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海運脱炭素はなぜ採択直前で凍結したのか:IMO MEPC 84後のギリシャ船主発言を読む

世界船腹量の20%、EU船腹の60%を握るギリシャの船主協会会長が「現実的で実装可能な枠組みを」と呼びかけた——だけならよくある業界声明ですが、今回はタイミングが重要です。国際海運に法的拘束力ある燃料基準とGHG価格メカニズムを組み合わせる、世界でも前例の少ないフレームワークが、採択直前で凍結された直後の発言だからです。海運脱炭素の議論が今、なぜこれほど揺れているのかを整理してみます。

舞台はIMO(国際海事機関)。国連の専門機関で、176加盟国を擁する国際海運の唯一の世界規制当局です。国際海運はパリ協定の直接の対象外なので、IMOが独自の脱炭素枠組みを作る必要がある。議論の流れを時系列で整理すると、こうなります。

NZFの中身は2本柱です。一つは船舶燃料のライフサイクルGHG強度(GFI)に年々厳しくなる上限を設ける技術規制。もう一つは基準を超過した船にトン当たり罰金(remediation unit)を課す価格メカニズム。5,000総トン以上の大型船(国際海運CO2排出の85%をカバー)が対象で、当初は2027年発効・2028年から実運用というスケジュールでした。法的性格としては「グローバル炭素税」というよりも、燃料基準+compliance paymentに近い、事実上のGHG価格シグナルです。levy派、feebate派、fuel standard派、trading派と立場が分かれる中での妥協解として組まれた制度ですが、いずれにせよ国際単一セクター全体に拘束力ある形でGHG価格を導入する例としては、極めて野心的なものでした。

ところが2025年10月のMEPC臨時会合(MEPC/ES.2)で、状況が一変します。正式採択が予定されていたその場で、サウジアラビアが「採択を1年延期する」動議を提出。投票結果は賛成57カ国、反対49カ国、棄権21カ国で、僅差で延期が可決されました。コンセンサス文化で動いてきたIMOで、採択直前の枠組みが投票で覆されるのは異例中の異例です。背景には米国の強硬な反対がありました。会合直前の10月10日、Rubio国務長官・Wrightエネルギー長官・Duffy運輸長官が連名で「これは事実上の世界炭素税であり、米国は反対する」とする共同声明を発表し、賛成票を投じる国に対する対抗措置の可能性も示唆したと報じられています。

この延期で何が崩れたか。一つは時間軸です。2027年発効が早くても2028年、実運用は2029年以降に後ろ倒しになり、IMOが掲げる2030年中間目標(2008年比でカーボン強度40%削減)の達成可能性が大きく下がりました。もう一つは投資判断の不確実性です。日本郵船は2026年からアンモニア燃料アンモニア輸送船の実証運航を開始し、2028年までのできるだけ早期に商業運航を実現する計画を進めています。商船三井や川崎汽船も含めて、日本の海運大手はアンモニア・水素燃料船への巨額投資を行ってきました。投資の動機は将来規制対応・荷主要求・Green corridor・補助金・技術先行・船隊更新タイミングなど複合的なものですが、IMOによる価格シグナルは、こうした先行投資の経済合理性を補強する重要な前提の一つでした。その前提が宙に浮いている状態が今です。

2026年4月末から5月初頭にかけて開催されたMEPC 84は、こうした混乱の中で「枠組みを壊さず延命させる」会合になりました。NZF本体は「議論の基礎」として保持され、廃案にはならず。ただしMEPC 84サマリーレポートによれば、原案維持派と市場準備重視派の溝は埋まらず、妥協は見いだせなかった。次の山場はMEPC 85(2026年11月30日-12月3日予定)と、その直後に1日だけ予定されているMEPC/ES.2再開会合(12月4日予定)です。「壊れていないが、進んでもいない」というのが現在の状況です。

ここでギリシャ船主協会のMelina Travlos会長のPosidonia 2026での発言が出てくるわけです。要旨は「脱炭素には現実主義・技術的成熟・グローバルな整合性が必要。MEPC 84は国際社会にコンセンサスを取り戻す『第二の機会』を与えた」というもの。ここで読み解きたいのは、ギリシャ船主側の本音です。表向きは「現実主義」ですが、その奥にあるのは「規制断片化への強い恐怖」だと思います。MEPC 84前のUGS声明でも「地域措置が乱立して競争を歪めるリスク」に警鐘を鳴らしていました。これはEUのFuelEU MaritimeやEU ETSへの海運組み入れ、米国・カリフォルニア州の独自規制、各国の港湾課徴金、英国の独自ETS——こうしたパッチワーク規制を意識した発言です。ギリシャ船主にとって最大のリスクは、IMO合意の野心水準が下がることではなく、IMOで合意できない結果として地域規制が積み上がる「規制断片化」であり、彼らが本当に求めているのは「強いIMO」というより「単一IMO」だと読めます。

ここから見えてくる構造は単純ではありません。表面的には「米国の反対で世界炭素価格が頓挫」という話ですが、実際にはもっと複雑な利害が絡んでいます。途上国側(とくに島嶼国)は「炭素価格収入をもっと気候適応に回せ」と主張、EUと先進国は「ambitiousに早期発効を」、米国・サウジ・ロシアら産油国陣営は「そもそも反対」、ギリシャ・日本・ノルウェーら海運大国は「規制断片化を避けるためにも、現実水準で何としても単一の枠組みを成立させたい」。少なくとも4つの利害ブロックが綱引きをしている状況です。サウジが採決前に延期動議を出したのも、米国の単独反対というよりは「米国・サウジ連合の調整された動き」だったと指摘する分析もあります。

日本にとってこの混乱は他人事ではありません。日本政府はNZFを支持してきた中心メンバーの一つで、2026年からアンモニア燃料船の実証運航、水素燃料船は2027年から実証、2030年以降に商業運航というロードマップを描いていました。NZFの発効が2028年以降にずれ込むと、その間のZNZ燃料(ゼロ・ニアゼロ燃料)の価格競争力が低下し、燃料サプライヤー側の投資判断や港湾インフラ整備のペースも影響を受けます。アンモニアバンカリングインフラの整備は2027年頃を念頭に進められてきましたが、需要側の規制シグナルが弱まれば、港湾投資のスピードも当然変わってきます。

もう一つ重要なのは、これが単に海運の話で終わらないという点です。国際単一セクター全体に拘束力ある形でGHG価格メカニズムを導入する試みが採択直前で凍結したという事実は、他のセクターへの波及効果を持ちます。航空のCORSIAは現状任意参加の市場で、規制強度ははるかに弱い。鉄鋼やセメントなど産業セクターでのグローバル合意は事実上存在せず、CBAM(EU炭素国境調整メカニズム)のような地域措置が代替策として広がっています。「IMOでも合意できないなら、グローバルセクター別規制という枠組み自体が機能するのか」という疑念は、産業界と気候政策コミュニティの両方に広がっています。multilateralismとsectoral carbon pricingの両方が同時に試されている、という見方もできます。

カーボン市場の観点から興味深いのは、NZFが「グローバル・コンプライアンス市場」の最初の事例になる可能性があったことです。船社が基準を上回るパフォーマンスを出せば余剰クレジット(surplus unit)を獲得し、不足する船社のremediation unitと取引できる仕組みが設計されていました。これがEU ETS・GX-ETS・中国全国ETSと並ぶ「第4のコンプライアンス市場」になる予定だったわけです。延期によって、このグローバル海運コンプライアンス市場の立ち上がりも遅れています。とはいえ、枠組みが採択されれば需要は確実に存在するわけで、市場関係者はZNZ燃料の長期PPAやFuel Standard対応のクレジット設計を粛々と準備している段階です。

12月の次回会合がどうなるか。米国の不参加、中国の慎重姿勢、インドの懸念、サウジの抵抗、途上国向け資金配分の問題は依然として残っており、簡単にまとまる保証はありません。問題は、妥協によって「採択」はできても、「燃料転換を実際に起こせる水準」が維持されるかどうかです。価格水準を下げすぎれば実効性が失われ、ZNZ燃料への切替インセンティブが薄まる。逆に水準を維持すれば再び延期される可能性もある。この狭い綱渡りを年末までの半年間で詰める作業が、各国の代表団とIMO事務局の間で進んでいます。海運脱炭素の話は、もはや環境政策の話ではなく、産業政策とエネルギー安全保障と国際ガバナンスが交差する場所になっていると感じます。

■ 参照記事

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