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「エウレカ!」第2話:シャツを買う


 多くの人が言うように、一人暮らしというものは大変だった。
 まず戸惑ったのは、食事だった。実家の時のように、黙っていても温かい食べ物が出てくるというわけではない。米を炊き、素材を切り、煮込みまたは炒め、盛り付ける。こうして書き出してみると当たり前のようだが、日々テーブルの上に食事が並ぶまでの間には、そうした果てしない工程があるということに改めて気づくこととなった。
 改めて、母親に対しての畏敬の念がわくことになった。北海道にいる母親に電話してそのことを伝えると
 「親孝行、したいときに親はなし。」
 という意味深長で縁起でもないことを言われた。
 もう一つは、やはりアルバイトだった。働くということを実感するのは、中学の職場体験以来だった。業務に従事する時間と労働の対価で金銭を得るという、資本主義にありがちな等価交換は、それに慣れた人間にとっては至極当然のように感じられるのかもしれないが、僕にとっては新鮮な営みだった。初めてのシフトを終え、タイムカードをついた時の、開放感と達成感は言葉に尽くし難いところがあった。
 勤め先は、近所のスーパー。アパートに入居して初めての食料品の買い出しに行った時に偶然求人の張り紙を見たのがきっかけだった。「急募」という表示があったが、実際面接を受けると、即採用ということになった。貴重な男手だったらしくレジ打ちから品出し、朝の搬入、夜の締め作業など、様々な業務内容と時間帯に駆り出された。家賃を除くすべての生活費は自給自足だったから稼ぎぶちがあることは助かったが、最初のうちは疲弊して、大学の講義に寝坊することさえあった。
 幸いにも職場の人間関係は良好で、働き慣れていない僕を大変優しく扱ってくれた。年の離れた女性のパートさんは僕を孫のように思ったのか、ゆで卵やら煮物やらを差し入れてくれることもある。その時は、あまりのありがたさにその場で涙してしまい、当然従業員の待合室は騒然となった。

 アパートはコスパ重視で選んだ2DKだった。築年数はウン10年ということもあって、それなりの見た目だった。和室とフローリングが混在するタイプの間取りで、風呂は追い焚きできず、トイレは洋式だったが明らかに和式のそれを改装した感が強かった。気に入っていたのはバルコニーが付いているところ。晴れた日はサッシを開け放つと部屋が一気に広く感じられた。実家暮らしの時と比べて、すべてのスペース感がひと回り縮小した感じだったので、この特典は大変ありがたかった。
 コスパ重視の観点から選んだと先ほど書いたが、実際、家賃はこの間取りにしては破格だった。こういう場合、誰しもがそうだと思うが、業者にこの物件を紹介された際、例に漏れず僕も『あること』を疑った。
 「事故物件です!」語尾にびっくりマークがつきそうな勢いで内見の担当者は言った。二十代後半の女性が担当者だったが。きっと同じような思考回路の人が沢山いたせいで、嫌気がさしていたのだろう。
 「10年ほど前の入居者の男性が、お亡くなりになっています。場所は、そちらです。」
 そう言って、和室を指差した。僕は思わず息を呑んだ。
 「何か跡が残っているとかそういうことはありません。ご利用にも差し支えはないかと思いますが、一応お知らせします。」
 それを聞き、ひとつ気になることがあったので尋ねることにした。
 「あの、死因は何だったのでしょうか?」
 すると、担当者は少し答えに窮していた。その様子から、僕は殺人とか自殺とかそういった線を予想した。しかし、回答は想像を遥かに凌ぐものだった。
 「性交死です。」
 「性交死?」拍子抜けして変なトーンの声になってしまった。
 「それってあれですよね。いわゆる・・・」
 「そうですね・・いわゆる腹上死と言われるものです。その入居者の方は60歳くらいの男性で、お若い恋人の方をお部屋に呼んで、その・・・行為をなされていたところ、そんなことになったと聞いています。お相手の方が、即時通報されたので、ご遺体がどうかなったということはないんですが・・・」
 それで黙り込んだ。顔が赤くなっている。悪いことをしてしまったと思った。
「失礼しました。よくわかりました。ありがとうございました。」
 気まずくなった。沈黙の中で僕まで顔を赤くしてしまった。
 その出来事の罪悪感があったわけではないが、僕はその場で契約することを伝えた。
人が死んでいることに変わりはないが、男としてある種の本望を叶えて死んだのだから、化けて出てくることはないだろうと踏んだのだ。実際、数ヶ月が過ぎた後も、霊的な現象は一切起こらなかった。

 そんなこんなで、僕の生活の日々は慌ただしく過ぎた。
 リカコさんのことを思い出さない日はなかった。頭頂が黒くなった金髪とブカブカの部屋着、そこから朴訥に突き出た細い手足。曲がり角を曲がるたびに、電車のドアが開くたびに、目の前にその姿が現れることを想像したし、そして何よりもあの日、あの時、彼女に伝えようとして伝えられなかった感情は相変わらず頭の上を漂っていた。
 しかしよくあるラブストーリーのような偶然の再会も、一連のもどかしい感情が言葉を纏うこともついになかった。そして季節は移り変わり、本格的な夏が始まった。


 天気予報は、連日のように記録的な猛暑の発生を告げていた。
 部屋に設置されたエアコンは、当たり前のように効きが悪く、僕は避暑のため授業がなくても大学に行った。構内はエアコン完備で、特に食堂は最も居心地が良かった。なので、自然とそこに居座ることが多かった。
 その日も、冷房機に程近いテーブルに陣取り、涼をとっていた。手元には課題のための資料と参考図書が広がっていた。同じような機能を持つ場所として、図書館という選択肢があったが、どうも人が多くて苦手だった。
 やがてランチタイムが始まると、僕は、いの一番で注文の窓口に行った。
 僕の注文は決まっている。ライスの中と惣菜の小鉢を2つ。これでちょうど500円くらいだった。あとは、タッパに入れた前の日の夕食のあまりという組み合わせ。周囲が山盛りのカツカレーとか、脂身を感じる肉肉しい定食を選ぶ中で、浮いていると言わざるを得ない組み合わせだった。一度、レジを担当していた年配の女性に本気で心配されたこともある。だが生活の維持のためには必要な犠牲だった。
 席に戻り、バックパックの中から例の如くタッパを取り出した。この日は、バイト先のパートさんにもらったゆで卵3個が中身だった。こそこそと共用の調味料置き場に言って塩を一振りしてまた戻ってくる。年頃の人間としては、もう少し見えを気にするべきとも思うが、これも犠牲のうちだった。
 食べ始めれば皿が空くのはあっという間のことだったが、コストと引き換えにボリューム感を失ったこのメニューで満足を得るには、味覚を研ぎ澄ませて、口内を通り過ぎていく全ての味覚を細分化することがコツだった。極度の集中を要する行為だ。
 あまりに集中し過ぎたため、傍に立つ者の存在に気づくことができなかった。
 「あんた・・・」
 女性の声だった。見ると、マリがそこに立っていた。お盆をもち、呆れた顔でこっちを見下ろしていた。
 マリは同じ学部の同輩だった。専攻や履修する講義どころか、一人暮らしで金欠ということすら同じはずなのに、僕と違って利発で外交的で、プライドもあり、おまけに忙しかった。この時も、ブラックのパンツスーツとヒール、引っ詰めた黒髪というリクルートスタイルで、どうやら就活の帰りらしかった。
 「どーも。」
 僕はゆで卵を頬張りながら、挨拶した。しかし彼女はそんなものを気にもかけない様子だった。
 「・・・何ちゅーご飯を食べてるの?」と彼女はいう。
 「何って、ゆで卵だけど」
 「見ればわかるわよ、そんなの。私が言いたいのは・・・あぁ、もういいわ。ここ、座ってもいい?」
 とふさがった両手の代わりに顎で、向かいの席を指した。
 「どうぞ」僕は頷いていった。
 「ここ、冷房が直に来るから乾燥してやなんだけど」
 ため息をついて、彼女はお盆を置いて腰掛けた。彼女の昼飯は肉うどんだった。
 (自分で座りたいって言ったのに・・・)
 そう思ったが、口には出さなかった。どうもイラついているみたいだ。
 「なんかあったの?」僕はきいた。
 すると待ってましたとばかりに彼女が捲し立てる。
 「合説にいってきたんだけど、〇〇〇〇社の担当者が露骨に胸元見てきたの。そんで、この仕事は女性には不向きかもしれませんね・・だって。今時そんなんあり?女性じゃなくて『おっぱい』の間違いじゃないの!?」
 僕はゆで卵を吹き出しそうになった。慌てて水を飲んでそれを抑える
 「・・・それで肉うどん食べてストレス発散?シャツ大丈夫?飛沫しない?」と僕
 「いいわよこんなシャツなんか。全く、どうしてレディースのリクルートシャツって第一ボタンがないのかしら。何?胸元見せて内定取れってか。」
 吐き捨てるようにいうと、箸を割って見せしめのように景気良く麺を啜った。数滴の汁がその白い生地に容赦のなくシミを作った。
 (やれやれ、大荒れだな)僕は思った。
 しばらく無言のまま、僕はゆで卵に、彼女はうどんに向き合った。
 「というか、あんたこそどうなの?」
 つゆまで一滴残さず啜り終わると、マリが言った。
 「どうって?」
 「就活よ。シューカツ!」
 「まだ全然。バイトが忙しくてさ」と僕がいうと
 「私だって忙しいわよ。」と彼女。
 「でもこうしてやってる。セクハラめいた視線に耐えながらもね。でも君は一体何?食堂のエアコンを牛耳って涼みながら、呑気に茹で卵食ってる。本当に信じられない。」
「学生の本分は勉強だよ。それに卵は、ほぼ完全食だ。食べてて罪があるわけでもない」
 そう言って、最後のゆで卵に手を伸ばす。
 「そうじゃなくてね。あんたがそうでも、世の中は違うの。早いやつはインターンまで始めて半分内定までもらってる。この時期に、そういう実績がないと、そもそも応募を受け付けないところだってある。私たちはどんどん前に進まなくちゃいけないの。この夏が勝負なの」
 言われてみれば、確かに同輩でスーツ姿のやつが目立ってきたような気がする。マリの言い様はちょっとヒステリックだったが、鵜呑みにするなら、僕は置いてけぼりを喰らわされ始めているのかもしれない。そう思った瞬間、ゆで卵じゃない重い何かが、胃の底に落ちてきた気がした。
 「鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔しちゃって。」
 マリの言葉で我に返った。
 「・・・いや、ゆで卵食らってます」僕は返した。
 「ゆで卵のくだりはもういい!」と彼女
 「まぁ危機感持ったのなら良かった。これをきっかけに動き出すのね・・・ご馳走様でした」
 そう言って手を合わせる。そして椅子をずらして立ちあがろうとした。
 悪い予感はあった。彼女はきっと疲れているはず。まだまだ高いヒールにも不慣れだ。そして肉うどんで腹を満たされて幾分はマシになったろうが、少し冷静さを欠いている。これらの状況が引き起こすだろう事態に備えて、僕も椅子から腰を持ち上げた。
 その予感は当たった。
マリは、立ち上がると同時に向きを変えようとして、大きくバランスを崩した。支えを失って、体が傾く。危うく向かいの机の角に顔から突っ込みそうになるところを、間一髪で僕の腕が間に合った。その状態を僕が後ろから抱き抱えるような格好になった。
 「・・あ、ありがとう」
 僕の力を借りて状態を立て直すと、彼女は言った。
 「すごいわね。なんかヒーローみたい」
 「・・・なんでわかった?」
 「はい?」
 「実は夜な夜なヒーロー家業に勤しんでいるんだ。パッツンパッツンのタイツみたいなスーツに身を包んで。就活に興味がないのもそのせいで・・・」
 「ばかじゃないの?」
 僕の言葉の途中で言い捨てると、彼女は踵を返して歩いていった。また転ぶんじゃないかというような速度で。僕は心配でその姿を見送っていたが、しばらくしてあることに気づいた。
 (食器の返却忘れているよ・・・)
 僕は、テーブルの上に残されたうどんの器を見て、ため息をついた。


 『私たちはどんどん前に進まなきゃならないの!』
 そのマリの言葉が、思いの外、心の中に残っていた。
 食堂を離れ、バイト先に向かう途中も、ずっと頭を離れなかった。
 (確かにそうかもしれない。)僕は思った。
 (前を向いて進まなくちゃならない。リカコさんのことも忘れて。でもどうやって?)
 そんなことをずっと考えながら、歩いた。そのせいか、バイト先に着く頃には、いつも以上に疲れ、少し頭が重くなっていた。
 今日は、昼過ぎから夕方までの比較的短い時間でのシフトだった。シフトの急な欠員補充のための要請だった。
 ちょうどいい、と思った。パートの皆さんに慰めてもらおう。
 しかし、期待に反して、パートさんたちはマリ側の人間だった。
 「それは、確かにその子の言うとおりかもしれないねぇ。」
 一人のパートさんが言った。
 「今は、人材の確保のための企業の抱え込みがすごくて、みんな早いうちから就活してるっていうよ。」
 「そうそう!」
 別のパートさんが答える
 「私の娘も、シューカツ、シューカツって、焦ってスーツ買い始めてた。ついこないだまで、ピンクだか赤だかわからないような髪色だったのに、途端に真っ黒に染めて!こないだは『インターン行く』とか言って、張り切って家を出て言ったっけ。」
 「準備もあるもんね」とまた別のパートさん
 「ジコブンセキ、キギョウケンキュウ、だっけ?大変よねぇ、今の学生さんは。昔は、面接を受けさえすれば、そのまま内定ってこともあったのにね。まぁ、私は端っから専業主婦だけど。」
 「あなたは、大丈夫なの、そういう準備」
 ここで最初のパートさんに話し手が戻った。
 「いやぁ、まぁまぁですね。」
僕は答えたが、実際のところ、それに向けた準備らしい準備は全くと言っていいほどしていなかった。特にスーツのようなお金のかかる代物は、金銭的な意味でも手を出しにくかった。
 そんな心の声が聞こえたのか
 「早いこと、ちゃんとしたほうがいいかもねぇ…」とパートさんはいう
 「…そうだ。スーツ欲しくない?私の息子のお下がりがタンスの肥やしになってるのよ」
 「いや…それは、流石にちょっと・・・悪いです。」
 その頃には僕はすっかりしどろもどろになっていた。
 結局スーツは借りることになったが、着ることはないだろう。

 しかし、彼女たちの言うことは最もだ。その気になった時にすぐにでも動き出せるよう、備えはしておいたほうがいいのかもしれない。
 バイトを上がると、その足で近くのスーツ量販店に言ってみた。
 店内に入った僕は圧倒された。当たり前のことだが、そこはスーツだらけだった。均等な間隔で整列され、ディスプレイされたジャケットやらスラックスやらが、所狭しと並べられている。そしてそのどれもが、ネイビーやチャコールグレーのような暗い色合いで、視界に重く覆い被さってくるようだった。サイズ表記も普段行き慣れたお店のそれと違う。YとかAとか、まるで暗号のような表記だった。色々な情報が氾濫して、僕は危うく迷子になるところだった。
 就活生向けのスーツは、ちゃんとひとまとまりになってエリアを設けられていた。「就活応援」を謳った様々な売り文句がひしめくPOPが目印だった。
 エリアの前には2体のマネキンが番人のように設置されている。それぞれに男性向け、女性向けのリクルートスタイルを提案しているようだ。男性役のマネキンは片手にバッグを持って仁王立ち。首元は白シャツと真っ赤なネクタイとで彩られ、見ていて恥ずかしさを覚えるくらいに主張していた。一方、女性役のマネキンは、その脇に座って、おそらく就活面接を意識してか、真面目さのお手本のような姿勢で座っていた。なんとなく胸元を見ると、マリが酷評したような、胸空きシャツを着込んでいた。  
 こちらも真っ白なシャツで見ていて目が痛くなるほどだった。うどんの染みくらいはあってもちょうど良いのかもしれない
 そうして2人の番人に圧倒されて立ち尽くしていると
 「リクルートスーツをお探しですか?」
と声をかけられた。十中八九店員だった。セールストークを予感して、面倒臭さに思わず体が打ち震えたが、その声にはどこか聞き覚えがあるような気がした。
 「ただいま就活応援の特別期間中で、2着買うと1着分は30パーセントオフで・・・て、あれ?」
 声の方向を見ると、そこにリカコさんが立っていた。

 「ちょっと、遅くない?」
久しぶりの再会の緊張感は一瞬にして去り、リカコさんの声は、すっかりあの夜のテンションに戻っていた。
 「多分、いいサイズ感はほどんどはけてると思うよ。ここ1か月で怒涛のように就活生が来たからね。君ってホントにボッとしてるのね。」
  そう言いながら、次々にハンガーにかかったスーツを繰っていく。その慣れた手つきは、すっかりスーツ専門店の店員のそれだった。
 仕草だけじゃない。着こなしも一変していた。体に程よくフィットしたパンツスーツには、チャコールグレーの地に、細かい白のストライプが走っている。足元はマリのそれとは比較にならないほど、踵が高いハイヒールを合わせていて、動く度にカツカツと鋭角的な音を立てていた。そして特徴的だったあの金髪は、根本までダークブラウンに染め抜かれており、まるで磨きたてのようにツヤを放っていた。
 そんな姿に見惚れていると
 「・・・あ、ほら、これがいいんじゃない?」
 そう言って戻ってきたので、ハッと我に返る。
 リカコさんが持ってきたのは、ネイビーのスーツジャケットだった。どこにでもありそうな代物だったが、彼女が持っているとなんだか特別な1着のように見えてきて不思議だった。
 「ちょっとジャケットを羽織ってみなよ。」
 そう言って、ハンガーからジャケットを外して広げてみせる。
 「まるで店員さんみたいですね」僕が言うと
 「そりゃそうよ。だって店員だもん」とバカ真面目に答えた。
 「・・・・あ、いいじゃない。ぴったりしてるわ。鏡で見てごらん。」
 そう言って僕の両肩を優しく捉えて近くの鏡の前に誘導した。
 正直、ジャケットを羽織っただけでそんなに大きな変化があるとは思えなかったが、鏡に映った自分を見てみて、驚いた。そこにはネイビーの輪郭で縁取られ、背景からシャープに切り取られた自分の姿があった。これがいわゆる『シュッとする』というやつか。
 「うん、良い良い。ネイビーの色もあってすっかり真面目な就活生だわ。じゃあ、スラックスの方も合わせてみようか」
 リカコさんはそう言って試着室の案内を始める。

 「びっくりしたよ。まさかこんな風に会うことにあるなんて」
 渡されたスラックスに足を通しているとき、カーテン越しに話しかけてくる。
 「僕もです。でもまさかスーツ屋さんの店員とは、意外でした。」
 「あっそう?もともとアパレルだって話、しなかったけ」
 「しましたけど、どっちかっていうとストリート系?みたいなイメージでした。」
 「ストリート系に偏見があるみたいね。まぁ当たらずしも遠からずだけど・・そろそろ履けた?」
 スラックスは履けていた。だが裾が大幅に余っていて、なんだか恥ずかしい気がしていた。
 「開けるよー。」リカコさんはそう言って遠慮なくカーテンを開け放った。
 「うん・・ウェストのサイズ感は大丈夫そ?」
 「はい。」
 「腰の位置はそれでいい?」
 「ですね。」
 「じゃあ、鏡の方を向いて。」
 指示通り動くと彼女はすぐに足元にかがみ込んだ。
 「裾の長さにお好みは・・・あ、ないね。ごめんね。ルーティンでついつい聴いちゃうの。」
 そう言い終わるか終わらないかのうちに、手早く片足の裾を折り返して、調整後の長さを擬似的に再現して見せる。
 「リクルートスーツだしね。この位が適当かな。ちょっとこれ履いてみて。」
そう言って試着用と思しき靴を一足出してきた。僕は促されるままにそれを履く。
 「どう?裾のあたりとか、余ってるように感じる?」
 「・・・大丈夫みたいです」
 「そう。じゃあカーテン閉めるから。脱いで」
 カーテンが閉められる。再び二つの空間に隔てられる。
 「彼氏とはどうなりました?」ずっと気になっていたことを聞いた。
 「別れたわよ」あっさりと答えた。
 「でしょうね。」とぼく。
 「向こうのほうから別れを切り出してきて、私は二つ返事。大変だったのはそのあと。持ち物持ってすぐでてけって言われて。きっと翌日にでも新しい彼女が来る予定だったのね。せっかちな人だったし。まぁおかげで、次の物件が見つかるまで、2日くらい野宿したわ・・・ってこんな話聞きたくない?」
 「いえ、むしろ聞きたいです」
 「そう、もの好きね」
 「今はどうなんです?」
 「どうって?」
 「彼氏とか、そっちの方面」
 「いるわよ。今のこの仕事は、彼の紹介。」
 「・・・そうでしたか。」
 「本社で人事やっててね。ある晩に一人飲みしてて、お会計でお金がないことに気づいて、焦ってるところを助けられて、そっから。」
 「なるほど」
 「脱げた?」
 「はい」
 カーテンが開けられる。
 「次はシャツね。」
 スラックスを受け取ると、リカコさんは言った。そしてどこから取り出したのか、メジャーを胸の前で、横一文字に広げてみせた。
 「寸法取らせていただきます。ちょっと失礼!」
 そう言って、流れるような動きで、首の周り、首の付け根から肘、肘から手首までを次々と測っていった。彼女が腕を首の後ろに回す時、いい香りがした。思わず、あの日の夜明けのことを思い出してしまう。
 「こっちにきて!」
 また別の場所に誘導される。まるでスーツの波の中を泳ぐように、リカコさんは歩く。
 「就活用だし、そんなに色気のあるものは選べないわよね。」そう言って真っ白なシャツを持ち出してみせた。
 「あとは、ネイビーのレジタイで」
 また別の棚からネクタイを取り出してきてシャツの上に乗せた。
 「すごいですね」
 「何が?」
 「手慣れているな・・・と」
 「でしょ?なんといっても店員だからね。」そう言って意地悪そうに笑った。
 「ネクタイはともかく、シャツは何枚か持ってた方がいいよ。あとは靴下と靴とバッグってとこかしら…というか聞いてなかったけど、今日の予算感はいくらくらいなの?」
 そう言われて、はっとあることに思い当たった。
 「・・・リカコさん」と僕。
 「ん、どうした?」
 「僕、今日あんまりお金持ってきてないです。」


 結局、有り金でシャツだけを買って、他のものはリカコさんの権限でキープということになった。その代わりというように、メンバー登録とか、その他様々なめんどくさい手続きを踏まされることになった。その案内は別の店員さんが対応して、その間、リカコさんは他のお客さんをテキパキと捌いていた。
 一連の面倒臭い手続きを終えて、僕が解放される段になると、リカコさんはわざわざ出口まで見送りに来てくれた。
 「いい?必ず取りに来るのよ。私はほぼ毎日いるから。必ず呼び出してね。」
 彼女は念を押すように言った。
 「本当にすみません」
 「いいってこと。就活頑張れよ。少年!」
 「じゃあ、これで。」
 「またのご来店を・・・じゃない、じゃあまたね」
 そう言ってリカコさんは笑った。

 複雑な心境で、僕はアパートに戻った。
 リカコさんと会えたのはいい。彼女が定職に就いていたのは更にいいとしても、新しい彼氏がいたりなんだりと言うのは、非常にいただけない事実だった。しかもどちらかというと彼女もマリ側の人間だった。それに、あの朝方の出来事のことを覚えてるようなそぶりが一切なかった。このことが一番のショックだったかもしれない。
 だがとりあえず、再会を喜ぼうと思う。これまでは全て妄想の中での出来事だったが、これからは少なくとも、あの店に行けば彼女と会うことができるのだ。
 それはそうと、なけなしの金で買った白シャツを早速試してみようと思った。
 姿見の前でそれを着て立ってみると
 (なかなかいいじゃん)
 となった。
 マネキンが身につけていたのを見た時は、気恥ずかしいばかりの白シャツだったが、こうしてみると、悪くなかった。体にピタッとしているが、きついこともなく、またブカブカもしない。生地は薄いようでいて、意外にしっかりしていて頼もしかった。
 世界で僕だけのためにある服。そして何よりもこれはリカコさんが選んでくれたものなのだ。この先何があろうとも、なんとなく乗り越えていけそうな気さえした。

 とても気に入ったので、翌日の登校の際に着て行った。これで僕も就活生として一歩を踏み出すことができたのかもしれない。居場所は相変わらず食堂で、エアコンの前だったが。
 「あんた何やってんの?」
 とマリが、僕を見るなり言った。今日は流石にリクルートスタイルではない。早速、彼女より一歩前に進んだということか。
 「何って、涼んでるだけさ。いつも通りにね。」僕は言った。できるだけさりげなくシャツをアピールしながら。
するとマリは呆れ顔になって言った。
 「リクルートシャツを普段着にするって、天才なの?すごくダサいんだけど」


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