吉祥寺にて 報道写真家・大石芳野さんとの出会い
この夏、故郷・長岡で《終戦80年 大石芳野“平和祈念”写真展 in 長岡》を開催する。
スポーツライターの僕がなぜ、戦争被災者を撮り続ける大石芳野さんの写真展をプロデュースするのか。その思いを連載する。
大石芳野さんとの出会い
吉祥寺で大石芳野さんの講演会が開かれると聞いて、僕は家内と出かけた。2年前、2023年の夏。
大石芳野さんの名前はもちろん知っていた。けれど、詳細にどのような写真を撮り、どんな作品を重ねて来られたのか、失礼ながら存じ上げなかった。
いわばその日が、写真家・大石芳野さんの作品との初めての出会いと言ってもよかった。
スライドで、撮影された〈戦争被災者〉の写真をスクリーンに映しながら、その被写体のストーリーを大石さんが語った。武蔵野市でいまも生きる戦争被災者たち、武蔵野市で暮らす広島、長崎の原爆被災者の写真もあった。
ゼロ戦を造っていた中島飛行機の工場を米軍が空爆
僕がいま住んでいる武蔵野市は、戦争当時、ゼロ戦製造で知られた中島飛行機の工場があった。そのため、アメリカ空軍の爆撃の標的となった。いま住んでいるマンションから北にわずか300㍍くらいの場所だ。
空襲体験を語る人の中には、僕が知っている町内の男性もいた。彼らは幼いころ、この町で激しい空襲に遭い、命からがら逃げ惑った。目の前で友人や家族が吹き飛ばされた壮絶な体験の持ち主と知って、気持ちが乱れた。
僕が知る彼らは、まるで何事もなかったかように「いま」を生きている。だが心の内には、僕らの想像もつかない痛恨を抱えている。
戦争が、いかに悲惨で理不尽か、日本人は実感できいるか?
自然災害なら、誰も責めようがない。戦争は明らかに人災。人が意図して人を殺した、しかも、罪もない市民を。そんなあってはならない現実を80年前、日本が経験した。家族を壊され、生活を破壊され、子どもや若者たちの未来が消滅した。そんな悲惨な現実を、いまを生きる日本人の大半が知らない。まるで、何もなかったように、時計の針は刻まれている。
このまま平和が続くならいい。だが、社会に不穏な風が吹き始めている。
僕自身、昭和31年(1956年)生まれだから、「戦争を知らない子どもたち」のひとりだ。それでも辛うじて、幼いころに父や母からごくたまにではあるが戦争体験を聞く機会があった。しかし、80年も経ってしまうと、それはまるで映画やドラマの中の出来事、リアリティーのない他人事の感覚しか持てない人が大半ではないだろうか。
大石芳野さんの写真を多くの人たちに見てほしい!
大石芳野さんの講演を聞きながら、僕はある決意を胸に秘めていた。
講演後、大石さんにご挨拶をし、名刺をいただき、数日後に手紙を送った。何か、大石さんのお手伝いがしたい。大石さんの撮影された写真を、いまこそ多くの人に見てもらい、「戦争は終わっても終わらない。だから絶対に繰り返してはいけない」という大石芳野さんの切実な訴えを一緒に叫び、伝えたいと願った。
しばらくして、三鷹駅前の喫茶店で、大石芳野さんとお会いする機会に恵まれた。これまでほぼ半世紀にわたって世界を回り、主に戦争被災者たちを取材し、写真を撮って来られた大石さんのお話を伺うと、2時間くらいはアッという間にすぎてしまっていた。(続く)
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