「すぐに答えを出さないAI」を教育に入れる前に、考えたいこと
日本経済新聞のこんな記事を読みました
子ども向け「学習用AI」、国が整備 すぐ正答教えず思考促す
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD156UQ0V10C26A6000000/
子どもの学びに使うAIは、効率よく答えを出すのではなく「すぐに答えを出さない方がいい」記事の主旨を、私はそう受け取りました。
正直なところ、最初は「本末転倒では?」と思いました。AIの価値は、必要なときにすぐ答えにアクセスできることにあるはずです。それをわざわざ制限するというのは、自動車のアクセルにわざと重りを付けて売るような話に聞こえたからです。
ただ、これは推進派が考えなしに言っているわけではありません。むしろ確信犯的な設計思想です。だからこそ、ここは丁寧に考える価値があると思いました。教育現場で実際にこの問いに向き合っている先生方に向けて、いったん整理してみます。
「すぐ答えない」は、思いつきではなく設計思想
文部科学省の担当者は、大人が業務効率化のために使うAIと、子どもの学びに関わるAIは同じではない、と区別しています。子どもの場合は、早急に答えを出さないAIの方が教育的な価値が見られる場合もある、という立場です。
これは実装にも表れています。進研ゼミの「チャレンジAI学習コーチ」は、答えを直接教えるのではなく、対話を通じて子ども自身が答えにたどり着けるように設計されています。海外でも、Khan Academyの「Khanmigo」が生徒に直接答えを示さず、問答法(ソクラテス式)で思考を促す仕組みを採っています。
背景にあるのは「思考停止」への危機感です。AIが最短距離で答えを出してしまうと、本来時間をかけるべき調査・分析・考察のプロセスがまるごと省略され、自分の頭で考える習慣が育たなくなる。この懸念は、現場の多くの先生が肌で感じているものだと思います。
ここまでは、私も完全に同意します。「子どもに考えさせたい」という目的そのものは、まったく正しい。
それでも引っかかるのは、「手段」の方です
問題は目的ではなく、手段です。
「考える力を育てたいから、AIを不便にする」という発想は、論理が一段ずれている気がするのです。
そもそも子どもたちは、学校が用意した「教育用に手加減されたAI」だけを使って育つわけではありません。家に帰れば、手加減されていない汎用AIが普通に手元にあります。実際、中高生の8割近くがすでにChatGPTやGeminiを使った経験があり、その多くが「勉強の調べもの」に使っているという調査もあります。
つまり、学校でわざわざ性能を絞ったAIを与えても、子どもは校門を出た瞬間に「すぐ答えを出すAI」に戻るだけです。これでは、教育的に守られているのは「学校にいる数時間」だけで、肝心の「本物のAIとどう付き合うか」という力は育ちません。
不便にする戦略は、温室の中でしか通用しない。私が一番引っかかるのは、ここです。
そもそも、その「依存」は本当に起きているのか
ここで紹介したいのが、東京学芸大学附属小金井小学校の鈴木秀樹先生の実践です。生成AIを授業に取り入れて数年、おそらく日本でいちばん「子どもとAI」を間近で見てきた先生のひとりです。
その鈴木先生が、「答えを求めて楽をする」「AIに依存して批判的思考力が低下する」というすぐ答えないAI派の懸念に対して、はっきりこう書いています。そうした場面を、これまでのAI活用授業で見たことがない、と。
これは重い言葉だと思います。「依存するかもしれない」という想像上のリスクを根拠に道具を弱くする前に、実際に子どもとAIが向き合っている教室で何が起きているのかを見るべきだという、現場からの静かな反論です。
鈴木先生の「AIを鍛える4年生」~役割を反転させる~
では、鈴木先生は具体的にどんな授業をしているのか。私が「これこそAIの本質を突いている」と唸ったのが、「AIを鍛える4年生」という実践です。
国語の「白いぼうし」を学んだあと、先生はAIにわざと出来の悪い読書感想文を書かせます。季節を間違え、登場人物を取り違えた、めちゃくちゃな感想文です。子どもたちは「なんだよ、これ!」「ちょうを逃したのは松井さんだよ!」と総ツッコミ。
ここからが本番です。先生が出した課題は
「よくわかっていない生成AIに、きみたちが学んだ『白いぼうし』のことを教えてあげよう」
つまり、AIに教わるのではなく、AIに教える。役割をまるごと反転させたわけです。
子どもたちはAIと対話しながら、「主人公は松井さんだよ」「ちょうを逃したから、代わりに夏みかんを入れたんだよ」と、自分が読み取ったことを一つひとつ言葉にしていきます。AIはそれを受けて感想文を書き直し、子どもはまた直す。このやり取りの中で、子どもの読解力は隠しようもなく可視化されていきます。
ここで起きていることを、よく考えてみてください。
AIは一切「手加減」されていません。むしろ普通に高性能なまま使われています。にもかかわらず、子どもは答えを丸写しするどころか、自分の理解を総動員して「先生役」を務めている。道具を弱くしたのではなく、タスクを変えたから、こうなっているのです。
これは、私が前段で書いた「AIを使った上で、その子がどう考えたかを評価する」という発想の、ほぼ完成形だと思いました。
育てるべきは「AIを我慢する力」ではなく「AIを使って考える力」
鈴木先生が研修などで一貫して問うているのは、こういうことだそうです。
「そのツールで、児童はどんな見方・考え方をはたらかせたのか」 「その授業で、どんな資質能力を身につけさせたかったのか」
ツールが新しいか、見栄えがいいかは問題ではない。子どもの中で何が動いたか。ここを見ていない実践は、ICT批判派・AI批判派を勢いづけるだけだという、かなり手厳しい問いです。
そして、どの段階でも先生が大切にしているのが、「AIが生成したものを、子どもがどう受け取ったか」をじっくり観察すること。授業のふり返りを丁寧に読むだけでもいい、と言います。
これは、私が前に書いた提案とぴたりと重なります。評価すべきは「AIを使わずに出した答え」ではなく、「AIを使った上で、その子がどう考え、どう受け取ったか」。具体的には
答えだけでなく、どんな問いをAIに投げたか(プロンプト)を見る
AIの答えをどこで疑い、どう検証したかを記述させる
AIの出力をどう編集し、自分の言葉に変えたかを見る
これらは、AIを不便にしなくても成立します。むしろ性能の高いAIを存分に使わせた方が、「問いを立てる力」「疑う力」「編集する力」が、くっきり見えてきます。
ただし、「いきなり全部使わせろ」とも言っていない
ここは正直に書いておきたいところです。
鈴木先生は、何でもかんでも子どもにAIを直接使わせろ、とは言っていません。むしろ「生成AI活用の3段階」として、
まず教師が授業前に使う(教材研究)
次に教師が授業の中で使い、結果をみんなで吟味する
その積み重ねの先に、子どもが直接使う
という順序を示しています。とくに小学校段階では、いきなり使わせるのではなく、AIに対する「冷静な態度」を体験を通じて育てる段階が要る、と。
これは、私の主張を否定するものではありません。むしろ補強してくれます。問題は「AIを制限すること」ではなく、「段階を踏むこと」だったのです。性能を絞った手加減AIを渡すのではなく、本物のAIに教師が伴走しながら、子どもが少しずつ使いこなす側へ育っていく。守るべきはAIの性能ではなく、子どもの経験の順序です。
実際、鈴木先生の4年生の中には、AIを「いい人だ」と感じてしまう子もいたといいます。AIに人格を見てしまう。これは性能を絞れば防げる話ではなく、まさに「経験を積んで冷静な態度を育てる」ことでしか乗り越えられない課題です。すぐ答えないAIでは、ここには届きません。
問いを変えたい
「AIに答えを出させるべきか、出させないべきか」
この二元論は、もう少し早く卒業していいと思っています。
本当に問うべきは、「私たちはこの課題で、子どものどんな力を育てたいのか」。そして、「その力を、AIを使ってどう育て、どう評価するのか」。
ここが定まれば、AIを手加減する必要はなくなります。鈴木先生の4年生が証明したように、最強のAIを渡した上でも
いや、渡したからこそ
「で、君はどう考えた?」と問える授業は成立します。
道具を弱くするのではなく、問いを強くする。役割を、変える。教育現場でAIと向き合う一人として、私はそちらに賭けたいと思っています。
※本稿の小学校での実践は、鈴木秀樹先生(東京学芸大学附属小金井小学校)のnote「ICT×インクルーシブ教育」( https://note.com/ict_inclusive )を参照し、筆者の言葉で要約・紹介したものです。
元記事には、子どもとAIの実際のやり取りや授業のふり返りが詳しく記されています。
