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【短編小説】②ブラッドオレンジに染まるマンションの給水塔の前で

第2話 風のはじまり

夕方の匂いが、
昨日より
ほんの少しだけ
塩気を帯びていた。

海斗はそれだけを頼りに
屋上の扉を押す。
《約束していない。
ただ、来てしまった。》

ぎし、と扉が文句を言い、
薄いブラッドオレンジが
空を染めていた。

風が先に知らせる。
髪の揺れ、
布の音―
―昨日と同じ横顔が、
塔の上にいた。

「また来たんだ」
幼い言い方だと思い、
海斗は目をそらす。

「……来たんだね」
「うん」
彼女はそれだけ言い、
膝の上の手を組み直す。

沈黙が場を整え、
昨日より短い距離で
言葉が置かれた。

凪「風、今日はしょっぱい」
海斗「海、近いっけ」
凪「この角を三つ曲がって、
まっすぐ」ささいな会話が、不思議と気を軽くする。

凪「君、写真
やってたんでしょ」
海斗「……どこで」
凪「目の動き」

海斗は息をのむ。

海斗「やってた。
いまはやってない」
凪「理由は聞かない」
海斗「聞かないの、
ありがたい」

彼女は膝を抱えたまま言う。

凪「昨日、帰ってから
米をといだ」
海斗「突然だな」
凪「匂いの話したから。
家に匂いがなかったから」

海斗「うまくいった?」
凪「普通。普通って、
助かる」
海斗「わかる」

その“普通”が、
塔の上では
やわらかく響いた。

風が強まり、
同時に二人の前髪が揺れる。手で押さえ、
同じタイミングでやめた。

海斗「ここ、好き?」
凪「便利」
海斗「便利?」
凪「言葉を置いても、
落ちにくい」

その答えに
海斗は胸の奥が
軽くなるのを感じた。

彼はふと、
隠していた
箱のふたに触れる。

海斗「俺、撮り逃がしたことばかり考えてる。ずっと」
言った瞬間、
言葉が体から離れた。
《あ、落ちない。》

凪「ふうん。それ、
いつから?」
海斗「去年の夏」
凪「じゃあ季節ひとつ分、
持ってるね」

海斗「持ってる?」
凪「重さの話し」

彼女は淡々と言うが、
痛みの場所を正
確に見ていた。

海斗「君は?
逃げてるものある?」

彼女は空気をひとつ溜め、
半分吐いた。

凪「帰る家はある。
でも寝場所を
間借りしてるだけ」

塔の上の空気が
一瞬だけ硬くなり、
また解けた。

凪「悲しい話じゃないよ。
説明が長いだけ」

海斗「長い話って、
塔に向かない」
凪「うん、風が途中で
持ってっちゃう」

海斗「じゃあ短く置こう」
凪「わたし、
今日、早歩きした」

海斗「なんで」
凪「来たくなったから」
海斗「……そっか」

胸に灯る
《嬉しいの種類》が、
海斗に静かに触れた。

降りる前、海斗が言う。
海斗「明日、
来ないかもしれない」
凪「うん」
海斗「でも、
来るかもしれない」
凪「うん」

約束の外側で
交わす“うん”だけが、
やさしく響いた。

マンションの出口で、
自然に分かれ道ができる。

凪「重さ、
ひとつ置いてったね」
海斗「……君も」
凪「うん。持ち帰りは
半分でいい」

海斗「また来てもいい?」
凪「呼ばないけど、
拒まない」


それは、
互いの距離を
壊さないまま
差し出された、
いちばんやわらかな
返事だった。

海斗の歩幅は乱れない。
でも胸だけは、
昨日よりわずかに高かった。

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