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◆漆黒の紳士の涙 最終章:紳士の涙

翌朝の池袋は、初夏らしい澄んだ青空だった。

通勤途中の街路樹は鮮やかな緑に染まり、
駅前にはいつも通り人があふれている。

けれど、その爽やかさとは反対に、
遥菜の気持ちは重く沈んだままだった。

昨夜、成田空港周辺の安い宿を調べた。
けれど、どこも今の彼には高すぎた。
空港で夜を明かせそうな場所を印刷したものの、気休めにしか思えなかった。

今日、サミュエルが来店する。

支払いを済ませ、チケットを受け取り、
そしてもう一日を空港で過ごさなければならない。 

その原因を作ったのは、私だった。

「おはようございます……昨日は、申し訳ありませんでした」
出社すると、すでに館林主任は端末に向かっていた。

「おはよう。今日も確認を徹底するように」
視線は画面のままだったが、その言葉だけで少し救われた気がした。

遥菜は席につき、何度も予約内容を見直した。
もう二度と、同じミスはしない。
そう思いながら。

昼過ぎ、ドアが開いた瞬間、
心臓が大きく跳ねた。
サミュエルだった。

「おはよう! さあ、支払いを始めようか」

まるで遥菜を安心させるように、
彼は穏やかに笑った。

請求書とアイテナリーを並べながら、
指先が小さく震えていた。
本来なら、彼はもう日本を発っていたはずだった。

金額を伝えると、彼は「オーケー」と頷き、
ズボンのポケットからしわくちゃの封筒を取り出した。中には、丁寧に折りたたまれた紙幣と、小銭。

彼はそれをひとつずつ確認しながら、静かにトレイへ並べていく。その手つきは、まるで残された全財産を扱うようだった。

遥菜は代金を受け取り、経理カウンターへ向かった。

すると、電卓を叩いていた経理担当の女性が眉をひそめた。
「ねえ、これ入国税違わない? 500円多いわよ」

一瞬、頭が真っ白になる。

燃油サーチャージが導入されたばかりの頃だった。計算が複雑になり、確認事項も増えていた。

けれど、そんなことは言い訳にならない。
昨日の日程ミスに続き、また間違えた。

経理の女性は、館林のほうをちらりと見たあと、小さな声で言った。

「主任に見つかる前に、早く返してきなさい」

普段は厳しい彼女のその言葉が、
ありがたくて仕方なかった。

遥菜は500円玉を握りしめ、カウンターへ戻った。

「申し訳ありません。私の計算ミスで、500円多くいただいていました」

差し出された500円玉を見て、彼は一瞬きょとんとした。そして、ぱっと顔を明るくした。

「なんてラッキーなんだ! これで空港でサンドイッチが買えるね」

その言葉が、胸に深く刺さった。

たった500円。けれど今の彼にとって、
それは空港で空腹をしのぐための金額だった。
遥菜は、何も言えなかった。

するとサミュエルは、
その500円玉をそっと押し戻した。

「これは、君に」
「えっ?」
「受け取ってほしい。君は本当によくやってくれた」

慌てて首を振る
「そんな、とんでもないです」

日程を間違え、金額まで間違えた。受け取る資格なんてない。けれど彼は、穏やかに笑ったまま言った。

「日本で最後に、いい思い出ができたよ。ランチの足しにして」

と、譲らない彼。
小さな押し問答になりかけたその時だった。

「受け取っておきなよ」

背後から、静かな声がした。
振り返ると、館林が立っていた。

館林はサミュエルへ視線を向け、小さく折りたたんだ紙を差し出した。サミュエルは、不思議そうにそれを開き、目を見開いた。

「おお……本当に?」

館林は英語で、静かに答えた。
「ええ。今夜、連絡してください」

気になって紙をのぞき込む。

Please stay at my apartment tonight.
Call me at 6 P.M.
(今夜は僕のアパートに泊まってください。
 午後6時にお電話ください)

そこに書かれていた言葉を理解した瞬間、
息が止まりそうになった。

サミュエルは、大きな黒い手で顔を覆った。
静かなオフィスに、小さく鼻をすする音だけが響く。ゆっくりと顔を上げた彼の頬を、一筋の涙が静かにつたっていた。

どれほど心細かっただろう。
異国の空港で、行き場もないまま待つ夜が。

「本当に素晴らしい日だ。ありがとう、感謝している」

彼は何度も頭を下げながら、店を後にした。
遥菜は、その背中が見えなくなるまで動かなかった。

隣で館林が、小さく言った。

「……所長には言うなよ」
「はい」

それしか言えなかった。

******************
数か月後、館林に初めてランチへ誘われた。
連れていかれたのは、駅前の古びた立ち食いそば屋だった。
湯気の向こうで、館林がぽつりと言う。

「まあ、お前も少しはマシになったな」

熱いかき揚げそばをすすりながら、
遥菜は思わず苦笑いをした。

転職した今でも、ふと、あの日のことを思い出す。
池袋の小さなカウンターで出会った、
静かな紳士たちのことを。

大きな黒い手で顔を覆いながら、
静かに涙を流していた紳士のこと。

そして、何も言わずに手を差し伸べた、
もうひとりの紳士のことを。

🍡End🍜
🛫ありがとうございました

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