AIネタはすぐに陳腐化するので今書いておく
日記調の稿は、note継続〇ヶ月目の企画にしようと思っていたが、このネタは明日にでも陳腐化してしまいそうだったので今使うこととする。
ネタとは、人様のnoteでたびたび目にしたAI文章についての雑感である。より具体的には「書く快楽とAI」について展開する。
前提として、私はChatGPTのヘビーユーザーであり、AI作業の本質である再現性のコントロールについて、おそらくは十人並以上に腐心してきた経験がある。
本稿の論点は三つある。
一点目は、2026年5月現在のAIが、人間よりもつまらない文章しか書けないとの論調。これについては私も同意である。
二点目は、AIが文章能力について人間のような「味」を出せないとの主張。現時点では確かにそうだろうが、遠からずAIもいわゆる「味」を獲得して人間に追いつくと考える。
三点目は、人間がAIに文章クオリティで並ばれ、生産スピードでは到底勝負にならなくなったとき、人間は馬鹿馬鹿しくて書かなくなるのかについて。私は、職業ライターは減るかもしれないが、アマチュアの文章家は残ると考える。
まず、一点目と二点目は同じ論点としてまとめて考える。 現在のAIは、こと大喜利やトンチなどの一発芸では人間より強いかもしれない。しかし、文が集まっての文章、そして文章の集まりたる稿とまでなれば、AIは一発ネタで発揮した鋭さを持続できない。
例を挙げると、起承転結の起や承で置いた伏線を結で回収するようなカタルシスは現在のAIには期待できない。ここは、まだ人間に分のある文章テクニックとなっている。しかし、これは単純に情報処理量と整合理解の問題で、いずれ克服してしまうだろう。そのくらいAIの情報処理量の伸びは著しい。
また、AI文章についてのnote記事の感想に散見される「味気ない」との評価も、今この瞬間だけに通用する感想であろう。「味」とは、かつて私が別の稿で「水」と比喩した、著者が好む表現であり、文章のリズムであり、どこまでを行間で読ませるかの機微等である。つまり、「味」とは本人が意識しているいないは別として、端的にはその書き手が発揮しているテクニックにほかならない。
テクニックにはメソッドがあり、その解析はAIが最も得意としている機能だ。経験や人格そのものは解析できないとしても、それが文章上に現れる限り、語彙、リズム、省略、比喩として観測可能である。繰り返すが、AI文章が「味気ない」のは、単純に現時点の性能に依存しているゆえだ。AIは性能の飛躍によって、いずれ文章の「味」を手に入れる。それは時間の問題と言える。
三点目、AIに追い越されたそのとき、人は書かなくなるのか。
フリーライター、新聞記者、小説家。このあたりのいわゆる文筆業がどれほど「業」として生き残れるのかはわからない。もちろんジャンルによって変化の速度は違うだろうが、少なくとも一定品質の文章を量産する領域では、2026年5月の現段階でも、人の役割は徐々に「AIに書かせた稿のクオリティを商品レベルに整える人」へ変化してきているのではないか。
この場合、プロに必要なのは読み手として、監督者としての力量であって、本人の生産速度ではないが、しかし求められる仕事は一定品質での量産であることは変わっていない。必然的にプロは労働として、作業者として書くことは少なくなっていくだろう。
それでも「文章と人」として考えると、人は書くのを止めない。
なぜなら、書くことは快楽であり、人は快楽を手放さないからだ。ましてや一人悦に入るに留まらず、他人と通じ合ったときの快感たるや、このnoteになんの金銭対価もなくせっせと新記事を公開する数えきれない同志の存在が、この主張を現在進行形で裏付ける。アマチュア文章家は「そのとき」が来ても駆逐されることはないとさえ断言しよう。
人類が文字を獲得し、そこから始まった語彙の探求、果ては自らの情動を言語化せしめたときに手にする達成感、すなわち「書く快楽」。我々はそれを他人に譲り渡すはずがない。
加えて、なんの面識もない人物が文章に投影した情動を、図らずも私ごととして感応してしまう体験、言うなれば「読む快楽」。内面を揺さぶられた読み手は、やがてその者もまたアウトプットする側に導かれる。
現代社会のビジネスモデルとしての執筆は、活版印刷が登場してせいぜい数百年だが、「書く、そして読む、さらに書く」という快楽の連鎖は、人類が文字を手にしてから現代まで続く原初の行動原理の一つと言える。この快楽の連鎖は、人間が思考する動物である限り止まらない。
AIに文章生成能力で凌がれたそのとき、人は自ら書かなくなってしまうのかという議論は、人がいわゆるAI時代以降に思考の主体を失うかとの議論に近い。
人は考えることも書くこともやめない。生きているからだ。
AIは色々なことに使っています。
