でもある。
(アレクシスは、必ず来る)
そして来た時、薔薇鑑賞会はただの社交場ではなくなる。
“選別”と“提示”の場になる。
クラリスはゆっくりと息を吐いた。
「……20日」
その一言は、誰に向けたものでもない。
だが、確かに誰かへ届くように落ちた。
窓の外では、風が庭園の方へ流れていく。
まるで、その日を待っているかのように。
クラリスは一度だけ目を閉じて、静かに書類を揃えた。
「では……準備を進めましょうか」
声は淡く、けれど揺るぎがなかった。
⸻
一方のシュバルツ邸。
王宮から戻ったリオは、執務室へ直行した。
グレアム、エマ、そしてヴィクトルの前に立ち、短く息を吐く。
「……クラリス側、動いた」
その一言で、空気が引き締まった。
「皇后陛下からの書簡も届いています」
エマが即座に補足する。
「薔薇鑑賞会、20日開催。正式に“場”が整いました」
リオは頷き、視線を巡らせる。
「で、真琴たちにも共有」
「了解」
エマの指示は早かった。
⸻
少し後。
リオはそのまま真琴の元へ向かった。
「真琴ー、20日が決行日!準備はいい?」
「準備かぁ……今回は私もフィオナも王宮には入れないしなぁ」
真琴は肩をすくめる。
貴族でもない以上、招待状は当然ない。
つまり、内部潜入は不可。
だが——それは問題ではなかった。
「なぁーんてね!」
真琴はぱっと顔を上げる。
「リオ、古代遺跡まで速攻で行って来てくれる?」
「はあ!?」
リオの声が裏返る。
「またそれ!?人使い荒すぎるでしょ!!」
「仕方ないじゃない。空間転移なんて誰でもできるわけじゃないんだから」
フィオナが淡々と追撃する。
「正論やめてよ、余計つらいから!」
リオは頭を抱えた。
それでも、真琴の表情は冗談ではない。
むしろ妙に落ち着いている。
「で、行ってどうするのさ」
その問いに、真琴は一拍置いた。
そして、静かに言う。
「レオンハルトは、もう理解してるわ」
リオの視線がわずかに鋭くなる。
「……つまり?」
真琴はにやりと笑った。
「派手に目立ってもらいましょうよ」
空気が一瞬止まる。
ヴィクトルが低く息を吐いた。
「つまり、王都規模で“視線”を引きつける」
「確実な目撃者を用意して、皇后陛下の書簡が正式返答にサインしたとしなければならない」
真琴は軽くサムズアップする。
「アレクシスに“選ばせない状況”を作る」
リオは顔を引きつらせた。
「いやそれ……結構どころじゃなく大事件なんだけど」
「うん、大事件にする」
即答だった。
迷いはない。
“薔薇鑑賞会”という静かな社交場に対し、
こちらは最初から別の答えを用意している。
レオンハルトの存在。
古代遺跡。
そして王都の視線の分散。
それらが一つに噛み合った時——
盤面は強制的に“別ルート”へ切り替わる。
リオは深く息を吐いた。
「……ほんと、毎回ギリギリの綱渡りだよね」
真琴は笑った。
「落ちなきゃセーフでしょ?」
「その理屈怖いんだけど!」
それでも。
誰も止めなかった。
止められなかったのではない。
もう“止める側”ではなくなっている。
リオは軽く手を振った。
「わかったよ……行ってくる」
その背中に、真琴がひとことだけ投げる。
「お願いね」
そして、空間が揺れた。
リオの姿が消える。
残ったのは、静けさと——
20日へ向けて動き始めた、確かな圧だった。
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