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市場価値の再編と"弱いトークン"の可能性──マッツカート『国家の逆襲』(+グレーバー『価値論』)から国家の役割を再考する【書評#30】


1. 問題の所在──市場価値への疑義

 マリアナ・マッツカートの『国家の逆襲』は、現代資本主義において「価値」がどのように語られ、測定され、配分されているのかを問い直す著作である。そこで中心に置かれるのは、「価値の創造」と「価値の抽出」との区別である。

 現代の市場経済では、価格がつくもの、利益を生むもの、GDPに算入されるものが、そのまま価値あるものとして扱われやすい。しかしマッツカートによれば、この見方はしばしば錯誤を含む。
 金融収益、独占的地位、過剰な知的財産権、プラットフォームによる手数料、株主価値の最大化などは、一見すると価値創造の成果であるかのように見える。だが実際には、他者の労働、公共投資、社会的インフラ、共同的知識、制度的優位によって生み出された価値を、一部の主体が私的に取り込んでいるだけかもしれない。

 このとき問題になっているのは、単に所得分配の不平等ではない。より根本的には、「何が価値あるものとして承認されるのか」という価値認識の問題である。

 市場で高い価格がつくものが本当に価値を創造しているとは限らない。反対に、社会的には不可欠であるにもかかわらず、市場では低く評価される活動もある。介護、保育、医療、教育、清掃、物流、地域の見守りといったエッセンシャルな活動は、その典型である。

 マッツカートの議論は、ここで国家の役割を再評価する。市場は自然発生的なものではなく、法制度、公共投資、研究開発、教育、インフラ、規制、税制によって形づくられる。そうであるならば、国家は単に市場の失敗を補正する存在ではない。国家は、市場が何を価値あるものとして扱うのかを、制度的に方向づける主体になりうる

 しかし、この国家の再評価には一つの問題が残る。国家が価値を再定義し、価値ある活動を制度的に支援することは、たしかに市場価値の歪みを是正する可能性をもつ。だがその一方で、国家が「何が価値あるか」を定義し、記録し、分類し、評価し、配分する主体になるとき、そこには別の危険が生じる。価値は再び、制度的な尺度や行政的な指標に回収されてしまうのではないか

 ここに、デヴィッド・グレーバーの『価値論』を差し込む意味がある。

2. グレーバーの価値論──行為の重要性とフェティッシュ化

 グレーバーにとって、価値とは市場価格に還元されるものではない。価値とは、人間の行為が社会的な意味や重要性を帯びる過程である。人びとは、何を大切にし、何に時間を使い、何を承認し、どのような行為を社会的に意味あるものとみなすのか。そのような実践のなかで、価値体系は生成される。

 この点で、グレーバーの価値論は、単なる「市場価値以外にも価値がある」という主張ではない。より根本的には、価値とは人間の行為と社会的関係のなかから生まれるものであり、貨幣や商品や制度に最初から内在しているものではない、という主張である。

 ところが、価値がいったん貨幣、商品、称号、資格、制度、数値、ポイントのようなトークンを通じて表現されると、そのトークン自体が価値の源泉であるかのように見えてしまう。この転倒がフェティッシュ化である。本来、人間の行為と関係から生じていた価値が、物や記号や制度そのものに宿っているかのように見えるのである。

 貨幣はその最も強力な形式である。貨幣は、異なる行為や物やサービスを比較可能にし、交換可能にし、蓄積可能にする。これにより、貨幣は価値を媒介する。しかし同時に、貨幣が価値そのもののように見える危険が生じる。価値の源泉が人間の行為にあることが忘れられ、貨幣を多く生むものこそが価値あるものだと見なされるようになる

 この視点から見ると、マッツカートが批判する「価値の抽出」は、グレーバー的なフェティッシュ化の制度的帰結として読める。

 社会的・集合的に生み出された価値が、金融商品、特許、プラットフォーム、株価、資産価格、企業収益のような形式に転写される。そして、その形式を保有する主体が、あたかも価値の創造者であるかのように見える。ここでは、価値の源泉と価値の帰属が分離している。

 つまり、マッツカートは「価値が正しく配分されていない」と批判する。グレーバーはさらに、その前提として「価値がトークンに宿るものとして誤認されている」と批判する。両者は同じではないが、重ねて読むことで、現代資本主義における市場価値の問題がより立体的に見えてくる。

3. 国家をめぐる分岐──価値創造の主体か、価値支配の装置か

 両者の違いが最もはっきり現れるのは、国家の位置づけである。

 マッツカートにとって、国家は市場価値を再編するための有力な主体である。市場は国家から独立した自然秩序ではなく、制度によって形づくられている。したがって、国家は公共投資、産業政策、規制、税制、研究開発支援を通じて、価値創造に報いる市場を設計しうる。彼女の国家論は、公共価値を創造し、市場の方向性を定める国家という構想に向かう。

 これに対して、グレーバーにとって国家は、より疑わしい存在である。国家は、貨幣、税、債務、法、所有権、官僚制、暴力を通じて、価値を抽象化し、測定し、強制可能な秩序へと変換する。価値は本来、多様な社会的行為のなかから生成される。しかし国家は、その多元的な価値を分類し、記録し、評価し、統治可能な形に置き換える。このとき国家は、価値を解放するというより、価値を支配する装置になりうる

 ここに緊張がある。市場価値の歪みを是正するには、国家の制度的力が必要である。しかし国家が価値の定義者になると、価値のフェティッシュ化を別の形で再生産してしまう。

 市場による価値の支配を避けるために国家を導入すると、今度は国家による価値の支配が生じる可能性がある。

 この問題は、単に「市場か国家か」という二項対立では処理できない。むしろ問うべきなのは、国家がどのような仕方で価値に関与するのかである。国家が価値を一元的に定義するなら、それは価値支配に近づく。だが国家が、市場価値の暴走を抑え、価値の源泉と帰属の乖離を補正するなら、それは価値分配の制度として機能しうる。

 したがって、国家の役割は「何が価値あるか」を最終的に定義することではない。むしろ、貨幣的価値が唯一の価値尺度として社会を支配しないようにすることにある。

4. 現代的条件──貨幣の自律化と国家の再定位

 グレーバーの議論では、貨幣と国家は深く結びついている。国家は税を課し、債務を記録し、貨幣を安定させ、法的強制力によって貨幣的価値の秩序を支える。その意味で、貨幣のフェティッシュ化の背後には国家がある。

 しかし現代では、この構図は単純ではない。グローバル金融市場、為替市場、暗号資産、巨大プラットフォーム、投資ファンド、国際会計、サプライチェーン、データ経済の拡大により、貨幣的価値の運動は特定の国家の制御を大きく超えつつある。もちろん貨幣はなお国家制度に依存している。しかし、貨幣的価値の実際の流動、評価、蓄積、抽出は、国家の外部に広がるグローバルな市場装置によって駆動されている。

 このとき、国家は単に貨幣的価値を支配する側にいるとは限らない。むしろ、国家もまたグローバルな貨幣的価値に従属させられている面がある。

 企業誘致、金融市場の評価、国際競争力、格付け、資本流出への懸念などは、国家の政策選択を制約する。貨幣的価値は、国家によって作られたものでありながら、いまや国家をも拘束する力をもつ。

 ここで国家の役割は再定位される。国家は貨幣に代わる新たな絶対的価値尺度を作るべきではない。むしろ、貨幣的価値の暴走を制動し、市場で過小評価される行為を支え、価値抽出を抑止する役割を担うべきである。

 たとえば、エッセンシャルワーカーの労働は社会的に不可欠であるにもかかわらず、市場では十分に報酬されないことがある。ケア、保育、介護、清掃、物流、医療補助、地域の見守りなどは、社会の再生産を支える基盤である。しかし市場は、それらの活動を必ずしも正当に評価しない。ここに国家による再分配や制度的支援の必要がある。

 ただし、この支援は「これこそが価値である」と国家が一元的に定めることを意味しない。国家は価値の最終定義者ではなく、価値の翻訳における歪みを監査する主体である。

 市場価格という翻訳が、価値の源泉をどのように隠蔽し、どの主体に価値を帰属させているのかを問い直す。そのうえで、市場価値では維持されにくい社会的行為を支える条件を整えるのである。

5. 制度化の逆説──承認は必要だが、トークン化は危険である

 ここで問題になるのが、価値の社会的承認をどのように制度化するかである。

 社会的に重要な行為が市場で低く評価されるなら、それを支援する制度が必要である。だが制度化は、必ず何らかの記録、評価、指標、ポイント、認証を伴う。すると、その制度的トークン自体が価値の源泉であるかのように扱われる危険が生じる。

 ここでは、貨幣への対抗として作られたトークンが、別のフェティッシュになる

 もともと価値があったのは、誰かを助けること、地域を支えること、ケアすること、場を維持することだったはずである。しかし制度化が進むと、それらの行為は「ポイントになる活動」「評価される活動」「申請できる活動」として再編される。価値の承認が、価値の置換へと転化するのである。

 したがって、価値の社会的承認を設計するうえで重要なのは、価値を完全に測定しようとしないことである。制度は、価値の全体を表現するものではなく、価値ある行為が継続される条件を支えるものにとどまらなければならない。

 ここに「弱いトークン」という発想が現れる。

6. 弱いトークン──価値を支配しない承認形式

 貨幣が危険なのは、それが強いトークンだからである。貨幣は普遍的に通用し、交換可能であり、蓄積可能であり、比較可能であり、他の多くの価値を吸収する。だから貨幣は、価値の媒介物でありながら、価値そのもののように振る舞う。

 これに対して、価値の社会的承認に必要なのは、貨幣に匹敵する強い代替尺度ではない。むしろ、局所的で、限定的で、換金しにくく、蓄積しても権力化せず、ランキング化されず、関係を媒介するだけの「弱いトークン」である。

 弱いトークンとは、価値を完全に表現しようとしない承認形式である。それは、ある行為の重要性を最終的に測定するものではない。むしろ、その行為が見落とされないようにし、次の関係を生むための小さな媒介である。

 たとえば、地域内でしか使えないポイント、換金できない参加証、失効する時間クレジット、地域の店や公共施設でだけ使える小さな優待、互助活動の記録、感謝を伝えるカード、地域活動への参加履歴などが考えられる。ただし、それらはランキングや権威づけに用いられてはならない。蓄積によって地位や支配力を生むなら、それは弱いトークンではなくなる。

 弱いトークンの目的は、価値を価格に置き換えることではない。価値ある行為が、完全に市場価値へ回収されないようにすることである。

 それは、行為の重要性を貨幣で正しく測るための道具ではない。むしろ、貨幣では測れない重要性があることを、関係のなかで思い出させるための道具である。

 この意味で、弱いトークンは、フェティッシュ化を完全に免れるわけではない。どのようなトークンも、制度化されれば目的化する危険を持つ。しかし、トークンを弱く設計することで、その危険を抑えることはできる。重要なのは、トークンを価値の源泉にしないことである。トークンは、価値を生むのではない。価値は、行為と関係のなかで生まれる。トークンは、その関係を支える補助線にすぎない。

7. 地域的価値化の可能性──狭い領域で価値を支える

 現代において、貨幣的価値はあまりにも強大である。グローバル市場、金融、プラットフォーム、SNS、ブランド、データ経済は、人びとの注意と欲望を吸収し、何が価値あるかを強力に規定している。そのため、国家や地域が作る小さな制度的トークンは、社会全体を巻き込むほどのフェティッシュ力を持ちにくい。

 これは一見すると限界である。しかし、そこにこそ可能性もある。弱いトークンは、貨幣に対抗する巨大な代替制度ではない。むしろ、狭い生活圏のなかで、貨幣とは異なる価値経験を支えるためのものである。

 地域、町内会、商店街、学校、図書館、公民館、子育て支援、介護の見守り、防災活動、読書会、趣味のサークル、小さなカフェ、地域イベント。そのような場では、価値は価格ではなく、信頼、記憶、恩義、評判、居場所、顔の見える関係として現れる。

 「あの人はいつも見守りをしてくれる」「あの店は地域の子どもを気にかけている」「あの場所に行けば誰かに会える」「あの人はお金にはならないが、場を保っている」。こうした価値は、貨幣ではうまく表現できない。しかし、生活のなかでは確かに重要である。

 このような価値を、全国的・普遍的な制度に置き換える必要はない。むしろ、置き換えようとすれば、再び抽象化とフェティッシュ化が生じる。重要なのは、狭い領域で、弱く、局所的に、価値が承認される回路を増やすことである。

 ここで国家や自治体は、価値を直接作るのではない。国家や自治体は、価値が生まれる余白を支える。

 公民館、図書館、公園、学校、地域包括支援センター、空き店舗、公共空間、小規模事業者、NPO、自治会のような場を、市場価値の侵食から守る。過度なKPIや補助金競争によって地域活動を行政の下請けにしない。むしろ、人びとの相互扶助が自律的に続く条件を整える。

 この方向であれば、国家は価値支配の主体ではなく、価値生成の場を保護する主体として描き直せる。

8. 結論──価値を定義する国家ではなく、弱いトークンを支える国家へ

 マッツカートの『国家の逆襲』にグレーバーの『価値論』を差し込むことで見えてくるのは、市場価値批判の二重性である。

 第一に、市場価値は、価値創造と価値抽出を混同する。社会的に生み出された価値が、金融、独占、知的財産、プラットフォーム、資産所有を通じて、一部の主体に帰属してしまう。ここでは、マッツカートのいう価値抽出の批判が必要である。

 第二に、市場価値は、行為の重要性を貨幣的尺度へと置き換える。価値は本来、人間の行為と関係のなかから生じるにもかかわらず、貨幣や制度的トークンそのものが価値の源泉であるかのように見えてしまう。ここでは、グレーバーのいうフェティッシュ化の批判が必要である。

 したがって、国家の役割も二重に考えなければならない。国家は、貨幣的価値の暴走を制動し、価値抽出を抑止し、市場で過小評価される行為を支える必要がある。しかし同時に、国家は価値を一元的に定義してはならない。国家が「何が価値あるか」を決め、その価値を指標化し、記録し、配分する主体になるとき、価値は再びフェティッシュ化される。

 この緊張を引き受けるための鍵が、弱いトークンである。

 弱いトークンは、貨幣に代わる新たな絶対的価値尺度ではない。それは、価値を完全に測るものではなく、価値ある行為が関係のなかで承認され続けるための小さな媒介である。局所的で、換金しにくく、蓄積によって権力化せず、ランキング化されず、関係を次へつなぐためにだけ機能する。そのような弱いトークンであれば、価値を支配するのではなく、価値が生まれる場を支えることができる。

 国家は、貨幣に代わる強い価値尺度を作るべきではない。
 国家は、貨幣が唯一の価値尺度になることを防ぐべきである。
 そのために、上からは価値抽出を抑え、下からは地域的な互酬関係が育つ余白を守る。

 このとき国家は、価値の最終定義者ではなく、価値の暴走を制動し、価値生成の条件を支える制度となる。そして弱いトークンは、その制度と生活世界とのあいだに置かれる、小さく、限定的で、しかし重要な媒介となるだろう。


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