スポーツ・メディアリテラシー(2) 〈応援報道〉の悲哀
スポーツ界にリテラシーはあるのか?
長くスポーツ分野で取材・発信に携わっていて、ずっとストレスに感じてきたこと、それはスポーツ報道が客観性を放棄し、公平性とか真理を追究するなどという概念を逸脱してしまっている現実だ。
下村健一さんが指摘した、「メディアの方向性が『快か不快か』に偏ってしまっている」という現状は、スポーツの場合「ほとんど歴史の最初からそうだった」と言えるのではないだろうか。
過去にも指摘しているが、日本に〈スポーツ・ジャーナリズム〉が存在するとは思えない。あるのは〈応援報道〉であって、ジャーナリズムとしては偏狭だ。応援するメディアもあれば、検証するメディア、俯瞰するメディアなど、様々な立場や角度から情報収集や分析・考察するのが本来のジャーナリズムであるはずだ。
メディアが日本を応援するのは当たり前
オリンピックでもWBCでもW杯でも、メディアはこぞって日本選手、日本代表の応援に専心し、対戦相手は〈敵〉と位置付ける。まるで戦争報道の構図ではないか。それがいまも当たり前に踏襲されている。
まあ、百歩譲って「応援」は良しとしても、例えば3月に日本で開催されたメジャーリーグ(MLB)の開幕戦、カブス対ドジャース戦の報道はどうだ? カブスの主催ゲームで、カブスにも今永昇太、鈴木誠也がいるにもかかわらず、日本人はみな「ドジャースを応援するのが当然」みたいな空気ではなかったか。「その方が盛り上がる」「だって大谷翔平がいるのだから、そりゃドジャースを応援するでしょ」、そんな多くのファンの声が聞こえるようだ。が、これも下村さんが指摘するように「快」に走ればその「快」が増幅する。つまり、日本でどんどんドジャース・ファンが増える仕組みでメジャーリーグ報道は展開するわけだ。
猫も杓子もメジャーリーグを見る時代?
少し視点を変えれば、別のことにも気がつく。あの時期は日本のプロ野球も開幕を控えた時期。いわば日本の野球マーケットをMLBに荒らされたような状況だが、そんな指摘や考察を試みたメディアは知る限りごく一部で、大半はお祭り騒ぎに乗っかる方向で話題を構成していた。「来日する大谷翔平をみんな見たいでしょ」、囃し立てた方が視聴率が上がる、アクセスが増える、そしてスポンサーが喜ぶ。一緒に儲ける……。僕がそうした姿勢に疑問を呈すると、「みんなが求めている話題を提供して何が問題ですか? スポーツなんだもん、それでいいじゃん」といった反論を受ける。
別に日本プロ野球の肩を持つ立場でもないけれど、「何か問題ありますか?」と問われたら、「本当に問題がないと検証したのですか?」と、これが政治や経済の話題なら反問されるのではないか。スポーツの場合、誰もそれをしない。人気やお祭り騒ぎに押し切られてしまう。
「面白ければいい」「見たいものを提供するのが善だ!」という主張でスポーツ報道が成り立つならば、もはやそれは〈スポーツ文化〉ではなく、完全に〈娯楽〉か〈商売〉〈広告・宣伝〉ということになる。エンターテインメントビジネス。それもありだろう。けれど僕は、スポーツは単なる娯楽でなく、全国民の心と身体の健康に貢献できる大切な分野だと信じている。だから〈娯楽〉と〈商売〉に支配されたスポーツ報道を見過ごせないのだ。
スポーツの安易な報道はケガにつながる恐れをはらんでいる
簡単な指摘をしよう。「面白ければいい」で済まされない大きな理由のひとつは、「スポーツはともすればケガをする。重大事故につながる恐れもある」からだ。面白ければいい、勝てばいいの基準がまかり通ると子どもや若者、お年寄りも含め、すべてのスポーツ人に悪影響が及ぶ。そういう視点の欠け落ちたスポーツ報道が野放しにされていいのか?
本当はスポーツの取扱説明書をきちんと学び、スポーツの功罪をしっかりと身体に叩き込んだスペシャリストがスポーツ報道に携わるべきだと思う。そんな指摘を、50年近くこの業界にいて、聞いたことがない。
報道もファンも共犯関係、リテラシーを逸脱したがっている
話を最初に戻そう。スポーツのメディアリテラシーの問題は「両方」の面から崩壊している。
スポーツを報道するメディアが〈応援報道〉と〈快を求める方向〉に終始しているだけでなく、受ける側の視聴者、読者も、端から〈快〉を求めている。それがスポーツだ、「贔屓を応援するのがスポーツの醍醐味」「それで何が悪い!」と開き直られそうだ。
僕は応援を否定しない。僕だって贔屓や推しに出会う。だけど、そこにも哲学や理念はある。リテラシーがあってこそ、文化としての深まりがあり、つまりは人生が豊かになりえる可能性を秘めた分野になる。
次回はまた別の角度からスポーツのメディアリテラシーについて話を進めよう。
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