海運に炭素価格ができても、船はすぐには動かない——100ドルより深刻な「3年先しか読めない」問題
「カネは余っている。足りないのは案件のほうだ」——脱炭素の議論に慣れた人ほど、一瞬とまどう言葉かもしれません。これまで私たちは「グリーン投資には資金が足りない」と聞かされてきたからです。ところが今週目に留まったのは、その通説をひっくり返す金融側からの問題提起でした。題材は、国際海運に世界的な炭素価格を導入しようとしている、いままさに揺れている制度です。「価格は見え始めた。それでも船はすぐには動かない」。なぜなのか、を解きほぐします。
取り上げるのは、国連環境計画・金融イニシアティブ(UNEP FI)と欧州銀行連盟(EBF)が公表した政策ブリーフ「Transitioning the EU Transportation Sector: Aviation and Shipping」です。航空と海運という、いわゆる脱炭素が難しいセクター(hard-to-abate)について、どうすれば民間資金が流れ込むかを金融機関の目線で整理したものです。今日はこのうち海運に絞って読み解きます。航空のCORSIAは罰金額すら明示されておらず、価格シグナルとしては別物なので、稿を改めます。
▍まず、海運に「炭素価格」が生まれていた
意外と知られていないのですが、海運には「炭素価格になりうる枠組み」がもう姿を見せています。2025年4月、国際海事機関(IMO)のMEPC 83(海洋環境保護委員会の第83回会合)で、Net-Zero Framework(NZF)が承認されました。IMOの下で国際海運に導入される、初のグローバルなGHG価格メカニズムになりうるものです。炭素価格自体はEU ETSなどで既に存在し、海運にも段階的に適用されていますが、世界全体を対象にIMOが課す価格は、これが初めてです。
ただし、ここが肝心なのですが、まだ「できた制度」ではありません。正式採択を予定していた2025年10月の特別会合は、採択に至らず、議論は2026年に持ち越されました。採択をめぐる投票は行われず、57カ国の賛成多数で1年間の延期が決まったのです。採択後は黙示受諾手続きを経て16か月後に発効する想定ですが、その採択自体が宙に浮いている。発効は早くても2028年と見られますが、これも確定ではありません。つまり制度の方向性は見えたが、いつ・どの強さで動き出すかは、まだ読めない状態です。
仕組みは少し変わっていて、二段構えになっています。船は燃料のライフサイクルGHG強度(GFI)を毎年報告し、「Base(基準)」と「Direct Compliance(より厳しい直接遵守)」という二つの目標と照らされます。基準を超過した不足分については、IMOのNet-Zero Fundに支払ってRemedial Unit(RU)を購入して埋める仕組みです。逆に目標を上回った船にはSurplus Unit(SU)が与えられ、売却・移転できます。RUの価格は2段階で、2030年まではDirect Compliance未達分(Tier 1)が1トンあたり100ドル、Base未達分(Tier 2)が380ドルとされています。注意したいのは、これは排出量全体にかかるのではなく、あくまで「基準を超えた不足分」に対する単価だという点です。「不足分を払って埋めるか、超過達成して売るか」という、排出量取引に近い構造です。
注目すべきは、罰金額がぼんやりした「努力目標」ではなく、100ドル・380ドルという具体的な数字で出ている点です。CORSIAが明示的な罰金額を持たないのと対照的で、その意味では海運はかなり踏み込んだ。ではこれで投資が動き出すかというと、話はそう単純ではありません。
▍100ドルでは、まったく足りない
問題は価格水準です。グリーンな船舶燃料と従来燃料の差は、炭素価格100ドルでは到底埋まりません。
具体的な数字で見てみます。海運脱炭素の研究機関GCMDのLynn Loo CEOが2023年時点で示した概算では、グリーンアンモニアと従来燃料(VLSFO)の価格差を埋めるには、VLSFOに対して1トンあたり350ドル前後の暗黙の排出価格が必要とされています。VLSFO 1トンの燃焼で約3トンのCO2が出るという前提です。もちろんこれは燃料価格の前提に左右される粗い試算で、その後アンモニア製造コストやVLSFO価格は変動しています。それでも、少なくとも100ドル/tCO2ではグリーン燃料のプレミアムを埋めにくい、という方向感ははっきり示しています。IMOのTier 1がわずか100ドルであることを思えば、なおさらです。
ここで効いてくるのが、この枠組みの設計です。多くの船はまずBase目標さえ満たせばTier 2の380ドルを回避でき、Direct Complianceに届かなくてもTier 1の100ドルを払えば操業を続けられます。となると、実効的な炭素価格は安いほうの100ドルに張り付きやすい。「燃料を切り替える」より「100ドル払って済ませる」ほうが安いという、古典的な構図です。Loo氏自身、EU ETSの90ドル前後ですらグリーン燃料のプレミアムを覆うには程遠いと述べていて、世界がそんな高い排出価格を支えられるとは考えにくい、とまで言い切っています。
さらにややこしいのは、SUの価格にもRU価格が一種の参照点として効いてくる点です。高すぎるSUを買うくらいなら、船主はRU購入を選ぶからです。分析では、SU価格は1トンあたり300ドル程度に落ち着く可能性も指摘されています。ただし、実際のSU価格は、供給量、バンキング可能期間(SUの有効期間は2年とされます)、低炭素燃料への報酬制度、各年のGFI目標によって左右されるので、380ドルが機械的な上限になるわけではありません。それでも、価格を上にではなく下に引っ張る力が働きやすい設計だ、とは言えます。価格は見え始めたが、低い。これが第一の壁です。
▍本当の壁は「価格が読めない」こと
ただ、ここで「だから炭素価格をもっと上げればいい」と結論づけると、半分しか当たっていません。UNEP FIとEBFのブリーフが、わざわざ「バンカビリティ(bankability)」という耳慣れない言葉を選んでいるところに、もう一段深い論点が隠れています。
バンカビリティとは、「そのプロジェクトに銀行が融資できるか」という与信の概念です。限界削減費用(MAC)が「社会全体で見て割に合うか」という公共経済学の物差しだとすれば、バンカビリティは融資担当者の審査テーブルの物差しです。主体が違う。そして銀行が15年、20年のローンを出せるかどうかを最終的に決めるのは、平均コストの高低そのものではなく、将来キャッシュフローの予測可能性です。
ここでIMOの炭素価格の最大の弱点が浮かび上がります。100ドルと380ドルという価格は、2030年までに設定された値で、2031年以降は別途見直して定めるとされており、その先は事実上の白紙です。しかも、価格が読めないという問題は二重になっています。価格水準そのものが3年程度しか確定していないことに加えて、前述のとおり、制度の採択時期さえまだ決まっていない。2025年10月の会合では、将来の修正の受諾手続きを従来の黙示受諾から明示受諾へ変える案まで持ち出され、これが実装をさらに遅らせかねないとして、2026年に再検討されることになりました。「いつ始まるか」も「始まった後いくらになるか」も読めない、という二段構えの不確実性です。
グリーンメタノールやアンモニアを焚く新造船の償却期間は、ふつう15年から20年に及びます。プラント投資ならなおさら長期です。にもかかわらず、その投資判断の前提になる炭素価格は、せいぜい数年先までしか見えていない。その先は国際交渉で決まる——銀行にとって、これほど融資しづらい資産はありません。コストが高いことよりも、コストの地平線が短いことのほうが、はるかに重い。長期のオフテイク契約も、相手が「20年後の炭素価格が読めない」状態では腰を据えて結べません。
だからこそ、UNEP FI/EBFの処方箋は「炭素税を上げろ」ではなく、ほぼすべてが「予見可能性を作れ」という方向を向いています。予測可能で長期的な規制枠組みが投資判断を支えること、安定した燃料義務の維持、複数年・事前的な枠の配分、そして差額契約(CfD)。CfDは、市場炭素価格がいくらになろうと国が一定の価格差を保証する道具で、まさに「読めなさ」を国が肩代わりして民間に固定価格を見せる仕掛けです。
言い換えると、彼らは問題を「価格が低い(MACが高い)」から「価格が読めない(リスクが高い)」へと、静かに再定義しているのです。仮に100ドルだけでは燃料差額を埋められないとしても、それが長期的に予見可能で、かつ燃料義務、オフテイク契約、CfD、補助金と組み合わされれば、投資判断の土台にはなりうる。額の高さそのものだけでなく、約束の固さと組み合わせが効く、という主張です。
▍「やりようがない」のではない
ここで自然に出てくる疑問は、「結局、十分な炭素価格がなければ打つ手がないのではないか」というものです。この問いには、半分正しく、半分は救いがある、と答えられます。
正しいのは、炭素価格が必要条件だという点です。100ドルでは差額が埋まらず、SUは300ドルで頭打ち、それも3年限定。今のままでは民間の長期投資を呼ぶには弱すぎる。ここは厳しい現実です。
一方で救いは、炭素価格は十分条件ではない、という裏返しの事実にあります。仮に300ドルの炭素価格を入れても、それが「数年ごとに政治で見直される300ドル」で、しかも制度の採択時期すら定まらないなら、バンカブルにはなりません。逆に、相対的に低い価格でも、それを長期にわたって固定し、義務のブレをなくし、CfDで差額を保証すれば、投資は動き出す余地がある。つまり打つ手は「価格を高くする」一本ではなく、「価格を読めるようにする」という、より現実的な選択肢が残されている。これがUNEP FI/EBFが名指ししている道です。
実務・投資の観点で持ち帰っていただきたいのは、海運脱炭素の投資判断を見るとき、炭素価格の水準だけでなく「その価格が何年先まで法的に固定されているか」、そして「そもそも制度がいつ採択・発効するか」を一緒に確認する習慣です。2026年に持ち越された採択がどう決着するか、2031年以降の価格見直しがどうなるか、各国がCfDや事前枠配分をどこまで用意するか——ここが、グリーンメタノールやグリーンアンモニア、バイオ燃料といった持続可能な船舶燃料(SMF)案件のファイナンスが本当に立ち上がるかの分水嶺になります。世界的な海運炭素価格が「見えてきた」というニュースの先で、それが「読める価格」になるかどうかを、私は注視しています。
■ 参照記事
【IMO Net-Zero Framework/炭素価格】
Transitioning the EU Transportation Sector: Aviation and Shipping(UNEP FI)
From roadmap to bankable projects: Turning the EU STIP into action(UNEP FI)
IMO's Net-Zero Framework and the Global Carbon Price on Shipping(King & Spalding)
Extraordinary IMO MEPC meeting fails to adopt Net-Zero Framework(CIMAC)
【価格水準・燃料コスト差】
#カーボン市場 #脱炭素 #企業分析 #海運 #IMO #炭素価格 #SAF #ネットゼロ #ESG投資 #投資戦略 #リスク管理 #欧州
いいなと思ったら応援しよう!
この記事は noteマネー にピックアップされました

