【短編小説】#6「Walk in ― 予約の要らないホテル」
第6話 再び開く扉
職員室を飲み込んだ眩い光が収まったとき、佐久間の耳に届いたのは激しい雨音ではなく、薪が爆ぜるパチパチという音だった。
視界を支配していた事務机やスチールキャビネットは霧の中に溶け去り、足元には重厚な深紅の絨毯が広がっている。廊下の蛍光灯に代わって空間を照らすのは、真鍮のランプが放つ琥珀色の柔らかな灯火だ。 鼻腔をくすぐる磨き抜かれた木材とランプオイルの・・・どこか懐かしい香り。
「……また、呼ばれたのか」
佐久間は掌の中の〈許し〉の札を握りしめた。木片はトクトクと、まるで小さな心臓を握っているかのように、確かな鼓動を伝えてくる。
見上げれば、吹き抜けのロビーの奥、カウンターの内側に一人の男が立っていた。三年前と寸分違わぬ、非の打ち所のない夜会服を纏った支配人だ。
「お久しぶりでございます、佐久間様」
支配人は、旧知の友人を迎えるように静かに頭を下げた。 「……あなたは、覚えているんですね」 「もちろんでございます。ここに泊まられた方の魂を、私どもは決して忘れません。」
壁の鍵掛けには、無数の札が並んでいた。その中に、ひときわ強い光を放つ二つの札がある。〈氷山〉と〈木漏れ日〉。
一真と朱音が今まさにこの場所で、自分自身の欠片と向き合っている証だった。 支配人は佐久間の右手にある札を見やり、穏やかに微笑んだ。
「今夜は、その札をお持ちですね」 「三年前、机に残されていたものです。ずっと、捨てられなかった」 「いいえ。それは今夜、あなたの心が再び扉を開いたからこそ、再び灯った札でございます」
その言葉に、佐久間は視線を落とした。〈許し〉の文字が、呼吸を合わせるように淡く明滅している。 「……あの二人は、無事なんですか」 「ええ。お泊まりになっております。凍てついた心は、もう少しで軽くなる頃でしょう」
佐久間は肺の奥にある重たい塊を吐き出すように、深く息をついた。 支配人の無言の促しに従い、彼は裏庭へと続く重い扉を押し開いた。
*
霧の立ち込める庭の奥に、夜空を貫く塔のようにそびえる千年杉の巨躯があった。 雨は降っていないはずなのに、その空気はどこまでも潤い、聖域の静寂に満ちている。
「今夜は、あなたの番です」
支配人の声に背を押され、佐久間は震える手を伸ばした。 指先が冷たく、それでいて力強い樹皮に触れる。その瞬間、木の奥底を流れる悠久の時間が、佐久間の内側に流れ込んできた。

(……俺は、あの子たちを救えなかった。誰も悪くないと言い聞かせながら、一番自分を許せずにいたのは、俺だったんだ)
三年間、喉元に刺さったままだった棘が、熱い涙となって溢れ出した。 「……許してくれ」 絞り出すようなその言葉に呼応し、巨木の枝葉がざわめいた。夜の静寂を震わせ、光の粒が雪のように舞い落ちる。やがて、ひとつの新しい木片が、佐久間の掌に静かに舞い降りた。
そこに刻まれていたのは、〈再会〉という二文字だった。
「あなたの心が望んだのです。失った人々との、本当の意味での邂逅を」
支配人の言葉に、佐久間は深く頷いた。拭った頬には夜の露と涙が混じり合っていた。
*
ロビーへ戻った佐久間は、〈氷山〉と〈木漏れ日〉の絵を表した鍵札が揺れる二つの扉の前に立った。 まずは〈木漏れ日〉の扉。 隙間から漏れ出す金色の光の中に、朱音の寝息が微かに聞こえる。かつて、誰かのために完璧な笑顔を貼り付けていた少女が、今は無防備な安らぎの中にいることを、扉越しに感じ取った。 「……もう、無理に笑わなくていいんだ、朱音」 誰にともなく呟くと、部屋の中で小さな鈴の音が鳴り、朱音の指先が夢の中で何かを掴むように動いた。
*
次に、〈氷山〉の扉の前へ。
息を潜めて耳を当てた瞬間、心臓が跳ねた。 (――先生!) 確かに聞こえた。それは、心を閉ざしていたはずの高梨一真の声だった。
動転した佐久間がドアノブに手をかけようとしたとき、背後から支配人の制止する声が響いた。
「開けてはいけません。彼らはまだ、夢の途上でございます」
佐久間は動きを止めた。だが、その胸の奥には、確かな感触が残っていた。あいつは、一真は、暗い淵から戻ろうとしている。自らの足で、生きようとしているのだ。 佐久間は静かに頷き、扉から手を離した。千年杉が、何かを祝福するように低くざわめく。
*
ロビーの壁には、新たに〈再会〉の札が加わっていた。 〈氷山〉と〈木漏れ日〉の間で、それは寄り添うように淡く脈を打っている。
「夜明けになれば、あなたは戻れます。戻るべき場所がある方は、どうぞお帰りください」 「……ああ。帰らなきゃな。あいつらが戻ってくる場所を、守るために」
佐久間は小さく笑った。掌の中の木片は、驚くほどあたたかかった。
光の奔流を抜けて扉を押し出すと、雨の音が現実の重みを持って戻ってきた。そこは、いつもの職員室がある。時計の針は22時を少し回ったところだ。
机の上には、開きっぱなしの宿泊名簿が残されている。だが、そこには先ほどまでなかった新たな一行が、瑞々しい筆致で刻まれていた。
〈佐久間昭彦 ― 再会〉
彼は静かにペンを置き、窓の外を見上げた。 降り続く雨の向こう、夜明け前の空がわずかに白み始めている。 あの二人が、そして三年前から止まっていた自分自身が、今、確かな朝へと向かっているのを感じていた。
ホテル《Walk-in》は、今夜もどこかで静かに扉を開けている。 誰かが「もう一度会いたい」と願う、その切実な祈りが夜の霧を分けるその瞬間を待ちながら・・・
