【第2章】 第18話


【第2章】第18話 優しすぎる街


話は遡る。

黒曜石の城——人界から遠く隔絶された、魔人たちの居城。

静まり返った廊下を、セラフィナは一人歩いていた。

ふいに、空間が歪む。

黒い煙が渦を巻き、塊となって浮かび上がる。

——黒炎玉。

お父様が使う、通信の魔獣。

「セラフィナ」

低く、感情のない声が響く。

「水晶竜の生息が確認された。私の元に、かの竜の心臓を持って来い」

それだけだった。

返事を待つこともなく、黒炎玉は霧散する。

沈黙。

いつの間にか、セラフィナの手元には
ガラスケースに収められた一枚の鱗があった。

淡く、光を帯びている。

「……相変わらずね」

セラフィナは小さく息を吐いた。

「姿も見せずに、命令だけ」

わずかに眉をひそめる。

最後に顔を見たのは、いつだったか。

思い出そうとして——やめた。

「……まあいいわ」

指先で、ケースをなぞる。

その瞳は、どこか冷えていた。

「従えばいいのでしょう?」

静かな廊下に、声が溶ける。

——その奥で、何かが“かすかに乱れた”。



砂漠の入口に位置する街、ボルボロ。
荒野とオアシス、その狭間にある小さな拠点だ。

人口は数千。決して大きくはない。
だが、砂漠越えを目指す者にとっては、ここが最後の補給地となる。

——だからこそ、賑わっているはずの街だった。

「ねえ、あんた……最近、やけに陸亀が多くないかい?」

荷を運びながら、男は通りを見渡した。

「ああ……確かに増えたな」

視線の先には、のろのろと歩く陸亀の姿。
一匹、二匹ではない。そこかしこにいる。

「でもさ、こいつら大人しいだろ? 子供が乗っても怒らないし」

そう言って、男は近くにいた一匹の甲羅を軽く叩いた。

——反応は、なかった。

「……まあ、増えたくらいで問題は——」

言いかけて、男は肩をすくめた。

「気にしすぎかねぇ」

女はどこか引っかかるものを感じながらも、店へと戻っていった。



路地裏。

人目を避けるような薄暗い場所で、男が一人、壁に向かっていた。

ふと、視線を感じる。

「……ん?」

奥の暗がり。
低い位置で、何かが光った気がした。

目を凝らす。

「なんだ、亀か……驚かすなよ」

安堵して、男は背を向けた。

——その瞬間。

甲羅が、わずかに開いた。

中から、ぬらりとしたものが這い出る。

次の瞬間、無数の触手が男に絡みついた。

「——っ!?」

声にならない。

逃げる間もなく、全身を拘束される。

首筋に触れたそれは、冷たく——何も感じなかった。

痛みも、恐怖も。

——何も。

触手が離れる。

ゆっくりと、男は立ち上がった。

その顔から、すべての感情が消えていた。

何事もなかったかのように、男は通りへと歩き出す。



真琴たちがボルボロに到着したのは、午後のことだった。

馬車はここに預ける必要がある。
そのため、一行はまず宿を目指した。

幸いにも部屋は取れたが、馬車の預かりは難しいらしい。

「領主館に頼んでみるといいそうですわ。こういう規模の街では、よくあることですもの」

フィオナが淡々と言う。

「……そうなんだ」

真琴は頷きながら、外の通りへ視線を向けた。

人通りはある。
だが——妙に静かだった。

言い争う声も、呼び込みの声もない。

皆、穏やかで。

穏やかすぎる。

「……平和すぎない?」

ぽつりと、真琴が呟いた。

その視線の先を、小さな影が横切る。

「……あれ」

ゆっくりと歩く、陸亀。
一匹ではない。何匹もいる。

「クラリス、あれって……」

「あれはヴェールタス。砂漠に生息する魔獣の一種よ」

クラリスはそう言いながら、わずかに眉をひそめた。

「ただ……この数は、見たことがないわね」

「魔獣、なんだよね」

真琴は小さく呟きながら、腰の地図板に視線を落とした。

確認するように、周囲を見渡す。
もう一度、地図板を見る。

「……あれ?」

思わず、声が漏れた。

「どうかしまして?」

クラリスが覗き込む。

「映ってない」

「え?」

「この街の人も……あの亀も。何も表示されてない」

言いながら、真琴は周囲を見回した。

行き交う人々。
確かに“そこにいる”はずの存在。

なのに——地図には、何もない。

クラリスの表情がわずかに強張る。

真琴は、しばらく地図板を見つめたまま動かなかった。

やがて、小さく息を吐く。

「……ねえ、リオ」

少しだけ視線を落としてから、真琴は言った。

「聞いてくれる?」

「うん?」

「私の経験というか、性格というかね」

一拍置く。

「“順調に行く時こそ疑え”なんだよね」

リオが目だけで続きを促す。

「取説でもバグでもそうなんだけどさ」

真琴は小さく肩をすくめた。

「上手くいってるように見える時ほど——」

ほんの少し、周囲へ視線を向ける。

「その先に、落とし穴があるって思ってるの」

風が、静かに通りを抜けた。

そのとき。

「……そこに気づくか」

リオは少しだけ視線を巡らせ、静かに言った。

「……妙だな。この街」

一拍、置く。

「見えてるものが、そのままじゃない気がする」

その言葉に、ヴィクトルたちの空気が変わった。

誰も、すぐには言葉を返さない。

乾いた風が、通りを抜ける。

穏やかな街並み。
何も起きていないように見える場所。

——だからこそ、違和感だけが残る。

「……とりあえず、領主館に行こう」

ヴィクトルの一言に、全員が頷いた。

まだ、何も起きていない。

だが確実に——何かがおかしい。

その正体を知るために、一行は歩き出した。

その足元を、ゆっくりと横切る影。

気にも留められないまま、陸亀は通り過ぎていく。

——まるで、最初から“そこにいなかった”かのように。

誰一人、それに気づくこともなく。

——誰にも知られない場所で、もうひとつの“呼吸”の話があった。
ーーーーーーーーーーー
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