天才”ライターの軌跡2 小林信也 長嶋監督の天性1 アップルパイ事件
40歳の落合をFAで獲得した長嶋監督に世間は冷たい言葉を投げかけた
1994年、長嶋監督が中日から落合博満をFAで獲得して臨んだシーズン、世間は長嶋、落合の二人に冷たい視線を浴びせていた。
「落合はもう峠を越えた選手。獲得したって大した役には立たない」と大方の野球メディアは論評していた。確かに、前年は2割8分5厘、ホームラン17本、65打点。2年連続三冠王を獲った数年前に比べたら寂しい数字。そして、40歳になった落合を三顧の礼を持って迎えた長嶋監督に対しても「大丈夫か? 落合頼みで勝てるわけがない」と厳しい見方が大勢を占めていた。
僕は、雑誌Numberの依頼で、キャンプに旅立つ前の二人にそれぞれインタビューした。
落合は、白けたイメージとは別人のような言葉を口にした。
「長嶋さんに請われて入団したんだ。オレの子どものころからの憧れの人・長嶋さんに恥をかかせるわけにいかない」
そして長嶋監督は、「落合は数字以上の存在感があるんです。落合が一塁の守備についたら、ダイヤモンドにもうひとりの監督が立っているようなもの。それが大きいんだ。数字なんて、打率2割8分、ホームラン15本も打ってくれたら十分です」
「アップルパイが食べたくなったなあ」
僕は、ふたりをインタビューして、はっきりと確信した。今年、長嶋巨人は絶対に優勝する。Numberでそれを明言した。あの年は、本当に、長嶋監督と二人で戦っている実感があった。そう言うと笑われそうだが、僕だけの一人よがりではない。その証拠がある。
たしか初夏のことだった。神宮球場での試合前、ホテル・ニューオータニの一室でNHKの番組が長嶋監督のインタビューをする機会があった。プロデューサーに頼まれて、僕も同席した。インタビューが終わり、前夜の試合のこと、それまでの戦いぶりを長嶋監督が問わず語りで口にした。僕は、心地よい音楽を聴くような気持ちで耳を傾けていた。すると監督のマネジャーが、無粋にも、
「監督、そろそろ神宮に行く時間です」
せっかくの空間をぶち壊すひと言を発した。窓の外には、神宮球場のナイター照明が見えたような気がした。ニューオータニと神宮球場は目と鼻の先だ。が、たしかに時計の針は4時に近づいていた。その時、長嶋監督があの高い声をさらに高くして叫んだのだ。
「アップルパイが食べたくなったなー」
その一言を聞いて、僕は涙が出そうだった。それはつまり、僕ともう少し一緒にいたい、会話を続けたいという気持ちの表明ではないか。
(家宝だ、家宝の言葉だ)
僕は興奮した。マネジャーも納得し、ホテルの係に注文した。少しして、係の男性が戻ってきて言った。「あいにく、本日はアップルパイのご用意がありません」
なんと、天下のニューオータニにしてそれか……。これで万事休すかと肩を落とすと、係の男性が「ショートケーキなら」と言い、長嶋監督が即座に「それをいただきましょう」と答えて、僕の首はつながった。それからまた数分の時間は、まさに至福の時だった。
落合博満の打率は2割8分、ホームラン15本
その年の公式戦、伝説の「10.8決戦」で中日を破った長嶋巨人は、最終戦でセ・リーグ優勝を決めた。
ノドから心臓が飛び出しそうなほど、選手もファンも緊張して臨んだ決戦、最初に試合を動かしたのは落合のソロ・ホームランだった。落合は3回の守りで足を故障し、途中退場した。これで落合のシーズンは幕を閉じたのだが、その時点での打撃成績は、打率2割8分、ホームラン15本。まさに、キャンプ前のインタビューで長嶋監督が予言した数字とピッタリ符号していた。
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