僕が書いた本の話12 単行本《覚醒の時》第二弾ラインナップ
第二弾の単行本に収録する予定のレジェンド
週刊新潮の連載を単行本化する第二弾は、未収録の約180回分の作品の中から、《逆境を超えて》をテーマに構成しようと考えている。
第一章は「語り継ぎたい伝説の深層」
幕開けは〈魔球〉と呼ばれたフォークボールを日本で初めて駆使した杉下茂投手にしたいと思っている。
生前、幸運にも杉下さんとお話することができた。その時伺った話は、いかにも杉下さんらしいとも言えるし、「プロ野球選手」「エース投手」の先入観を打つがエスものでもあった。杉下さんは言った。
「プロ野球に入ってからも、フォークボールはあまり投げなかった。だって、自分から見ても縦にドーンと落ちる。こんな球、絶対打てないよ。打てないボールを投げるのは卑怯でしょう」
胸に響く言葉だった……。
大手銀行役員にもなったラグビー指導者・宿澤広朗の哲学
ラグビーの宿澤広朗には直接会えなかった。選手としての活躍もさることながら、日本代表監督としての伝説的な勝利が印象に刻まれている。とくに、過去の対戦では足元にも及ばなかったスコットランドを相手に「絶対勝つ」と目標を定め、戦略を施して実際に勝った1989年の伝説の試合。それが後につながるワールドカップ日本大会での快進撃にもつながっていると多くの人は感じているだろう。
宿澤が残した言葉の中で、僕が胸を衝かれたのは、
「スポーツが教育的だと言うのはおごりだ」
という哲学だ。これは本質を衝いた言葉、それを宿澤の立場の人間がズバッと言えるところに彼の姿勢や個性がはっきりと窺える。だいたいの指導者は「教育的だ」と言うことで、スポーツに打ち込むことを肯定し、周囲の理解を得ようとする。だが、宿澤広朗は違った……。
女子マラソンの歴史を拓いた日本人女性ランナー
ゴーマン美智子のことをもう知らない人が多いかもしれない。昭和30年代、40年代生まれのスポーツ好きなら誰もが知っているだろう。彼女は、アメリカに渡り、アメリカ人と結婚したからゴーマンという苗字だが、生粋の日本人である。
彼女は28歳の時、貨物船でアメリカに渡り、最初は住み込みの家政婦、後に事務職などに就いた。34歳の時、スポーツジムで走り始め、長距離走への情熱が芽生えた。そして1973年、38歳の時、フルマラソンの当時世界最高記録を打ち立てる(2時間46分36秒)。そして74年のボストンマラソンで優勝。76年、77年にはニューヨークシティマラソンで連覇するなど、女子マラソンがようやく市民権を得始める草創期に活躍、女子マラソンの歴史を拓く一翼を担った。
元祖〈甲子園の星〉太田幸司(三沢高校)
あれは僕が中学1年の夏だった。午後、野球部の練習が始まるころ甲子園でその夏の決勝戦が「プレーボール」になった。松山商対三沢高校(青森)。
1969年8月18日、暑い日だった。僕らの練習が終わっても、甲子園の決勝はまだ続いていた。延長18回、松山商の井上明投手、三沢高校の太田幸司投手がいずれも相手打線に得点を許さず、4時間16分の末に引分け、再試合となった。端正なマスク、黙々と投げる太田幸司に日本中の野球ファン、ことに女性ファンが熱を上げた。
翌日の再試合、中村哲投手との継投策を採る松山商に対して、三沢高校には太田幸司しかいない。初回に2点、6回にも2点を奪われた三沢は松山商に2対4で敗れた。しかし、最大のヒーローは敗れたエース・太田幸司だった。〈元祖・甲子園の星〉はこうして生まれた。
僕は《真夏の甲子園はいらない》を準備している2023年春、宝塚市内で太田幸司に会った。猛暑の中で高校生が試合をするのをどう思うか? 訊くと、最初は「配慮すべきだようねえ」などと、常識的なことを言っていた彼が、意を決したように言い直した。
「暑い中でやる、だから若者が鍛えられるんだ。甘いことばかり言ったら、強くなれない。私だって、2年生で甲子園に来た時は、大阪の駅を降りた途端に、すごい熱風にやられた。でも翌年は違った。暑さには慣れるんです。だから夏の甲子園は問題ありません」
太田幸司の言葉だから、素直に受け止めるほかなかった。
