「見えるもの」ばかり見すぎてはいけない。M・ポランニー『暗黙知の次元』から考える、これからの「注意」のあり方【書評#34】
Microsoftが2025年に実施した調査によると、現代の働く人は、仕事中に平均しておよそ2分に1回、メールやチャット、会議などによって注意を切り替えられているそうです。
わたしたちはいま、仕事でもプライベートでも、絶えず新しい情報を提示されつづけています。
メールやプッシュ通知、チャット、KPI、SNSのタイムライン、広告、CM…。
街を歩く・電車に乗る・お店に入るといった日常の動作の中で、わたしたちがいったいどれほどの情報に晒されているのか、もはや数えることもできません。
こうしたさまざまな情報は、多種多様な創意工夫に富んだ技法により、「いま見るべきもの」として、つねにわたしたちの注意をひき続けています。
いわゆる「アテンション・エコノミー」の時代にわたしたちは生きているわけです。
こうした世界で生活し、適応していく中で、わたしたちはいつしか、「目の前に現れるもの」ばかりに、目を向けるようになってきています。
タイパやコスパが重視され、生成AIが数秒で答えをくれる世界において、もはや目に見えるものの裏側へと、目を向ける余裕は失われつつあります。
けれども、あらためていうまでもなく、目に見えるものというのは世界の全てではありません。
それらはさまざまな形で純化され、抽出され、装飾された、特定のことがらのある側面にすぎないのです。
そうした可視化された一つの側面ばかりに目を向けることで、わたしたちはいったいなにを失っているのか。
このことを再度考えるための手引きとして、今回はマイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』を取り上げます。
*M・ポランニーは前回取り上げた『大転換』の著者K・ポランニーの実弟です。名前の表記については、今回読んだ邦訳書にもとづいて、本記事では「ポランニー」で統一します。

「暗黙知」は「言葉にならないノウハウ」だけではない
「暗黙知」という言葉を聞いたことがある方も多いと思います。
最近では、AIや組織経営の文脈で「暗黙知をどう形式知化するか」「熟練者の暗黙知をAIに学習させられるか」といった形で論じられることが多いです。
この文脈で暗黙知と呼ばれているのは、おおむね次のようなものです。
熟練者の勘
言語化されていないノウハウ
マニュアル化されていない判断
データとして記録されていない経験
これらもたしかに暗黙知の一部です。しかし、ポランニーの問題設定はもっと広いものです。
本書の中でポランニーは、「わたしたちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」と言っています。
この記述は「人間には言語化できない知識がある」と解釈されることが多いですが、意図されているのはそうした特殊な知識だけではありません。
ポランニーが問題にしているのはむしろ、何かを知るという働きそのもの、すなわち「暗黙の認識(tacit knowing)」です。
重要なのは、暗黙知が、明示知とは別に存在する特殊な知識領域ではない、ということです。
暗黙の認識は、人間が何かを認識するときにつねに働いている、根本的な構造です。
明示的な文章や数値を理解するときでさえ、その背後では暗黙の認識が働いています。
「暗黙知=言葉にならないノウハウ」といった単純な図式ではないことを、まずは押さえておいてください。
わたしたちは、何かに注意しながら、別の何かに依拠している
では、暗黙の認識とはどのような構造なのでしょうか。この点が本書の理論的な中心です。
ポランニーは、認識には二つの項があると考えます。近くにある項(近位項=A)、遠くにある項(遠位項=B)の二つです。
わたしたちが何かを認識する時、Aだけを注視するのではなく、Aに依拠しながら、AからBへと注意を向けています。
具体例で考えてみます。
顔の細部(目、鼻、輪郭)(=A)に依拠しながら、私たちは「その人の顔」(=B)を認識する
手や筋肉の感覚(=A)に依拠しながら、道具の先にある対象(=B)を感じ取る
文字や音(=A)に依拠しながら、文章の意味(=B)を理解する
症状や微細な変化(=A)に依拠しながら、医師は病気(=B)を察知する
このとき、Aは意識の焦点には入っていません。しかし、Bを認識するためにたしかに働いています。
つまり、焦点に入っていないものは「存在しない情報」でも「無視された余剰」でもありません。
むしろ、焦点にあるものの意味を支える背景として機能しているのです。
この点をふまえ、ポランニーは「内在化(内住)」という概念を示します。
内在化とは、道具や言語、技能を外から観察するのではなく、自らの身体や認識能力の一部として使いこなすことです。
自転車の乗り方(=A)を一つひとつ意識しなくなったからこそ、わたしたちは道の先(=B)に注意を向けられます。
ある対象が明示的な意識から退くのは、それが意識から単に失われたのではなく、全体の認識を支える側に回ったということです。
部分を明らかにしても、全体が明らかになるとは限らない
この認識の構造から、重要な帰結が導かれます。
ポランニーは「個々の要素を明確に認識すれば事物全体の本当の姿を捉えられる」と考えるのは誤りだと指摘します。
誤解のないように言えば、ここでポランニーは、分析によって細部を明らかにすること自体を否定しているのではありません。
問題は、明らかになった細部を並べれば、全体が自動的に再現されると考えることです。
つまり、
顔の各部位を列挙しても、その人の顔そのものを認識したことにはならない
単語の辞書的な意味を並べても、文章全体の意味が決まるわけではない
個々の指し手を記録しても、チェスの技量や戦略がそのまま見えるわけではない
ということを彼は主張しています。
全体は、部分の単純な合計ではありません。部分が相互に関係づけられた、包括的な存在です。
そして、部分を一つの全体へと統合する働きは、認識する側が担っています。
ここから、本書の核となる次のような主張が出てきます。
「問題は、明示化されていないものを見落とすことだけではない。明示化されたものも、それ自体では意味を持たず、明示化されない背景との関係によって成り立っている。」
可視化は現実を示すが、現実そのものではない
この視点を、現代社会に当てはめてみましょう。
わたしたちは、以前は捉えにくかったものを、さまざまな技術によって可視化できるようになりました。
仕事の成果、健康状態、学習の進捗、組織の生産性、文章への反応、人間の能力や属性。
数値や指標は、比較や記録、改善のために有用です。
ですから、ポランニーの議論を反データ・反分析の思想として扱うべきではありません。
問題は、測定可能な側面が、対象そのものに置き換わってしまうことです。
閲覧数が、文章の価値を代表する
KPIが、仕事の価値を代表する
テストの点数が、理解や能力を代表する
発言の一部が、人格全体を代表する
経歴や属性が、人間そのものを代表する
こうした構図は、どれも身近に思い当たるのではないでしょうか。
(前回の投稿で取り上げた「尺度」ともかかわる論点です。ご興味があればぜひ読んでみてください。)
指標は、全体の一部から発せられる手掛かりです。手掛かりである以上、それをどのような全体のなかで読むかが問われます。
可視化の問題は「情報が少なすぎる」ことではありません。部分的に明晰なものを、全体的に明晰なものと錯覚することにあります。
注意を引くことは、価値があることと同じではない
冒頭の「注意の分断」に戻りましょう。
通知、ニュース、広告、SNS、業務連絡。これらは、わたしたちの焦点的な注意の獲得を競っています。
そこで優位になるのは、短時間で意味が伝わり、反応を引き出せるものです。
すなわち、強い感情を生み、数値として示せ、結論が明確で、即座の判断を要求し、他者の反応が可視化されたようなものです。
しかし、重要なものが、いつも注意を引くとは限りません。
長期的に形成される信頼
日常的な手入れや維持
まだ言葉にならない違和感
問題が問題として認識される前の兆候
創作や研究における曖昧な予感
目立つ成果を支える反復的な作業
これらは、強い注意を引くかたちでは現れません。しかし、前景にあるものの価値を支えているのは、こうした背景へ退いた要素かもしれないのです。
ポランニーは、こうした論点に、科学的発見との関連から言及しています。
研究者は、答えを明示的に知る前から、そこに問題があることや、解決へ近づいていることを感知します。
つまり、重要性や価値は、確立された指標によって事後的に測定されるだけではありません。
新しい価値は、既存の基準ではまだ評価できない段階で、予感として現れることがあるのです。
だとすれば、注目度をそのまま価値の尺度に置き換えることは、既存の枠組みで認識できるものばかりを選び続けることを意味します。
これは、注意を引かないもののなかに含まれている、まだ明示化されていない重要なものを見落とすことにつながります。
「目に見えないもの」をどう考えるべきか
ここまで読むと、「やはり目に見えないものが大切なのだ」と結論したくなります。しかし、その一歩手前で立ち止まる必要があります。
「目に見えないものは大切だ」という主張だけでは、何でも正当化できてしまうからです。
偏見、思い込み、慣習への無批判な服従、根拠のない直感、専門家による権威の独占。
これらもまた、暗黙的な判断として現れ得ます。
ポランニーの暗黙の認識は、説明責任や批判を不要にする理論ではありません。
暗黙的な判断は、現実との照合、他者からの批判、伝統的な基準、そして責任あるコミットメントによって鍛えられるものであると彼は主張します。
ポストモダン的な「なんでもあり」とは一線を画しているわけです。
大切なのは、次のどちらか一方を選ぶことではありません。
明示的なデータか、暗黙的な感覚か
数値か、直感か
分析か、全体把握か
そうではなく、明示された情報を手掛かりとして使いながら、それがどのような背景と全体のなかに位置するのかを問い直すこと。
判断を急がず、まだ言葉になっていない違和感や関係性が存在する余地を残すこと。
そして、自分の認識にもまた、焦点に入っていない前提や経験が働いていることを自覚することです。
おわりに:明示化されたものだけが現実ではない
現代社会は、情報を可視化する能力を大きく高めました。それによって、多くの判断が速く、正確になったことは間違いありません。
しかし同時に、画面に現れないもの、数値にならないもの、短い言葉で説明できないものへの感覚は、弱まりつつあります。
ポランニーが教えるのは、明示されない秘密の知識を尊重せよ、ということではありません。
人間が何かを明示的に理解するときにも、その背後ではつねに暗黙的な統合が働いている、ということです。
だとすれば、必要なのは「見えないものを見る」特殊な能力ではありません。
見えているものが、見えていない背景に支えられていることを忘れない態度です。
「次々と新しい情報が目の前に現れる時代だからこそ、いま焦点に入っていないものが、何を支えているのかを考える必要がある。」
わたしたちが見ているものは、見えているものだけによって成立しているのではありません。
見えていないものとの関係を失えば、見えているものの意味もまた、変わってしまうのです。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
「注意」が資源と見なされる時代だからこそ、わたしたちは自分の注意が何に向けられているかに自覚的である必要があります。
可能であれば、そうした「注意の向け先」も、自身でコントロールできるようになることが望ましいです。
これは、単に集中力を鍛えるとか、スマホ断ちをするとか、そういう小手先の技術だけの話ではありません。
忙しない日常の中で一歩立ち止まり、「なぜこうなっているか」に少し思いを馳せてみること。
ポランニーの『暗黙知の次元』は、その必要性を思い出させてくれる一冊です。
日常に溢れる情報にめまいを覚えたことがある人、煩雑な日々に何かを見失っているような気がする人は、ぜひ一度お手に取ってみてください。
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