【短編小説】⑤ブラッドオレンジに染まるマンションの給水塔の前で
第5話 風が戻る日
雨は止んだ。
だけど晴れたわけでもない、灰色の朝だった。
《雨音が消えただけで、世界はこんなに静かなのか。》
傘を持たずに家を出ると、
まだ空気は濡れていた。
道路の水たまりが
空を映して、
何色でもない顔をしている。
靴底が
乾いたアスファルト
に触れる感触が、
やけに新鮮だった。
《昨日みたいに、
どこにも
行けない日じゃない。
でも、どこへでも
行ける朝でもない。
“何も決まってない”
それが、少しだけ怖い。》
教室のドアを開けると、
雨の日には感じなかった
ざわめきが戻っていた。
それでも、席に着くと
すぐ、呼吸だけは
静かなままだ。
窓の外、雲はまだ重たい。
だけど、遠くで光が
深く滲んでいる。
《塔は今日は見えない。でも
壊れたわけじゃない。》
ふと視線を感じて、
顔を上げた。
別のクラスのドア付近に、
氷見が立っていた。

目は合わない。
だけど、“避けた目”
でもなかった。
それだけで、
胸の奥のどこかが、
わずかにほどけた。
《行けなくても、つながりは消えないのかもしれない。
塔がない日でも。》
昼休みになって、日向が机に肘をついて覗き込んでくる。
「お前さ、ちょっと変わったよな」
「……そうか?」
「前より、ちゃんとここにいんじゃん。今、教室に」
「そりゃ、いるだろ」
「いや、そうじゃなくて。ちゃんと“今日”にいるって感じ」
返す言葉はなくて、
チョコパンの袋だけが
カサッと鳴る。
日向はそれ以上何も言わず、空気を読んだみたいに
去った。
《誰かに気づかれる変化なんて、望んでなかったのに。》

チャイムが鳴っても、
今日は立ち上がらなかった。
塔へ向かう角を、
一度も思い浮かべないように
していた。
《行かない日を、自分で選ぶのは、初めてだ。》
廊下をゆっくり歩く。
掃除用具入れの前で、
ふと、風が通った気がした。
窓は閉じているのに、
制服の袖だけが揺れた。
《呼吸している限り、
風は消えないのかもしれない。どこかで、まだ
吹いている。≫
昇降口へ向かう角。
ちょうど曲がり角の
向こうから、
氷見が歩いてきた。
目は合わない。
通り過ぎる、その時
彼女はほんの一瞬だけ、
足を止めた。
そして、真正面を見たまま、
雨の翌日のような声で、
静かに言った。
「……行かなくても、届くよ」
その瞬間、
何も返せなかった。
言葉を探すより先に、
視界だけがふっと滲んだ。
《塔じゃなくても、
風は吹く。
あの場所じゃなくても、
呼吸はできる。》
振り返らなかった。
彼女も、振り向かなかった。

廊下の匂いはまだ濡れていたけど、胸の奥でだけ、乾いた空気がひとつ生まれた。《風は、まだ残ってる。 塔に行かなくても――消えてなんかいなかった。》その事実だけが、今日という日の全てだった。
