「尺度」にあふれた世界で、自由を取り戻すために。K. ポラニー『大転換』に見る、「数字」の暴走【書評#33】
デジタル技術の発展は、いまやわたしたちのあらゆる側面を数値化するようになりました。
学校では偏差値やGPA、就職すれば年収や人事評価、SNSではフォロワー数や「いいね」の数。
最近では、商品やサービスだけでなく、働く人の「市場価値」などもよく話題になります。
こうした数値があることで、わたしたちはさまざまな要素を同じ土台にのせて比較できるようになりました。
数値化はたしかに便利な方法です。
この社会で優位に立ちたければ、成績や年収など、自分のさまざまな数値を日々高めていけばよい。
実にわかりやすく合理的な戦略です。
けれども、何かを数値化するためには、必ず「尺度」が必要になります。
偏差値であれば点数が、人事評価であれば目標達成度が、フォロワー数であればアルゴリズムが、その数値を与える尺度として機能しています。
尺度には、つねになんらかの目的や価値観、制度が埋め込まれています。
だとすれば、その尺度のもとで測られるわたしたちの「価値」は、あくまでそうした特定の目的や価値観の中でしか成立しないはずです。
ところが、激しいスコア競争に夢中になるうちに、わたしたちはいつしか、その尺度を絶対不変の真理のように扱うようになりました。
曰く、
年収が高い人は社会にとって有用な人だ。
注目を集めるものはなんであれそれだけの価値がある。
市場で求められない仕事には意味がない。
数字に表れない評価は、存在しないも同然である。
便利で、豊かで、平穏な現代社会に生きているはずなのに、どこか息苦しいと感じる。どこか「人間らしさ」が失われつつあるように感じる。
もしかしたら、その原因の一つは、この「尺度への信仰」にあるのかもしれません。
今回取り上げるカール・ポラニーの『大転換』は、そうした尺度の絶対視に大きな警鐘を鳴らす一冊です。
K. ポラニーは、『暗黙知の次元』で知られるマイケル・ポラニーの兄にあたります。
『大転換』が刊行されたのは1944年。第二次世界大戦のさなかに書かれた、80年以上前の本です。
それでも、その問題意識は少しも色あせていません。
なぜなら、本書が主題とするのは、人間にとって普遍的なテーマの一つだからです。
人間がつくった制度が、いつの間にか人間の手を離れ、自然法則のようにわたしたちを支配し始める。
そのとき、人間の尊厳や自由はどうなるのか。
今回は『大転換』を下敷きに、無軌道に多様化し無際限に精密化する現代の「尺度」に、わたしたちがどう向き合っていけばよいのかを考えてみます。

市場は、本当に自然の産物なのか
『大転換』でポラニーが批判したのは、市場そのものではありません。
人類は古くから、市場を使って物を交換してきました。市場には、複雑な情報を価格にまとめ、必要なものを効率的に分配する働きがあります。
ポラニーが問題にしたのは市場そのものではなく、社会全体が市場の働きに合わせてつくり変えられることでした。
彼が分析した19世紀の「自己調整的市場」では、商品の生産や分配を、できるだけ市場価格だけに委ねようとしました。
需要が増えれば価格が上がる。供給が増えれば価格が下がる。賃金も、土地の価格も、金利も、市場の中で調整される。
そこに政府や社会が介入すれば、価格は正しく形成されない。だから市場は人間の判断から切り離し、自律的に動かすべきだ。
これが、自己調整的市場の考え方です。一見すると、とても合理的に思えます。
ところがポラニーは、まさにこの点に反論を加えます。
この仕組みを成り立たせるためには、本来商品でないはずの労働・土地・貨幣までもが、通常の商品と同じように扱わなければならない。
しかし労働は人間の生活活動であり、土地は自然そのものです。そして貨幣は、社会的な信用や購買力を組織する制度です。
いずれも、本来は市場で売るためにつくられた商品ではありません。
このことから、ポラニーはこれらを「擬制商品」と呼びました。
これらが商品化することで何が起きるか。
労働を商品として扱えば、人間の生活は賃金の上下や失業にさらされる
土地を商品として扱えば、自然や地域社会は採算によって切り分けられる
貨幣を市場に委ねれば、信用収縮や通貨危機が企業や生活を破壊する
つまり、市場価格だけを絶対的のものとみなすと、人間と自然と社会の方が、市場の都合に合わせて変えられてしまうのです。
ポラニーは、この状態を、人間社会が経済システムの「付属物」になったと表現しました。
人間がつくったはずの尺度が、自然法則に変わる
自己調整的市場が強い力を持つのは、市場価格が単なる判断材料ではなく、自然法則のように扱われるからです。
たとえば、ある仕事の賃金が低かったとします。
そのとき、わたしたちは「市場でその価格しかつかないのだから、その仕事の価値も低いのだ」と考えがちです。
けれども、賃金は仕事の重要性だけで決まるわけではありません。
その職業の交渉力、雇用制度、資格制度、働き手の数、政府の政策、社会的な慣習など、さまざまな条件が重なって形成されています。
それにもかかわらず、市場で成立した価格が、その仕事に内在する本質的な価値であるかのように受け取られる。
ここでは、人間がつくった制度の結果が、人間には変更できない法則に置き換えられています。
これは市場価格だけに限りません。たとえば、
「アルゴリズムがそう判定した」
「データがそう示している」
「数字が取れていない」
「費用対効果が合わない」
「市場が求めていない」
こうした言葉が決め手となり、そこで議論が終わってしまった経験は、だれしもあるのではないでしょうか。
しかし、アルゴリズムも、データの集め方も、評価項目も、費用と効果の定義も、人間が自分で選んだものです。数字が勝手に判断したのではありません。
誰かが何らかの目的で尺度をつくり、その尺度を使うことを選び、その結果を判断に利用しています。
問題は数値が間違っていることではありません。
人間がつくった尺度であるにもかかわらず、それが人間の判断を超えた客観的な法則であるかのように扱われることです。
デジタル社会は、人間を比較しやすくした
ポラニーが生きた時代には、現在のようなSNSも、検索エンジンも、生成AIもありませんでした。
それでも、彼の議論はデジタル社会を考えるうえで大きな手がかりになります。
デジタル技術によって、わたしたちの行動や属性は、以前よりはるかに記録しやすくなりました。
記録された情報は数値に変換されます。数値になれば、異なる人間や活動を、同じ土台の上で比較できます。
そして比較できるものは、順位をつけ、選別し、価格を与えることができます。
この過程を整理すると、次のようになります。
まず、人間の行動の一部がデータとして記録される。
次に、それが点数、件数、金額、割合などの数値になる。
そして、本来は異なる背景や性質を持つ人々が、同じ尺度の上で比較される。
最後に、その数値が、雇用、所得、信用、発言力、社会的承認などを配分する基準になる。
ここで認識しておくべきことは、こうした形で記録されるものが、人間のすべてではないということです。
こうしたかたちで切り取られるのは、あくまで記録しやすいもの、比較しやすいもの、利益につなげやすいものだけです。
たとえばフォロワー数は、どれだけ多くの人と接点を持っているかは示せます。しかし、その人が一人ひとりとどのような関係を結んでいるのかまでは示しません。
年収は、ある市場において労働にどれほどの価格がついているかを示します。しかし、その人が家族や友人をどれだけ支えているのか、どれだけ誠実に生きているのか、その仕事によって何を守っているかは示しません。
数字が表しているのは、対象の一側面にすぎないのです。
ところが、その一側面が繰り返し可視化され、比較され、人生の機会を左右するようになると、やがてそれが人間全体の価値のように見えてきます。
「自分の市場価値」という言葉
そのことをよく表しているのが、「自分の市場価値」という言葉です。
転職を考えるうえで、自分の技能や経験がどのように評価されるかを知ることは重要です。
現在の職場の評価だけを絶対視せず、別の会社であればより高く評価される可能性を知ることは、働く人の自由を広げることもあるでしょう。
その意味で、「市場価値」という考え方をすべて否定する必要はありません。
けれども、
私の技能は、現在の転職市場ではこのように評価される
ということと、
私という人間の価値は、このくらいの価格(年収)である
ということは、まったく異なります。
前者は、特定の時点、産業、地域、制度のもとで成立した評価です。
後者は、その局所的な評価を、人間全体へと拡張しています。
問題は、市場で評価されること自体ではなく、市場の評価を自分自身の価値と同一視してしまうことです。
ここで見られるのは、わたしたちが外部から評価されるだけでなく、その尺度を自分の内側へ取り込んでしまう過程です。
何を学ぶか。
誰と付き合うか。
どんな経験をするか。
休日をどう使うか。
何を発信するか。
それらを、「将来の収入につながるか」「キャリアとして魅力があるか」「他人から評価されるか」という、外部的尺度をもとに選ぶようになります。
自分自身を、将来より高く売るための資産として管理し始めるのです。
もちろん、生活のために、社会から評価されるための一定の戦略は必要です。
しかし、あらゆる時間や関係が自己投資に変わったとき、わたしたちはいったい何のために自分の価値を高めているのでしょうか。
高く評価されるために生きているのか。
生きたいように生きるために、評価を利用しているのか。
その順序が、いつの間にか逆転してはいないでしょうか。
問題は数値化ではなく、価値の独占である
ここまで読むと、「数字で人を評価することはすべて悪い」という話に聞こえるかもしれません。
しかし、そうではありません。
所得、労働時間、貧困率、死亡率、差別の発生件数などを数値化することは、社会問題を可視化し、権利を守るためにも必要です。
数値があるからこそ、本人の努力不足や気のせいとして処理されていた問題を、社会的な問題として示せることもあります。
問題は、数値化そのものではありません。
本当の問題は、数値が何を示し、何を示していないのかを忘れてしまうことです。
数値化された価値は、特定の目的、尺度、制度、時点、文脈によって切り取られた一側面にすぎません。
偏差値は、特定の試験にどのように答えたかを示します。
年収は、特定の市場で労働にどれほどの価格がついたかを示します。
フォロワー数は、あるサービス上で何人と接点があるかを示します。
それらは有用な情報です。しかし、知性のすべてでも、人間の価値でも、関係の深さでもありません。
ここで提起したいのは、次のような原則です。
「いかなる尺度も、それが測る対象の価値を独占してはならない。」
測れるものを、価値のすべてだと思ってはいけません。
数字そのものを判断にしない
尺度が価値を独占すると、数字は情報ではなく、判決になります。
現代社会では、以下のような論理が、妥当なものとしてしばしば通用します。
売上が低いから、残す意味がない。
利用者が少ないから、公共サービスとして不要である。
賃金が低いから、その仕事には価値がない。
生産性が低いから、その人は貢献していない。
数字が取れないから、その活動には意味がない。
本当にそうでしょうか。
本来、数字というものは指標のひとつにすぎないはずです。人間の判断は、数字のあとにも続いてしかるべきではないでしょうか。
採算は取れないけれど、文化として残す価値がある。
利用者は少ないけれど、少数者の権利として必要である。
市場賃金は低いけれど、人間らしく暮らせる所得を保障すべきである。
数値には表れにくいけれど、周囲の人を支える大切な仕事である。
市場価格や数値が答えられるのは、「いくらで取引されているか」「どれだけ利用されているか」「どれほど効率的か」といった問いです。
「どのような社会で暮らしたいか」「誰を保護するべきか」「人間をどう扱うべきか」という問いには答えられません。
それらは人間が、政治的・社会的・倫理的に判断しなければならない問題です。
ポラニーが危惧したのは、市場の答えが人間の判断に置き換わってしまうことでした。
人間の価値観が、市場における価格という尺度に取り込まれてしまうことを、彼は懸念したのです。
「それは数字ではあらわせない」と言える自由
尺度が社会の隅々にまで広がった現在、わたしたちに必要なのは、すべての評価から逃れることではありません。
社会で生きる以上、わたしたちは何らかの評価やルールから完全に自由になることはできません。
学校には評価があり、会社には目標があり、社会には資源を配分する基準があります。
既存の尺度を理解し、ある程度それに合わせることは、現実に生きるための処世術として必要です。
しかし、尺度に適応することと、その尺度へ服従することは違います。
適応するとは、その尺度が現在どのように機能しているかを理解し、必要に応じて利用することです。
服従するとは、その尺度を自然法則とみなし、それ以外の価値判断をあきらめることです。
わたしたちに必要なのは、尺度を利用しながら、その尺度の外側に立つ視点を失わないことです。
たとえば、
この尺度は、何を数値化しているのか。
何を数値化していないのか。
誰が、何のためにつくったのか。
誰に利益を与え、誰を不利にしているのか。
どの範囲まで適用するべきなのか。
そもそも、これは数値化するべきものなのか。
と問うことです。
そしてときには、
これは値段をつけるべきではない。
その数値だけで判断してはいけない。
わたしはその尺度を受け入れない。
と主張する必要もあります。
人間の尊厳は、生産性だけでは測れません。
人権は、費用対効果だけでは決められません。
友情は、フォロワー数では測れません。
ケアの価値は、市場賃金では尽くせません。
自然環境への影響は、補償金を払えばなくなるわけではありません。
異なる価値を、一つの尺度へ無理やり押し込めないこと。
それを、ここでは「非通約性を主張する自由」と呼ぼうと思います。
「社会の現実」を受け入れるとは何か
『大転換』の最後で、ポラニーは「社会の現実」を受け入れる必要があると論じます。
この表現は、少し誤解を招きます。
「いまの社会に不満があっても我慢しなさい。現実に適応しなさい。」
そう言っているようにも聞こえるからです。
しかし、ポラニーが受け入れるべきだと考えたのは、現代社会に成立する一時的な秩序ではありません。
次のような、人間が社会的存在であるという根本的な条件です。
人間は他者との相互依存から完全には離れられない。
複雑な社会には、調整、規則、組織、権力、一定の強制が必要になる。
誰にも制約されない完全に独立した個人として生きることはできない。
自由主義は、権力や強制がなくなれば、人間は自由になると考えました。
一方、ファシズムは、権力や強制が避けられないのなら、自由そのものをあきらめればよいと考えます。
ポラニーは、そのどちらも選びませんでした。
権力や制約は避けられない。けれども、それらを人間の目的に従わせ、自由を拡張することはできる。
彼の自由観は、次のように表せるでしょう。
「社会の現実を受け入れるとは、既存の秩序に服従することではない。制約と権力が避けられないと認めたうえで、それらを人間の目的に従わせ続けることである。」
既存の尺度に適応しながら、同一化しない
この考え方は、尺度との関係にも当てはめられます。
わたしたちは、既存の尺度から完全には逃れられません。しかしそれは、現在の尺度を絶対的なものとして受け入れることとは違います。
社会の制約は引き受けても、その社会が採用する尺度の絶対性まで引き受ける必要はありません。
むしろ、一つの尺度に自分を合わせすぎることには危険があります。
尺度は変わるからです。
高く評価されていた技能が、技術の変化により不要になることがあります。会社の評価方針が変わることも、SNSのアルゴリズムが変わることもあります。
一つの尺度による評価を自分自身の価値と同一視していると、その尺度が変わったとき、自分の価値全体が失われたように感じます。
反対に、家族や友人との関係、学びそのものの喜び、誰かを助けた経験、自分なりの倫理や美意識など、複数の価値基準を持っていれば、一つの尺度が変化しても、自分のすべてが失われることはありません。
尺度と距離を取ることは、現実から逃げることではありません。
変化する社会の中で、自分を守り、柔軟に生きるための方法でもあるのです。
自由とは、評価軸そのものを問い直せること
市場社会で自由というと、選択肢の多さが重視されます。
より条件のよい会社へ移る。
よりよい商品を選ぶ。
自分の能力を高め、より高い評価を得る。
たしかにこれらも大切な自由です。
しかし、いずれも与えられた評価制度の中で選択する自由です。
それだけでなく、次のような自由も必要ではないでしょうか。
制度の中で生きるために、尺度を理解し利用する自由。
次に、その尺度による評価を、自分や他者の全価値と同一視しない自由。
さらに、「この測り方はおかしい」と異議を申し立てる自由。
そして、別の価値基準を提示し、尺度や制度そのものを作り変える自由。
大切なのは、既存のルールの中で高く評価されることだけではありません。
ルールの正当性そのものを問えることです。
数字の外側に、自分の価値を残す
では、尺度にあふれる社会で、わたしたちは具体的にどうすればよいのでしょうか。
すべての数値を無視することはできませんし、そうする必要もありません。
まずできるのは、数字を「自分の評価」ではなく、「特定の状況についての指標」として受け取ることです。
年収は、現在の労働市場における自分の指標
フォロワー数は、現在のプラットフォーム上での到達範囲についての指標
試験結果は、特定の問題への習熟度についての指標
それ以上でも、それ以下でもありません。
そのうえで、数字が表していないものを意識することです。
この尺度で見落とされているものはなにか。
どのような働きが評価の対象になっていないのか。
どのような関係や価値が、数値化されていないのか。
そして、自分の生活の中に、評価や収益化を目的としない領域を残すことです。たとえば、
誰にも見せない文章を書く。
成功をテーマにしない本を読む。
役に立つか分からないことを学ぶ。
数字にならない関係を大切にする。
市場では評価されなくても、自分が正しいと思うことを続ける。
こうした行為は、競争からの逃避ではありません。一つの尺度に自分の価値を独占させないために、自らの立脚点を探索する実践です。
おわりに:いかなる尺度にも、価値を独占させない
わたしたちは、尺度のない社会に戻ることはできません。
複雑な社会で暮らす以上、数値や価格や評価を使わずに、すべてを判断することもできないでしょう。
問題は、尺度が存在することではありません。尺度が人間の手を離れ、自然法則のように扱われることです。
そして、その尺度で評価されることが、人間にとって唯一の価値実現だと思い込むことです。
ポラニーの『大転換』が教えてくれるのは、市場も価格も、社会の外部に存在する自然法則ではないということです。
それらは人間がつくった制度であり、人間の生活を支えるために使われるべきものです。
社会の現実を受け入れるとは、現在の秩序に服従することではありません。
制約や相互依存や権力が避けられないと認めたうえで、それらを人間の目的に従わせ続けることです。
同じように、尺度に適応することは、尺度を絶対視することではありません。
尺度を利用しながら、それが何を測り、何を切り捨てているのかを問い続ける。
必要なら、評価を拒む。
その結果に異議を申し立てる。
別の価値を提示する。
尺度そのものを作り変える。
そうした自由を手放さないことです。
「いかなる尺度も、それが測る対象の価値を独占してはならない。」
数値化にあふれる世界で自由を取り戻すとは、数字を捨てることではありません。
数字を、もう一度人間の手の中へ取り戻すことなのです。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回はポラニーの『大転換』を下敷きに、「あらゆるものが数値化される世界で、いかにして自由を取り戻すか」を考えてみました。
ポラニーは、最近書評を書いたグレーバーやマッツカートでも言及されています。
現代という時代を捉え直すにあたり、いま参照すべき論者の一人と言えるでしょう。
こんなにも豊かで便利な社会なのに、どうしてわたしたちはこれほどまでに閉塞感を覚えるのか。
この感覚を共有して頂ける方は、ぜひ本書を手に取ってみてください。あなた自身の思索の種が、かならず見つかるはずです。
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