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【短編小説】#5「Walk in ― 予約の要らないホテル」

第5話 鍵の記憶

職員室の窓の外は、止むことのない雨に閉ざされていた。 アスファルトを叩く無機質な音だけが、静まり返った室内を支配している。

街灯の光が歪んで見えるのは、窓ガラスを伝う水滴のせいなのか、それとも視界を遮る自身の迷いのせいなのか。担任の佐久間は、デスクの上に置かれたひとつの木片を、食い入るように見つめていた。

〈氷山〉の絵が刻まれたその鍵札は、三年前、忽然と姿を消したある生徒の机の奥に残されていた遺物だ。

(……まさか、また、あのホテルが動き出したというのか) 肺の奥に溜まった冷たい澱を吐き出すように、重く、長い息をつく。 理性ある教員として、到底信じられる話ではなかった。

だが、奇妙な夢を共有し「木片」を手にした三人の生徒、そして修学旅行の帰路から戻らぬ二人の教え子。あまりにも整合性の取れすぎた断片が、ひとつの不吉な、それでいて逃れがたい絵を完成させようとしていた。

鍵札の表面を指でなぞると、微かな熱とともに、木目がドクンと脈を打った。 呼吸するように、一定の律動で。 「……お前たちは、あそこで何を見たんだ」 独り言のように呟いた言葉は、湿った重い空気に溶けて、答えを返さない。

――三年前。 まだ彼(佐久間)が二年生の担任を務めていた、あの忌まわしい夏のことだ。 校外学習の帰路、サービスエリアという日常の裂け目のような場所で、一人の男子生徒が消失した。

名は、川辺悠斗かわべゆうと。 バスの車内、悠斗の隣にはいつも高梨一真たかなしかずまが当たり前のように座っていた。無口な一真と、少しだけおどけたように笑う悠斗。

「少し、外の空気を吸ってきます」と、いつもの穏やかなトーンで席を立った悠斗は、そのまま二度と、この世界に戻ることはなかった。

その夜、佐久間の夢に「あの場所」が姿を現した。 深い霧に包まれた、古びた洋館。 〈Walk-in〉と書かれた看板が、風に吹かれて頼りなく、だが拒絶するように揺れていた。

圧倒的な威容を誇る千年杉の前に立ち尽くす佐久間に、どこからともなく、頭の芯に直接響くような声が降ってきた。

――あなたは、自分を許せましたか。

その問いに、彼は答えることができなかった。生徒を守れなかった、異変に気づけなかったという自責の念が、声をも奪っていたからだ。

翌朝、意識が浮上したとき、枕元には一本の鍵札が置かれていた。 〈許し〉 という二文字が刻まれた、あたたかな、それでいて呪いのように重い木片が。

現実の職員室に戻った今、佐久間は手元にあるその〈許し〉の絵が描かれた鍵札を見つめ直した。 木目の奥で、淡い光の粒が蛍のように、あるいは誰かの命の灯火のように揺れている。

「……もし、今もまだあの場所が存在し、彼らを留めているのなら」 彼は決意を固めたように立ち上がり、引き出しの最奥、二重の鍵をかけた場所から一冊の古い帳面を取り出した。

〈WALK IN 宿泊名簿〉

三年前から彼の手元にある、時を止めたままの「不在」の記録。 震える指で、黄ばんだページをめくっていく。そこには三年前の事件で消えた名があり、さらに新しいページの、まだ乾ききらぬインクの跡に佐久間の鼓動が跳ねた。

高梨一真たかなしかずま春原朱音すのはらあかね 白石遼しらいしりょう黒川美咲くるかわみさき……。

そして、その名簿の最下段。まるで見えない筆先が今まさに書き終えたかのような、瑞々みずみずしい筆致ひっちに佐久間は戦慄した。

〈佐久間昭彦〉

そこには、紛れもなく自分自身の名前が、確定した未来のように記されていた。 「……俺も、まだ泊まっているというのか。三年前から、ずっと」 部屋のランプが、誰かが横を通り過ぎたかのように小さく、不自然に揺れた。

外の雨音が、まるで帰還を促す合図のように激しさを増す。 佐久間が〈許し〉の鍵札を壊れ物を扱うように、それでいて祈るように強く握りしめた瞬間、室内の空気が一変した。 一瞬の静寂。

心臓の音さえ聞こえなくなるほどの、深い沈黙。 そして、デスクの上の木片が、夜の闇を白く塗り替えるほどの眩い光を放った。

その光は、まるで「次の扉」を無理やりこじ開けるかのように、佐久間の意識を飲み込み、深い雨の夜の中へと――あの霧の立ち込めるホテルへと、彼を連れ戻していった。

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