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「エウレカ!」第1話:深夜の漫喫で

【あらすじ】
「僕」とマリとヒカリ、そしてリカコさん。
彼らは何かを探している。
探し回り、歩き回った挙句に、結局そこに何もないと知って、また最初に戻って・・・。結局、最後の最後に自分の足元に落ちているのを“見つける”。
まるで風呂場で体積の法則を発見したアルキメデスみたいに。
できればそんな物語でありたい、と思っている。



 淡い光を放つモニターに指を這わすと微かに温もりがあった。きっと電子的な何かの動きによるものとは思うけど、なぜかほっとする自分がいた。
 あいにくと「鍵付き完全個室」に空きはなかった。空いているのは、フラットタイプの「ブース」に一つだけだった。確か、足を投げ出して寝そべれるタイプの部屋だ。
 迷いはなかった。
 選択項目を確定すると、機器がカードキーを吐き出した。その瞬間、真夜中の街の片隅で、ひっそりと僕のための空間が扉を開いた気がした。


 その夏のはじめ、僕は21歳になったばかりだった。そのレッテルは、新入生のピカピカのランドセルみたいに、まだ体に馴染みきっていなかった。自分が大人と呼ばれる歳からさらに一歩踏み出したなど、到底信じられなかった。
 首都圏にある平凡な大学に進学して3年目。特段何に打ち込むことはもなく、漫然と講義に出席して課題をこなす日々。ちなみにアルバイトはしておらず、毎日、実家から登校していた
 そんな僕がどうして真夜中の街をほっつき歩いた末に、漫喫にたどり着いたのか?
 理由は色々あった。反抗期を迎えた弟が隣の部屋で暴れる音がうるさいとか。家の近くの側溝が始終ひどい匂いを放つとか、両親の仲が険悪で今にも離婚しそうだとか。
 そんな全てからの逃走。そういうことなのだろう。もちろん、何がどうなるというわけではない。逃げるくらいなら立ち向かったほうが結果的にストレスも少なそうなものだが、今となって考えればの話。当時の僕には、それ以外取るべき手段など思いもつかなかったのだろう。


「ブース」型のスペースは、言ってみれば擬似的な個室だった。四方を壁に取り囲まれているが、それは天井まで繋がっておらず、途中で途切れていた。
 いわゆる半個室。壁と言ったが厳密には壁とも言えない、ベニヤ板のような代物で、上から覗き込んだり、その気になれば破ることだってできそうなもの。だがそのようなことをしようとする者は一人としていなかった。十数人の人間が息を潜めて、小分けされた空間に詰め込まれていた。
 その光景はなんとなく、昔見たSF映画を連想させた。蜂の巣のように狭い部屋の中で、白い制服に身を包んだ人々が生活と労働を繰り返している。1日に3回、機械的な触手がその部屋の上から離乳食みたいなご飯をパレットに入れて出してくる。彼らはそれを食べては、モニターに映し出された奇妙な文字情報を整理している。そんな映画だったと思う。観た当初はゾッとしたが、今の心境にはピッタリの妄想だった。匿名化され、記号化されたこの状況が、家出したという罪悪感と、一種の孤独感のようなものを埋めてくれるように感じたのかもしれない。
 入室して足を伸ばすと、重力から逃れることができた。長い時間歩き回った疲れがどっと吹き出したのか、僕は直ぐにウトウトし始めた。
 目を閉じ、眠りに落ちるまでの束の間、安静な時間に浸っていると、澄んだ聴覚が音声をとらえる。隣のブースからだった。
 どうやら、カップルが入っているらしい。声をひそめた会話の気配がした。
内容まで聞き取れはしないが、はずんだ呼吸から楽しげな雰囲気と、仲睦まじい男女特有の温度感が伝わってきた。2人の人間が入るにはやや狭めなスペースであるから、肩寄せあって漫画やら動画やらを楽しんでいるのだろう。
 感傷に浸るような気分ではなかったが、その想像は、自然と同じ種類の記憶を呼び覚ましていく。

 それは高校生活最後の年のことだ。僕にもガールフレンドがいた。相手は1つ年下の女の子で、名前はヒカリと言った。
 所属していた部活のマネージャーだった。万年ベンチ組のパッとしない存在だった僕の、一体どこを気に入ってくれたのか、ある日突然告白された。彼女のことを特に悪くも思っていなかったので、僕はそれを受け入れた。

 彼女がどんな顔立ちで、どんな声色で、どんな背格好だったか。まだほんの数年前のことなのに、まるで古いビデオカメラで撮影したように、所々、解像度が荒れていたり、白飛びしていてはっきりしなかった。
 なんとか具体的に思い出せるのは、2つのシーン。
 1つは、ある日の夕方、彼女と並んで歩いた帰り道の情景だ。
 「先輩の部屋に行きたい。」と彼女が出し抜けに言った。
 「なんで?」と僕は答える
 「なんでって、先輩の部屋を見たいから。」
 「部屋を見てどうなるの?」
 「先輩がどんな人なのか、なんとなくわかります。あとはご家族にも会えるし」
 「・・・」
 僕が黙っていると、こちらを見るヒカリの表情はどんどん不満げになっていった。
 「来て欲しくないみたいですね」とヒカリ
 「そう言うわけじゃない。」
 「じゃあどうして二つ返事でOKしてくれないんですか?」
 「・・・クサいんだ」
 「クサい?部屋がですか。」
 「違う。確かに部屋もそんなにいい匂いとは言えないけど、本当にクサいのは家の近くの側溝なんだ。」
 「側溝が?なんでです?理由とかあるんですか?」
 「分からない。怖くて家族の誰も調べないんだ。きっと猫の死骸のせいだろうって親父は言ってる。病気の猫が死にに来るんだって」
 「そんな・・・」ヒカリは立ち止まって俯いた。惰性で彼女の一歩先に進んでしまった僕は、彼女の方に体の向きを変える。
 「悪い・・・ひいた?」
 するとヒカリは、顔を上げて「キッ」と音がしそうなくらい意志が強くこもった目でこちらを見た。
 「調べに行きましょう」と彼女は言った
 「今すぐに・・・じゃなくてもいいですけど」
 「いいの?本当に何があるのか、僕も保証できないよ。」
 「いいです。少しでも先輩の悩みを解決したいんです。もし猫ちゃんが原因ならちゃんとお墓に埋めてあげたいし、それに・・・」
 「それに?」
 「あわよくば先輩の部屋に上がれるし」そう言って、少し顔を赤らめる。
 そんな彼女をすごく可愛いと思ったことは覚えている。結局その後、臭いの原因を探りにいったかどうかは記憶にない。

 もう一つは彼女との別れの場面だ。僕が地元の大学に進学して1年目のこと。進路選択する時期に差し掛かった彼女は、都内に進学することを決めた。それは大変素晴らしいことだったが、問題はそれが実現した場合に、彼女と僕の間にできるの距離のことだった。
 彼女はたとえ遠距離でも関係を続けたいといっていた。僕がそれにごねた。色々理由は述べたものの、本当のところは僕に彼女を繋ぎ止めておくだけの自信がなかった、という一言に尽きる。そして結局、ヒカリの方が折れることになった。
 彼女が向こうへ出発する日、近くの駅まで彼女を送っていった。言葉は交わさなかった。改札をくぐる直前、突然彼女が手を握ってきた。そしてじっと僕の指先を見つめていた。
 それまで、幾度となく手を握り合っていたものの、その時ほど彼女の体温を切なげに感じたことはなかった。
 「バイバイ」
 唐突に言うと、急かされるように踵を返し、電車に乗りこんで行った。こちらを一度も振り向かなかった。間髪入れず、鉄のドアが僕らの間を隔てた。
 その場面はそのようにしてあっけなく終わる。


 うたた寝から目を覚ますと、隣のカップルがたてる音は、先ほどまでの密やかなものから「喘ぎ声」に変わっていた。
 おそらく近い距離で体を触れさせているうちに、そんな雰囲気になってしまったのだろう。 
 決してわからなくはない状況といえるが、時と場所を選んで欲しい。あなた方の隣には、家出をしてきて、ここの他に特段の居場所がない男がいるのだ。もちろん知る余地もないのだろうが。
 すがるような思いでしばらくその状況に耐えたが、それが更に生々しい気配にエスカレートしてくると、流石にたまらなくなって部屋を出た。
 慌てて足を突っ込んだスニーカーをスリッパのように扱いながら、カウンターで店員を呼び、部屋替えを申し出た。
 理由を聞かれると
 「隣の部屋の人が性行為しているからです。」
と答えた。
 店員は一瞬目を点にしたが、すぐに「すみません」と平謝りして手元の機器を操作し始めた。
 「あいにくと同じ条件のものは空いておりません。」
 ドアを閉じるように、ピシャリと店員がいった。
 「ですが、カフェ席でしたらご案内できます。どうしますか?」
 僕は即答で、承諾した。

 カフェ席と呼ばれたその場所は、文字通り机とテーブルが並んでいるだけだった。その眺めは、ブース席のそれと比べていささか平凡な眺めだった。
 それぞれの席に番号がふられていて、どうやらそれに従って着席せよとのことらしい。腰掛けると。座った椅子は硬く、とてもではないが眠れそうにもない。睡眠は諦めるしかなかった。
 そのスペースには、僕の他に2人の利用者しかいなかった。疲れたサラリーマン風の男と頭の上側が黒くなった金髪の女。
 彼らは心ばかりに仕切られたテーブル席に突っ伏すようにして、各々の個人的な時間に没頭していた。
 (少なくとも静かに過ごすことはできそうだな・・・)
 (さっきのカップルは退室させられたのかな・・・)
 そんなことをぼんやり考えながら、漫画本が並んだ棚の間を歩く。目当てのものがあったわけでもないので、適当に目に留まったものを2、3冊手にして、指定の席に着いてページを開いた。
 しばらく読み進めるうちに、僕の選んだその物語が、偶然にも高校生の恋愛を描いたものであることに気づいた。青春を若干拗らせた不器用な男女を主役に、彼らのすれ違いと成長を描くストーリー。よくある内容だと思ったけど、引き込まれている自分がいた。何か過去の自分と重ね合わせる所があったのかもしれない。思い出とは厄介なものだ。
 そうこうしていると意外にも集中して読み込んでいた。どれくらい集中していたかというと、後ろに立つ女の気配に気づかないほど・・・だった。
 「それ、いい漫画よね。」
 女の声が言った。驚いて振り返ると、先ほどチラリと見えた女が立っていた。
 ダルっとしたTシャツとハーフパンツ、無造作に垂らされた長髪という姿は、まるでさっき部屋から出てきましたというように周囲に気を使っていない様子だった。(実際にそうだったのだろう)
 そんななりでも、なんとなくスマートな印象を覚えたのは、ゆるいサイズ感の衣服から出たほっそりした手足のせいだろう。彼女が立ち、僕が座っているという位置関係を抜きにしても、その身長は女性にしてはとても高いように感じた。そして何よりもその瞳が僕を捉えていた。きっとノーメイクなのだと思うが、それにしてもくっきりとした目つきだった。その目が伝えてくる感情はどことなく僕をドギマギさせた
 「ええ、まあ・・・」
 しばらく間を置いてから答えた。彼女のセリフから、この漫画に少なからず思い入れがあるようだったが、何しろつい先ほど出会ったばかりなのである。気の利いた言葉など出てこようはずもない。
 すると、その様子を見て彼女は何かを察したらしく
 「ん、何、別に好きで読んでたわけじゃないのね?」
 そう言った。
 「そうです。」と僕。
 「適当に手に取っただけで、別にこだわりがあったわけでは・・・」
 「あ、そう」
 心なしか残念そうな声色でいうと、彼女は踵を返して、自席に戻っていった。
 その全てが突然のことで、僕は呆然としていた。読みかけのページに集中しても、内容が頭に入ってこなかった。
 しばらくは出来事を反芻しながら、状況を整理していたが、次第にその気持ちは後悔に変わって行っていることに気づいた。要するに深夜、いい感じの女の人に話しかけられるというドラマみたいな状況に差し掛かりながら、それをみすみす逃すということをしたのだ。
 何度か席を立って、話の続きをしするために彼女の席に向かおうと思った。
 『すみません、さっきはびっくりしちゃって心にもないことをいっちゃいました・・・』
 『照れ隠しなんです。昔から自分を曝け出すのが苦手で・・・』
 色々な言い訳が頭の中を巡ったが、結局どれも飲み込まざるえなかった。今更、どんな言葉を並べたところで、怪しげな口説き文句にしかならないだろう。
 きっと彼女が求めていたのは、そんなことよりもささやかな共感だった。そしてそれを得る機会は、もう永遠に僕の手元から走りさってしまったのだ。

 静かな時間が流れた。はじめはそぞろだった僕の心も、寄せては返す無音の波に洗われて次第に平静となっていった。漫画を一巻、また一巻と読み終えていく。そうして2、3時間ほど過ごした。時が止まっているみたいだった。たまにブース席とドリンクバーとの間を行き来する客のスリッパの音がひびいて、時間の流れを思い出させた。
 やがて一連の漫画本を読み終え、戻そうとするときに偶然、先ほどの女の後ろをお通りすぎることになった。その時ほとんど無意識に彼女の方に視線が行った。
 見たことのあるコマ割りが止まった。
 「あ、それ」
 僕は思わず声を出してしまった。
 すると、意外なほど敏感に彼女が振り向いた。
 「何?」
 「この間読みました。いい漫画ですよね」
 彼女が目を丸くした。
 「これは読んだことあるの?」
 「ええ。」
 「お気に入りよ、これ。君も?」
 「はい。よくある魔王討伐ストーリーの『その後』を描いたところが秀逸で」
 「同感。」
 彼女は体ごと僕の方に向きを変えた。

 「ちょっと待ってて」
 しばらく話したところで、彼女が言う。
 すると何を思ったのか漫画と飲みかけのドリンクを残して颯爽とエリアの外に出て行ってしまった。
 しばらく呆然としていると、再び彼女が戻ってきて
 「君の隣に席を変えてもらったよ。立ち話もなんでしょ?」
 手にはその際に発行されたらしき、レシートがひらひらと揺れていた。

 お互いの席に戻って改めて漫画についての会話を再開させた。
 ほとんどの内容は漫画についてだったが、端々の話題で彼女自身についてのことを知ることになった。
 名前はリカコ、年齢の程は25歳くらい、元アパレル店員でフリーター。元々はファッションモデル志望で業界にアプローチしたが挫折。せめて近い界隈にはいたいとアパレルの販売員で就職したがハードワークに潰された。今はフリーターで、近くのアパートに彼氏と暮らしている。その彼氏は長期出張中で最近顔を合わせていない。普段ならそんな状況はどうと言うこともないが、今日に限ってはうまく眠れなくて、たまたまここにきた。そんなところだった。
 「君は大学生でしょ?」
 僕のことは、話す前からバレていた。
 不思議そうな顔をしていると
 「わかるよ。販売員時代に君みたいなバイトの子をよくみてたから」
 「みたいな?」
 「そう。ある程度類型があるのよ。」
 「どんな感じなんですか?その類型っていうのは」
 「そうね“ボッとしてて”“何考えてるかわからない”って感じ?」
 「・・・・」
 「あ、傷ついた?ごめんね?」
 「ええ、まぁ」
 「でもね、なんかほっとけないのよね。そういうタイプ。ついついかまいたくなっちゃう。」
 (なるほど)
 僕は考えた。
 (それが声をかけた理由か・・・)
 思っていたような展開ではなかった・・・・が。それでも悪い気はしなかった。
 その夜、僕はなんとなく「寄るべ」みたいなものを求めていたのだと思う。
 リカコさんはうってつけの相手だった。元々接客をしていたことが、なんらか影響を与えているかどうかは定かではないが、彼女の佇まいには、どこかしらに開かれたところがあり、そしてそれを常に誰かのために取っておいてくれているような独特の温かみのようなものが端々に感じられた。
 「じゃあ」僕は言った
 「せっかくなんでもう少しだけ構ってください。」
 自分にしては大胆なことを言ったものだと思ったが、それが悪い意味に捉えられていないのは、リカコの表情からわかった。彼女は少し意地悪そうに笑って
 「そうこなくちゃ」と言った。


 彼女との話には、当然のように花が咲いた。が、予期せぬ理由で、中断せざるをえなくなる。
 気づけば、同じスペースをつかっていたサラリーマン風の男が恨めしい目線をこちらに送っていたのだ。
 しばらくの間はそれに耐えた。何か反応をしてしまうと今のこの不思議に居心地のいい時間が終わってしまうように思えたからだ。それにリカコに気づかれるのも避けたかった。
 『じゃあそろそろ帰るわ』
 そんなあっさりした言葉で去って行ってしまいそうだったからだ。
変な意味で、僕の切迫感は高まっていった。せっかくの会話内容も半分頭に入ってこなかった。それだけに
 「出よっか?」
 という彼女の言葉もしばらくは理解できなかった。
 「へ?」僕は間の抜けた返事を返す。
 「へ?って、この店を出よって言ったのよ?いや?」
 「いえ、嫌じゃないですが。」
 「じゃ、いこ?」
 そういう席を立ってさっさとカウンターの方へ歩いて行ってしまった。
 僕は慌ててその跡を追う。

 「別に会話禁止ってわけでもなかったのにね」
 店の外に出ると、開口一番彼女が言った。
 「気づいてたんですか?」と僕
 「うん、あんだけ見られてればね。というか一番は・・」
 彼女は可笑しそうに口の辺りを歪めていう
 「君の表情かな・・動揺しすぎ」
 「まさかわかってて放置してました?」
 「うん・・・」
 「ひどい」
 耐えきれなくなって彼女はついに吹き出した。そして、ひとしきり笑うと息を整えるためか、しばらく黙り込んだ。
 そうして彼女が黙ると、一気に真夜中の街の気配が迫ってきた。遠くで明滅を繰り返す航空灯、ムワッとした重い質感のある空気。どこかを走る車のエンジン音。そして正体のわからない低く鈍い不思議な音ーーーそれはシティーノイズと呼ばれるものだとどこかで聞いて知っていた。
 色々な情報が溢れているのに、何ひとつ実感としてピンとくるものがなかった。僕の心境は一瞬だけ、この店に入る前の寄る辺ない感覚に立ち戻った。
 傍のリカコさんから声がかかるまでは。
 「ファミレスにでも行こうか」
 彼女はそういった
 「え・・・・」
 僕は微かに動揺したが、構わず続けて
 「ドリンクバーのうっすいコーヒーでも飲みながらもう少し話そう。家出少年くん?」

 近くの24時間営業のファミレスに入った。
 席について、彼女のいう通り「うっすいコーヒー」と、タバコの吸い殻のようにカサカサに乾いたフライドポテトを食べた。僕らが話した内容は、漫画のこともさることながら、お互いのことについても含まれていた。
 特に今度は僕の方が話す番だった。彼女は話し手としてだけではなく、聞き手でとしても非常に有能だった、おかげで僕は、あらいざらいを話すことになった。弟のこと、両親のこと、自分自身のこと。そんなことまで話して大丈夫かと思うほどに。
 「ふーん、大変ね。」
 彼女はドリンクバーの薄いコーヒーを口にしながらそんな反応をした。言葉にすると酷く短くて淡白だったが、声色に独特の温もりを感じた。まるで漫喫の液晶のタッチパネルのような。
 「君は君で色々抱えているわけだ。うんうん、わかるよ。」
 「リカコさんは?」僕は聞いた。
 「ん?」
 「リカコさんも何か抱えてるんですか?」
 すると
 「気になるの?」
 意外なほど真顔になり、彼女は言った。
 僕の言葉が珍しく彼女の核心に触れた気がして、少し緊張した。
 「実はね・・・」
 そういうと彼女は遠い目をした。
 僕は息を呑む。グッと喉がなった。彼女が口を開く。
 「自分でもびっくりするほどないのよ、抱えていることなんて。」
 ガクッとなった。そんな僕を見て彼女は意地悪そうに微笑む。
 「残念ね・・・大人のお姉さんの秘密の事情が聞けなくて」
 「そういうことじゃないですけど」
 僕はなぜか照れた・・・赤くなった顔を隠すためにコーヒーカップを口につけた。
 「まぁ彼氏は十中八九浮気してるけどね」と彼女
 コーヒーを吹き出しそうになった。
 「あるじゃないですか!」
 「ん?別に抱えるほどのことじゃくない?」と彼女
 「いや、だってじゃあ今彼氏が言っているっていう出張だって・・・」
 「まぁ、浮気だろうね。珍しくポーチをカバンの中に入れていると思って覗いてみたらね・・・ゴムがぎっしり・・・何に使うんだか」
 おかしそうに言った。
 「どうするんですか?彼氏が帰ってきたら。」
 「何事もなかったようにする。」
 「別れないんですか?」
 「向こうが言うまでは別れないわよ。」
 「ずいぶん寛大ですね。」
 「寛大っちゅうか、他にあてもないし」
 「でも、それで実際に別れることになったら、あとはどうするんですか?」
 「んん、まぁどうにかなるわよ」
 その口ぶりは、僕に「大変ね」と言ったときのそれと、全く同じだった。
 悲観するでも自虐するでもなく、ただ全てを受け入れているーーーそんな感じ。
 「悟ってる・・・て言われません?」
 僕は言った。
 「それね・・よく言われる。実はね。」
 とまた真顔に戻る。だが僕はもう騙されない。
 「なんです?」
 「私ブッダの生まれ変わりなの」
 「・・・・」
 「ちぇっ、セカンドゴロ・・・」と彼女
 「リカコさんの手練手管はなんとなくわかってきました」
 「可愛くないの」
 彼女は背もたれに身を投げ出してうめく。

 そのまま小一時間ほど話した時だろうか、不意に彼女が大きくあくびをした。
 「眠・・・・」
 涙ぐんだ目で言う。
 「帰ろっかなぁ」
 それは唐突な終わりのサインだった。その言葉が聞こえるまで、正直、この時間が永遠に続くのではないかと考えていた。
 「帰るんですか?」僕は尋ねた。
 「うん。朝方までファミレスでだべるなんて。こんなの学生以来。おかげですっかり眠気が戻ってきたわぁ」
 「それはよかったです。」そう答えたが、もはや心ここにあらずだった。
 彼女は席から立ち上がった。次いで僕も立ち上がる。
 レジの前で、ポケットからモソモソと財布を取り出す彼女をみて、慌てて駆け寄った。
 「払います。」そう言って同じくポケットから出した財布を開こうとした。すると
 「いらない。学生からお金取るほど金なしじゃないわよ」
 彼女はそう言って僕の財布を押さえた。
 その遠慮と、学生という言葉が心なしか冷たく耳に響いた。

 「君はどうなの?」
 ファミレスを出て一番に彼女が聞いてきた。
 「何が、ですか?」と僕
 「眠れそうなの?」
 「全然眠れそうにありません。」
 「あら」
 彼女は不本意そうに顔を顰めた。
 「私はこんなに眠いのに、何だか負けたような気分ね」
 「それは一体なんの勝負ですか」
 「さあね。」
 空を見上げると東の端が白み始めていた。夜明けが近い。世の中は確実に朝の時間に向かって動き始めているのだ。
 だが僕だけはまだ、夜をひきずっている。
 漫喫での出会いからの数時間で、僕の中でリカコさんに対するある気持ちが芽生え始めていた。それが一体なんなのかと問われれば、これだと名づけることはできなかったが、確かにそこにあった。そして誤魔化しようがないほどに膨らみつつあった。
 僕はそれを言葉にしなければならなかった。けれど、考えれば考えるほど足がすくんだ。前に進むことができなくなった。
 ボッとしていると彼女はグングンと明るくなった空の方へ進んで行ってしまう。
 「ウチ、向こうの方だから」とゆびをさす。それは僕の実家とは真逆の方向だった。
 「そうですか。じゃあ、ここで。」
 彼女の口からその言葉が出る前に自分から言った。そうすれば少しは、楽なるかと思った。できるだけ彼女の目を見ないように軽く会釈をして180度回れ右をした。
 「待って」
 そのとき、リカコさんの声が聞こえた。振り向くと、思いもよらないほど近くに彼女がいた。例のくっきりとした瞳が眠気のために半分閉じかかっている瞼の隙間から、みてとることができるほどの距離だった。
 それから信じられないことが起こった。彼女が僕を抱きすくめたのだ。
 その瞬間は、何が起こったのか、理解しかねた。だが、遠くに落ちた雷の音が少し遅れて聞こえるように、彼女と触れ合ったと言う事実が、頭の中で爆発した。
 「変な意味じゃないから。」
 体を離すと、第一声、彼女は言った。
 「言ってみれば、親愛の情。たくさん話できて嬉しかった。」
 そう言ってからも、彼女は何か考え事でもするかのように僕をじっと見ていた。
 そんな彼女を見つめながら、散らばった感情と考えをかき集めていた。集中できない。頭の中を何かが轟音を立てて吹き抜けている。
 「まだ言えてないことがあるような気がする。・・・でもまぁ、いっか。」
 リカコは拍子抜けするくらいにあっさりとした調子で言うと、くるっと向きを変えて歩き出し
 「またね。」そんな言葉を残すと、さっさと近くの角を回って姿を消してしまった。
 立ち尽くす僕を残して。


 その夜、彼女が僕の中に残していったものは、僕にとって記念碑的なものばかりだった。いつ、どんな角度で眺めたとしても、揺るがない記憶。さながら晴れた空にのびる飛行機雲というか、アスファルトの壁にぶちまけられたペンキのシミというか。
 帰り道、僕は「またね」という言葉をずっと反芻していた。それは僕と彼女の今後の何かしらを示唆しているのか、またあの場所に行けばまた会えるのか…。
 全て、彼女の気まぐれの産物だったのかもしれないけれど。
疑問というには、あまりにも取り止めのないことばかりが頭の上に浮かび、さながら風船売りのように引き連れたまま暗い家の中に戻った。

 その夜の後、僕がその漫画喫茶に行くことは二度となかった。

 親の離婚が決まったのだ。
 父と弟は家に残り、母は北海道の実家に戻った。
 僕もどちらについていくか決められるよう求められたが、馬鹿らしくなって、これを機に一人暮らしをすることにした。
 近場で適当な賃貸は見つからず、その街から出ることになった。もちろんリカコさんのことは頭の中にあったが、まさかそのために家無しになるわけにもいかない。
 結局、3駅ほど離れたところに住むことになったが、生活のために金を稼がなくてはいけなくなり、アルバイトに追われる日々が始まると、それどころではなくなってしまったのだ。


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