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僕が書いた本の話16 「名花」チャスラフスカを知ってる? クラファン挑戦中

単行本《覚醒の時》2の第三章は「差別・逆境と闘った勇者たち」
 ベラ・チャスラフスカの名を聞いて「懐かしい」と感じるのは60代の後半以上の年齢の方だろうか。昭和31年(1956年)生まれの僕が小学校2年生の秋に開催された東京五輪の女子体操で、個人総合、平均台、跳馬、3個の金メダルに輝いたチェコスロバキアの体操選手。彼女の優美な演技は、男女を問わず日本人の多くを魅了、「名花」と謳われた。東京五輪を彩ったヒロインの中でも最も鮮烈な印象を残した「大会の花」と呼ばれた存在だった。
 ミュンヘン五輪の前後から女子体操は、十代の小柄な少女たちがアクロバチックな演技を競う方向が主流になった。東京五輪の頃は、大人の女性が美しくしなやかな体操の追求こそが女王への道だった。

プラハの春、そしてワルシャワ条約機構軍の軍事介入
 東京五輪の時に22歳だったベラは、4年後のメキシコ五輪でも個人総合、跳馬、段違い平行棒、ゆか、計4個の金メダルを獲得した。結果を見ると、圧倒的な勝利だが、実はメキシコに渡航すること自体が直前まで危ぶまれていた。
 その年(1968年)4月、「プラハの春」と呼ばれる民主化運動が起こった。この運動を支持する〈二千語宣言〉に署名していたベラは、8月にソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍が軍事介入し、これを制圧すると、反逆者とされる立場になった。そのため、まるで綱渡りをするようにしてメキシコに入り、奇跡的に五輪出場を実現した。この間、練習は十分にできなかった。それでも、ソ連への激しい憤りをエネルギーに、ベラは躍動した。
 その後もベラへの厳しい弾圧は続いた。89年に共産党体制が崩壊するまで20年以上、社会的な制約を受け続けた。このようなアスリートの過酷な人生を知ることも、僕らにとって改めて重要ではないだろうか。

柔道の道上伯は、別の意味での迫害と闘った柔道家だ
 日本柔道界で「無敗」を誇ったと言われる伝説の柔道家・道上伯は、1953年、フランス柔道連盟の要請で渡仏。ボルドーにフランス政府公認の〈道上柔道学校〉を開き、ここを拠点に柔道の国際的な普及に献身した。
 だが、柔道の総本山である講道館は彼に厳しく冷遇し続けた。
 その道上が育てた選手のひとりが、オランダのアントン・ヘーシンクだ。ヘーシンクは、日本人以外で初めての世界選手権チャンピオンとなった。さらに、1964東京五輪の柔道・無差別級で日本の神永の前に巨大な岩のように立ちはだかり、全階級制覇の野望を砕き、無差別級で金メダルを獲った。ヘーシンクは日本の柔道を学び、柔道を通して日本文化を学び、日本人の心を学んだことを誇りに感じていた。ところが、日本の柔道界にとってヘーシンクは、日本の野望を打ち砕く厄介な敵。そのヘーシンクを育てた道上は〈裏切者〉でしかなかった。
《覚醒の時》では、道上伯のご長男である道上雄峰氏に話を伺って、知られざる道上伯についても触れている。

小林信也 週刊新潮連載《覚醒の時》クラウドファンディング

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