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わたしたちはまだ「途上」にいる──『万物の黎明』にみる「閉塞」から脱け出す方法【書評#32】

便利になったはずの社会で、なぜわたしたちは「どこにも逃げられない」と感じるのでしょうか。
グレーバー&ウェングロウの『万物の黎明』を手がかりに、人類史の一本道を疑い、身近な「小さな社会」から別様に生きる可能性を考えます。

ふりかえってみると、世の中はずいぶんと便利になりました。

スマートフォンがあり、インターネットがあり、生成AIがあります。とくに日本では医療や教育もかなり整っていますし、Amazonで頼めば、ほしいものはだいたい翌日には届きます。

100年前、いや50年前ですら、これほど便利な時代がくるとは、ほとんどの人が想像していなかったでしょう。

それでもなお、いまの社会には、どこか満たされないような、なんとも言えない息苦しさがあります。

「どこにも逃げ場のない感覚」と言ってもよいかもしれません。

この社会から一度外れてしまえば、もう行く場所がない。そこで生き残れなければ、生活そのものが成り立たなくなる。
そんな不安を感じることがあります。

書店のベストセラーには、「成功」「効率」「勝者」といった言葉が並び、インターネットには、成功者や大金持ちになるための情報があふれています。

誰もが勝ちたいと願っている。少なくとも、落ちこぼれたくはないと思っている。

なぜなら、この社会でうまくいかなければ、ほかに行く場所などないように感じられるからです。

もちろん、現実は「勝ち組」と「負け組」にキッパリ分かれるほど単純ではありません。それでも、わたしたちは日々、そう思わせる言葉や評価に囲まれています。

いまの社会の評価軸から外れてしまえば、そのまま下へ落ちていくしかない。現代社会がもたらす豊かさを享受するためには、その競争に参加し続けるしかない。

そんなあきらめにも似たやるせなさに、わたしたちの社会は閉塞してしまっている…そんな実感があります。


こうした感覚に対し、「本当にそうだろうか?」と疑問を投げかけるのが、デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』です。

本書は、過去の人類社会を壮大なスケールで描く、いわゆる「ビッグ・ヒストリー」の1冊です。ただし、本ジャンルの代表的な作家である、ジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリらとは、かなり異なる方向を向いています。

本書はむしろ、こうした著作家が前提としがちな「進化論的文明史観」を真っ向から批判します。

「進化論的文明史観」とは、現在の国家や都市や市場を人類史の完成形とみなし、過去をそこへ至る準備段階として捉える考え方です。

『万物の黎明』は、最新の考古学や人類学の知見を使いながら、そうした歴史観を根本から問い直しました。

そこから見えてくるのは、現代社会を、歴史の必然がもたらした唯一の形として受け入れる必要はないのではないか、という可能性です。

この記事では、そんな『万物の黎明』を入り口にしながら、現代社会のどうしようもない閉塞感から脱け出すための手がかりについて、わたしなりの考えを述べていきます。



本記事の1ページサマリー
本記事の1ページサマリー

1. 人類史の「一本道」を疑う

『万物の黎明』は、人類史についての本です。ただし、よくある「人類はこう進歩してきました」という本ではありません。

むしろ、人類史を「行き先の決まった一本道」として見る考え方を疑う本です。

一般に、人類は次のように文明を発展させてきたと描かれがちです。

  • 昔の人間は、小さな集団で暮らしていた。そこでは誰もが平等だった。

  • やがて、食料を安定して確保するために農業が始まった。

  • その結果、人びとは同じ場所に定住するようになった。

  • それにより人口が増え、大きな都市ができた。

  • そのため都市をまとめる国家や支配者が生まれた。

  • こうして現在の文明へと至ったが、富や権力の不平等も大きくなった。

この流れは、とてもわかりやすいものです。

しかし、本当に人類は、そんなふうに行き先の決まった道筋をたどったのか。ほかの道筋はありえなかったのか。
これが、本書が正面から投げかける問いです。

そのために本書は、一般的な人類史の背後に置かれている、次のような前提を疑います。

  • 農耕社会の到来が、不平等を生み出した。

  • 大きな都市には、必ず王や国家が必要だ。

  • 社会が大きくなれば、強いヒエラルキーが避けられない。

人類は、ただ自然や技術の発展に押し流されながら、社会を変化させてきたわけではない。もっと多様で、もっと実験的で、もっと複雑な社会の形を試してきたのではないか。

『万物の黎明』は、このようにして、「人類はこう進歩してきた」という、わたしたちの中にある当たり前の物語を問い直します。

2. 人間は「善か悪か」だけでは捉えられない

人間とは、本来どのような存在なのか。

この問いをめぐって、古今東西の思想家がさまざまな議論を重ねてきました。その中には、大きく分けて2つの見解があります。

1つは、人間は放っておくと争う存在だから、強いルールや国家による統制が必要だという考え方です。

もう1つは、人間はもともと自由で平等な存在だったが、文明や所有の誕生によって不平等になったという考え方です。

前者を代表する思想家としてトマス・ホッブズが、後者を代表する思想家としてジャン=ジャック・ルソーが挙げられます。

いわゆる、性悪説と性善説に類する見方です。

けれども、『万物の黎明』は、そのどちらか一方に与する立場を取りません。

むしろ、人間を「本来的に善い」「本来的に悪い」と決めつけ、その本性だけから人類史全体を説明することに、無理があるのではないかと考えます。

実際、人間は、時代や場所や関係性によって、さまざまな社会を作ってきました。

支配を受け入れることもあれば、拒むこともあった。
農業を採用することもあれば、あえて距離を置くこともあった。
大きな集団で同じ場所に暮らすこともあれば、季節や状況に応じて集まったり散らばったりすることもあった。

人間を1つの本性だけで説明しようとすること自体に、限界があるわけです。

「人間は善なのか、悪なのか。」

この問いには、たしかにわたしたち人間についての重要な問いかけが含まれています。けれども、この問いだけにこだわると、人間が実際に作ってきた社会の多様性が見えなくなります。

大切なのは、人間を1つの性質で決めつけることではありません。

人間がどのような社会を作り、どのような生き方を試し、何を選び、何を拒んできたのかを見ることです。

本書はこのようにして、わたしたちにとって馴染みのある物語をゆるがしていきます。

3. 人類は、さまざまな社会を試していた

『万物の黎明』で印象的なのは、過去の人びとを「未熟な人間」として扱っていないことです。

先史時代の人びとは、ただ自然に従ってなにも考えずに暮らしていたわけではない。彼らにも、政治的な判断や社会的な想像力があったのではないか。本書はそう考えます。

たとえば、農業について考えてみましょう。

わたしたちは、農業を「人類の進歩をもたらした重要な転換点」として考えがちです。

農業が始まったから食料が安定し、人びとは定住し、人口が増え、社会が大きくなった。ただし、その必然的な帰結として不平等が広がった。
そういう物語です。

しかし本書は、農業の広がりがそれほど単純ではなかったと示します。

農業を知っていながら、あえて全面的には採用しなかった人びとがいたかもしれない。農業に適した環境に暮らしながら、別の生活を選んだ人びともいたかもしれない。

本書は、最新の考古学や人類学の研究をもとに、そうした可能性を示していくのです。

そこから導かれる結論は、人類は「便利なもの」を、ただ受動的に取り入れてきたわけではないということ。

そうしたものが自分たちの生活をどう変えるのか。日々の自由や遊びや関係性に何をもたらすのか。そうしたことを、自分たちなりに考え、技術や生活の形を選んでいた可能性があるということ。

都市についても同じです。

都市ができたからといって、必ず王や国家が必要になったわけではありません。大きな都市でありながら、強い王権や明確な支配階級を持たなかったと考えられる社会もありました。

わたしたちは、「社会が大きくなり複雑になれば、ヒエラルキーにもとづいた支配構造が必要になる」と考えがちですが、複雑であることと、強い支配構造を持つことは同じではありません。
大きく複雑な社会にも、別の形はありえました。

本書に登場する過去の人びとは、ただ歴史に流される存在ではありません。

自分たちなりに考え、話し合い、ある技術や制度を採用し、ときには拒み、ときには以前の生活へ戻り、別のやり方を選んでいました。

そう考えると、人類史はけっして「行き先の決まった一本道」ではなく、無数の枝分かれを持つ試行錯誤の歴史だったのかもしれません。

この可能性を示したことに、本書の大きな価値があります。

人類は、目の前の社会をあるべきものとして、ただ受け入れてきたのではありません。選び、拒み、作り替えてきた。

現代社会も、その長い試行錯誤の中から生まれた、1つの形にすぎないのです。

4. 富むがゆえに閉塞する現代

現代社会は、過去の多くの時代と比べれば、かなり豊かな社会です。

医療や教育が整い、多くの情報にもアクセスしやすくなりました。最近では生成AIの登場によって、文章を書く、調べものをする、新しいことを学ぶ、自分の考えを表現するといった行為のハードルも下がっています。

これは、現代社会が持つ大きな利点です。

現代にいたるまでに人類が実現してきた物質的な豊かさや、医療・教育・福祉などの制度には、たしかに大きな価値があります。

けれども、現代社会には、必ずしも「光」とは呼べない側面もあります。

グローバル化、インターネット、スマートフォン、SNS、そして生成AIをはじめとするさまざまな技術。

これらによって社会はずいぶん便利になった一方で、異なる場所に暮らし、異なる生活をいとなむ人びとが、同じ情報環境や評価軸にさらされる場面が増えています。

世界中の暮らしが、完全に同じではないにせよ、かなり似たものになりつつあるのです。

多くの人が似たような成功モデルを見て、似たような基準で比較され、似たような言葉で自分の価値を表明するようになってきているわけです。

過去のどの時代と比べても、遠くの国へ行ったり、世界中の人と交流したりすることは格段に容易になりました。
その一方で、世界はどんどん画一化の度合いをたかめ、全く異質な生活の形へ脱け出すことは、かえって難しくなっているように思います。

つまり、わたしたちは「どこへでも行けるのに、どこへも逃げられない」状態に、近づいているのではないでしょうか。

本書では、社会的な自由の基本的な形の1つとして、「移動する自由」が挙げられています。

これは単に地理的に移動できるという意味だけではありません。いまいる社会から離れ、異なる社会的な現実へ移れることでもあります。

そう考えると、現代社会では、地理的な移動の自由は広がっている一方で、「別の生活形式へ移る自由」はむしろ狭まっているといえます。

世界中がつながった結果、わたしたちが「社会」と呼ぶものの範囲は、かつてないほど広がっていきました。そして、その大きな社会の外にある、まったく異なる社会が存在する余地が、どんどんと狭まっているのです。

では、このように肥大化する社会のなかで、わたしたちはいかにして自由を取り戻せるのか。

ここからは、本書の議論を手がかりにしながら、わたしなりの考えを広げてみます。

5. 大きな社会の中で、「小さな社会」を見出す

世界中が接続されるようになった現代では、わたしたちの生活を支えるために、かつてないほどに大きな仕組みが必要です。

国家、法律、医療、教育、物流、市場、インターネット。これらは現代生活の基本インフラですが、維持するためには国境を越えた連携が不可欠です。また、経済や環境、感染症、情報通信など、国の中だけでは解決できない問題も増えています。

つまり、社会の仕組みは、国境を越えて、ますます広く複雑なものになっているのです。

こうした大きな社会を捨てて、過去の小さな共同体へ戻ることは現実的ではありませんし、それが望ましいとも思えません。

では、巨大化し、外側が見えにくくなった社会の中で、わたしたちはただ、そのルールを受け入れて生きるしかないのでしょうか。

わたしは、ここで「小さな社会」に目を向けることに意味があると考えています。

ここでいう小さな社会とは、新しく立ち上げた共同体やコミュニティのことではありません。

というのも、多くの人は、すでにいくつもの小さな社会に属しているからです。家族、職場、友人関係、学校、地域、趣味の集まり、オンラインのつながり、行きつけの店など。

これらは、単なる人間関係の集まりではありません。

それぞれの場には、共有された言葉や習慣があります。何を大切にするのか、どのようなふるまいが評価されるのか、誰がどのような役割を持つのかが、それぞれに異なります。

職場で当たり前とされることが、家族の中では通用しないことがあります。友人関係で大切にされるものと、趣味の集まりで評価されるものも同じではありません。

そう考えれば、これらはそれぞれ、固有の文化やルールを持つ、1つの「社会」と呼べるのではないでしょうか。

つまり、わたしたちにとっての社会とは、国境を越えて膨張を続ける巨大な全体だけではないということです。

わたしたちは、国家や市場、インターネットが形作る大きな社会だけに生きているのではありません。その中に幾重にも重なり合う、複数の小さな社会を同時に生きているのです。

このように社会を複数形で捉え直すと、1つの大きな社会の評価軸だけで、自分の価値を決める必要はないことに気づきます。
1つの場所における役割や評価は、その人のすべてではありません。

このやって小さな社会に焦点をうつすことは、大きな社会から目をそらすことではありません。

重要なのは、自分がすでに複数の異なる関係の中に生きていることに気づき、1つの社会、1つの役割、1つの評価軸だけに自分自身を囚われないようにすることです。

わたしたちが実際に人とかかわり、支えたり支えられたりするのは、大きな社会よりもまず先に、こうした具体的な場のはずです。

だからこそ、小さな社会の中でどのような関係を結び、どのような自由を持てるのかを考えることには、それ自体に大きな意味があると考えています。

6. 自由は、小さな社会の中にもある

『万物の黎明』では、人間が持っていた社会的な自由として、次の3つが挙げられていました。

  • いまいる場所から離れ、別の場所へ移る自由

  • 他人の命令に従わない自由

  • 新しい社会を作り、異なる社会のあいだを行き来する自由

本書が主題としているのは、主として人間集団が社会の形そのものを選び直す自由です。

しかし、国家、市場、インターネットのような巨大な仕組みを、個人の力ですぐに作り替えることは容易ではありません。いまのところわたしたちは、この仕組みを所与のものとして生きていくしかありません。

だからこそまずは、わたしたちが実際に生きている小さな社会の中に目を向けてみることが意味をもってくるわけです。

すなわち、家族、職場、友人関係、地域、趣味の集まりなどです。

では、そうした場における自由とはなにか。

移動する自由とは、1つの所属だけに自分のすべてを預けず、必要であれば別の場所へ移れることです。

従わない自由とは、その場から与えられた役割や評価を、無条件に受け入れないことです。

社会を作り替える自由とは、身近な関係のルールや距離感を、対話や日々のふるまいを通じて変えていくことです。

もちろん、すべての関係から簡単に離れられるわけではありません。家族や仕事のように、責任や生活が深く結びついた関係もあります。

それでも、いまある関係の形を絶対的なものだと思わないことには意味があります。

距離の取り方を変える。
求められた役割を、無条件に引き受けない。
これまでとは違う関係のあり方を模索する。
必要であれば、その関係から退出する。

いまの関係や役割が唯一のものではなく、別のあり方も選びうると知っていること。それもまた、自由の形ではないでしょうか。

それに、わたしたちは、すべての小さな社会で同じ自分でいる必要もありません。

職場では寡黙な人が、友人の前ではよく話すことがあります。家族の中では支えられる側の人が、別の集まりでは誰かを支える側になることもあります。

どれか1つだけが「本当の自分」なのではありません。それぞれの場で、自分の異なる面が表れているだけなのです。

複数の小さな社会を行き来できれば、1つの場所で与えられた役割や評価に、自分の人生全体が囚われることがなくなります。
1つの場所でうまくいかなくても、別の場所では成功することもあるからです。

このように、小さな社会の中で自由を求めることが、まず最初の一歩として重要になってくるわけです。
こうした小さな社会こそ、わたしたちが現実に人とかかわり、支えたり支えられたりしながら生きている場所だからです。

そして、小さな社会における自由の追求は、大きな社会とも無関係ではありません。

たしかに、小さな社会のあり方が、そのまま国家や市場全体に広がることは考えにくいでしょう。

それでも、日々の関係の中で、役割は固定されたものではない、命令には必ず従わなくてもよい、関係のルールは変えられるものであると実感することはできます。

その実感は、現代社会全体についても、「いまの形だけが唯一ではない」と、集団として考える力につながるのではないかと思います。
複数の場所で生まれた別の関係や考え方がつながり、より広い制度や文化に影響する可能性もあります。

これは、『万物の黎明』そのものの結論ではありません。あくまでわたし自身の考えです。

ただ、本書が人類を1つの本性や、1つの進歩の物語に閉じ込めなかったように、わたしたちも、いま現在の自分自身のありかたを、1つの形に閉じ込めなくてよいのではないでしょうか。

人間は本来善いとも悪いとも言い切れない。人類史も、狩猟採集から農業、都市、国家へと必ず進む一本道ではありませんでした。そこにはさまざまな紆余曲折と試行錯誤がありました。

それなら、個人の人生も、わたしたちが暮らすさまざまな社会も、同じように考えてよいはずです。

1つの性格、1つの役割、1つの評価軸、1つの成長物語に閉じ込められなくてよいはずです。

わたしたちは、個人としても、社会としても、まだ完成形ではありません。

まだ「途上」にいるからこそ、つねに別様でありうるのです。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

今回は『価値論』でも取り上げた、グレーバーとウィングロウの共著、『万物の黎明』についてご紹介しました。

自由・個性・多様性が叫ばれる社会だからこそ、「自由とはなにか?」をわたしたちはもっと真面目に考える必要があります。本書はその手掛かりとなる一冊です。

邦訳で700ページ強、そのうえ2段組という、グレーバーらしい大著ではありますが、そのぶん学びも多いはず。

ぜひ、みなさんにもお手にとっていただけたら嬉しいです。


※本記事はAmazonアソシエイト・プログラムに参加しています。

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