【短編小説】③ブラッドオレンジに染まるマンションの給水塔の前で
第3話 地上の影、塔の風
朝の空は、
ただ静かに広がっていた。
だが、海斗《かいと》には、
昨日とは違う色に見えた。
――あの塔の夕陽を、
一度知ってしまったからだ。
チャイムが鳴り、
机のこすれる音が
波のように教室を揺らす。
いつもの席に座ると、
呼吸だけが少しだけ変だ。
廊下を歩く女子の列。
その中に、
見覚えのある
後ろ姿があった。
氷見凪《ひみ なぎ》。
髪をひとつに結び、
誰かの話に
小さく頷いている。
こちらを見ることは、
一度もなかった。

見ないように、ではない。
――まるで
「地上の私は、あなたを知らない」と線を引くように。
ほんの少し胸がざらつく。
寂しさよりも、
届かない距離を知った痛み。
昼休み、
日向蓮≪ひなた れん≫が
弁当を持ってやってきた。
蓮「海斗、最近屋上来なくね?」
海斗「……ちょっと寄り道してるだけ」
蓮「お前、最近
“どっか見てる目”してんぞ」
海斗は苦笑した。
それでも日向の目は、どこか温かい。
放課後、校門を出たところで
足が止まる。
――帰るか、登るか。
帰れば、ただの一日。
登れば、胸の奥のざわつきが
風にほどけていく場所が待っている。
気づけば坂を登っていた。
非常階段は
今日も誰に見つかっていない。
外から見ればただの錆びた避難階段。
でも海斗には、
そこが“入口”だった。
屋上の扉がぎしりと鳴く。
夕陽は昨日より薄く、
桃色が街に落ちていた。
塔は変わらず黙って立っている。
誰もいないと思った瞬間、
足音がひとつ。
振り向く前に、その気配でわかった。
氷見≪ひみ≫だった。
風にゆれる袖。目は合わない。
それは拒絶でもない。
「ここでは、誰でもないから」
それだけ言って、
彼女は塔の影に立った。
説明なんていらない。
地上での沈黙とは違う、
守るための沈黙だった。
海斗はいつもの距離に腰を下ろす。
話すことは山ほどあるはずなのに、
沈黙だけで分かり合えてしまう。
――俺は、ここにいていい。
風が吹き、空は赤から紫へと変わる。
塔の影が長く落ち、
その中に二人だけの
場所が生まれていた。
恋ではない。
ただ、静かに育つ信頼。
太陽が沈む前に、
海斗は立ち上がる。
氷見は何も言わないし、
見送りもしない。
それが、なぜか心地よかった。
非常階段に向かうと、
少し遅れて足音が続く。
振り返らない。
振り返らなくても、
もう距離がわかるから。
《また来るかもしれない。
来ないかもしれない。
でも――ここは、居場所と呼んでいい》
それだけで、
今日という日は十分だった。
