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【短編小説】②天空の鏡― 飛び込む勇気、そして空に変わる瞬間

第2話 翼の影

――翔のノートより

遠くへ飛ぶ君を、僕は阻まない。
でも、空をなぞる燕が、
君の熱を、少しだけ僕にも分けてくれたらと思う。

飛べなくてもいい。
翼のことより、呼吸のことを信じたい。

降り立つ君を、
僕は今日もここで待っている。

―――――

放課後の風が、静かなプールを浅く揺らしていた。
朝よりも人の気配が薄く、
水面は鏡のように青を抱えている。

飛び込み台の下には、タオルとストップウォッチ。
その横に、紗良が使う小さなメモ帳が置かれている。
今日も、三人だけの午後が始まる。

舞が、空を見上げながら呟いた。
「燕みたいにさ……もっと平気な顔で高く飛べたらいいのに」

紗良はメモをとるふりをして、目だけで笑った。
「……あんた、どっちかというとカエルだけどね」

「どこが!?」
舞は振り向きかけるが、すぐ視線を空に戻した。
翔が少し考えてから言葉を足す。
「嬉しい時、ピョンって跳ねるじゃん。あと……」

「虫は食べないから!」
その声だけで、熱気がわずかにほどけた。
笑いは深く広がらず、水面の波紋のように静かに消えた。

―――――

「はい、切り替え」
翔が手を打つと、舞はゆっくり水面へ歩く。

ドルフィンキック。
跳躍の勢いを殺さず、奥まで通すための練習。

水の中で、光が背中を追い越していく。
泡は立たない。
呼吸だけが、身体の奥で脈打っている。

浮上すると、舞は髪をかき上げながら呟いた。
「燕ってさ、迷わないよね」

翔はプールサイドでストップウォッチを握り、視線は空に置いたまま答える。
「人は迷うから、進めるんだよ」

「名言ぽい」
「ぽい、でいい」

紗良はカメラを構えず、ただ舞を見ていた。
(シャッターを切らない美しさも、ある)

「もう一本、通して終わり」
舞は壁を蹴り、もう一度、水を切り裂く。
押さず、干渉せず。
水が嫌がらない角度で、身体を通す。

終わると、翔が短く言った。
「……悪くない」
「タイムじゃなくて?」
「顔。戻ってきた」

舞はタオルを当てながら、かすかに目を細めた。

―――――

「予選、もうすぐだね」
「うん。……怖いって言ったら、笑う?」

翔は笑わない。
ただノートを開き、短い言葉を書く。

――始まる音を、深く。

閉じたノートを舞が覗き込む。
「また書いてる。……見せてよ」
「だめ」
「けち」

その小さなやりとりで、緊張がひとつ溶けた。

―――――

燕が低く掠《かす》めた。
夏の終わりを知っているような飛び方だった。

舞はその影を目で追い、もう一度呟く。
「ねえ翔。私、いつまで飛べるのかな」

翔はストップウォッチを握り直し、止めずに言う。
「跳べなくなる日を数えるより、今の一回を数えよう」

舞は、少しだけ笑った。
「じゃあ、もう一回、数えて」

舞は板の上で呼吸を整え、耳の奥に床の返事を感じながら跳ぶ。
白い水花が、形を変えずに散り、すぐ溶けた。

翔は手を丸くして見せる。
数字ではなく、輪郭で伝える合図。
舞は、水の中で笑った。

―――――

帰り道、空は茜に傾き、影が長く伸びた。
ベンチでタオルを畳みながら、舞がふと思い出すように言う。

「昔さ、翼があったら一緒に飛ぼうって言ったよね」
「言った」
「今の私は、もう昔の私じゃないけど……あの約束、まだ好きだよ」
「僕も」

その一言で、何かが静かに繋ぎ止められた。

校門の外で別れるとき、舞が振り返る。
「予選の日、来て」
「行く」

舞はうなずき、早足で角を曲がった。
翔は空を見上げる。

燕の影が、夕焼けの雲を切り裂く。
影はすぐ、形を失い、空に溶けた。

翼は、影でもいい。
今はまだ、それを目で追える。
追いかける方法を、きっと僕は知る。

――始まる音を浅くしないこと。
足裏で、風を押し返すこと。

ノートを閉じると、鼓動が表紙を震わせた。

少し離れたスタンドで、紗良がカメラを構えていた。
シャッターを切らずに、呟く。
「どうしたら、舞みたいに美しく飛べるんだろ……
 見様見真似じゃ無理だし。
 もしかして――天才なのかな」

シャッター音が、静かに響いた。
夕暮れの空が、水面の鏡に溶けていった。

空には、遅れて飛ぶ星がひとつ、灯っていた。

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【連載中】短編小説『天空の鏡』

【完結済】短編小説『沈む七色の海〜町に希望が灯る』

【完結済】短編小説『海まで歩いて五分』全9話

【完結済】短編小説『はざま』全9話

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