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乃木坂の期別戦略について


 乃木坂46という巨大なアイドルグループが、創業メンバーの完全な離脱という危機を乗り越え、今日まで延命し得た最大の要因は何か。 それは、楽曲の良さでも清楚なコンセプトでもない。「期別行動」にあるというのが筆者の考えである。 今回は、このあまりに成功しすぎてしまったシステムが、現在いかにしてグループの首を真綿で締めるような構造的な呪縛に変貌しているかについて論じたい。なお、前段として乃木坂の復活について論じた記事を以前書いているので、そちらもあわせて読んでいただけるとありがたい。

 最初に、私の立場を表明しておく。私はいわゆるゴカス(乃木坂5期生オタクの蔑称)であり、岡本姫奈と冨里奈央を推しているオタクである。

 さて、時計の針を少し巻き戻そう。 乃木坂の歴史において、2期生という存在は少々特殊な立ち位置にある。彼女たちは実質的には1.5期生だった。創業期特有の混乱の中で投入され、個としての期の物語を与えられることもなく、堀未央奈に青天の霹靂のように与えられた7thシングル『バレッタ』のセンターに象徴されるように、機能的な即戦力、あるいは選抜/アンダーの穴埋め要員として消費された。彼女たちは巷のオタク論壇でしばしば指摘されるように不遇であったが、間違いなく乃木坂の創成期を支えた功労者である。
 そしておそらく、運営は2期生を通じて一つの学習をした。途中加入のメンバーを既存の組織にそのまま混ぜこんでも、ファンは簡単には愛着を持たず、結果としてなかなか安定した人気を持ち得ないということである。

 この反省から生まれた最初のパラダイムシフトが、3期生の加入だった。 3期生は、既存の乃木坂に対する単なる補充ではなく、ある種の異物として投入された。彼女たちには「三番目の風」というアンセムが与えられ、先輩たちとは隔絶された単独ライブやプリンシパル、期別での番組出演などを通じて、3期生というチームの物語が徹底的に構築された。 これが、乃木坂運営が開発した「期別ブランディング」の正体である。
 グループを作り上げた1期生の神話が終わった後、ストーリー性が欠落することでグループ全体の求心力が落ちることは避けられない問題であった。そこで、グループ全体の大きな物語の代わりに、期ごとの成長・仲良し物語というサブストーリーを代替として提供することにしたのだ。 これは、ファンに新しい推す動機や意味を与え、同時に卒業する先輩メンバーのオタクの受け皿を用意する、極めて合理的な生存戦略である。
 実際、このシステムは機能した。奇数期である1期、3期、そして5期がしばしば“強い”と評されるのは偶然ではない。変革のタイミングで投入された彼女たちは、新しい物語の主人公としての座を約束されていたからだ。対して4期生は、賀喜遥香と遠藤さくらという傑出したツートップに人気が極端に集中する歪な構造となったが、それもまた、過渡期におけるこのシステムの副作用と言える。

 しかし、成功には代償が伴う。期別ブランディングの成功は、取り返しのつかないデメリットをグループにもたらした。
 第一に、オタク内での対立の激化である。 1期・2期時代から潜在していた対立構造は、3期生の異物としての加入と成功以降、決定的なものとなった。オタクとは本質的に新しいものを好む生き物であり、限られたパイを奪い合う中で、期ごとの対立は先鋭化する。〇期はブス、〇期はゴリ推しといった罵り合いは、もはや日常茶飯事である。
 第二に、箱推しの死、そして逆説的ではあるが、グループとしての物語の断絶である。 期ごとの結束を強化すればするほど、期を跨いだ乃木坂46という大きな物語は空洞化する。かつてのように先輩が後輩にイズムを継承する縦の糸よりも、同期同士で固まる横の糸が強くなる。結果、ファンは乃木坂が好きなのではなく、〇期生が好きという状態に陥り、その期や推しメンが求心力を失ったり卒業したりするとグループごと見限るようになる。
 第三に、選抜の期別枠という政治的配慮だ。 本来、選抜とは純粋な実力と人気の競争、そして運営の戦略の発露の場であるべき(と素朴なファンの多くには考えられている)だが、期ごとのバランスを保つための指定席が暗黙のうちに用意されるようになった。この硬直化は、組織の新陳代謝の阻害をもたらしたが、それ以上に期別のオタクの対立の大きな要因にもなっている。

  そして、このシステムが生み出した最高傑作であり、問題児であり、怪物と称して差し支えない存在こそが、5期生である。 僕自身、5期生のなおひな(冨里奈央・岡本姫奈)を応援している一人のオタクとして、彼女たちの魅力は痛いほど理解しているつもりだ。 5期生がこれほどまでにオタクにウケている理由は明確である。初期から完成度の高いビジュアルを持ち、過去のメンバーを彷彿とさせるような個性や外見を持つメンバーもいながら、一方で従来の乃木坂らしさという文脈を良い意味で裏切る新しさも兼ね備える。 5期生が加入直後の乃木坂46としては問題外の騒動さえもある意味で燃料にしてロケットスタートを切ったのは、衰退期の乃木坂における中興の祖になれるのではないかという、ある種の革命への期待があったからだというのも確かであろう。
 しかし、5期生の異常な盛り上がりには、もう一つの側面があることも指摘せねばならない。それは、ミーグリ完売表により可視化された序列闘争と過剰なファンサービスによるドーピング効果だ。 今、主力となった5期生の選抜でのポジション争いは、内部の序列闘争の激しさと他の期を凌ぐ5期生の勢いを反映し、他の期の同時期に比べて極めて流動的で熾烈だ。オタクはそのコロッセオのような競争に熱狂し、順位変動に一喜一憂する。さらに、その競争を勝ち抜くために、5期生自身のファン対応も前例よりはるかに過熱している。棘のある言い方をすれば、それは過剰とも言える。ゲーム理論的に、誰かが旧来のスタイル以上のサービスを始めてしまうと、そのライバルは追随せざるを得ない。そしてグループ内での序列は最初の数年間で概ね決まってしまうため、加入直後はより上を目指すため同期を仲間として、そしてライバルとして意識し続けなければならない。ゆえに既存の乃木坂の境界線を踏み越えるかのような、時に掲示板などで「キャバ対応」と揶揄されるような必死さが生まれ、オタクの射幸心を煽り続けている。
 その結果、5期生というコミュニティは、いまや独立した優良子会社のような様相を呈している。当初は不人気とされた奥田いろは・岡本姫奈といったメンバーでさえ、この強力な5期生の物語にバックアップされ、今や選抜ボーダークラスの人気を誇り、全員がミーグリをほぼ全完売するという異常事態を何シングルも続けている。
 だが、この状況は決して無批判に歓迎すべきものでもない。それは実のところグループ全体にとって劇薬どころか毒として回り始めているのである。 5期生の台頭は、確かに新規ファンを増やした部分もある。しかし大局的に見れば、既存のオタクの熱量を強力に吸引し、内部で循環させているというカニバリズム的側面が強すぎるのだ。実は、5期が新たに生み出した仕事は決して多くなく、先輩から受け取ったリソースを食い潰しているという側面も強い。あまりにも完成されすぎた5期生というパッケージは、その内部でエコシステムを完結させてしまい、外部への流出も、外部からの流入も拒絶しているように見える。その最大の被害者は加入後に十分な数のオタクが流れてこず期として人気が伸び切らない6期生であり、オタクを吸引された結果中堅どころが没落しつつある4期生でもある。
 ここで特に皮肉な現象が起きている。 運営が5期生の個々のメンバーにリソースを投下すれば――例えば単独センターや写真集、メディア露出を与えれば――それが外部からの新規顧客獲得に繋がるのかもしれない。しかしそれ以上にむしろ、その投下されたリソースは、期内における序列争いの燃料として消費されてしまうのだ。 外貨を稼ぐことよりも、「推しがライバルに勝った」「負けた」という内部の熱狂を加速させる装置として重要視されているのである。つい先日、池田瑛紗が41stシングルで単独センターを務めることが発表された。個人的には5期が好きなものとしてこの采配を好ましく思うものの、届くmondを見ていると、やはり新たな序列競争が幕を開けた感がある。

 さらに、この5期生一強という現状には、目を背けてはならない二つの現実が潜んでいる。
 一つ目は、時間的猶予のなさである。 池田瑛紗、川﨑桜、一ノ瀬美空、そして中西アルノ。5期生の躍進を支える主要メンバーの多くは、アイドルのキャリアとしては決して早いスタートではなく、今やあと数年で卒業を意識するような年齢層にいる。彼女たちが全盛期を迎えている間にスムーズにバトンを渡さなければならないが、前述の循環不全により、巨大な空洞化のリスクが迫っている。
 二つ目は、期別戦略の限界点だ。これだけ5期生が最強と盛り上がり、独立経済圏を作るほどの熱量を生み出しながら、冷厳な現実がある。それは、これだけ束になっても、4期生のトップである遠藤さくらと賀喜遥香の人気を一向に超えられていないという事実だ。そして、この4期生の両エースの存在こそが、現在の乃木坂46が抱える最も悩ましいジレンマを象徴している。
 遠藤さくらと賀喜遥香。彼女たちの人気は圧倒的だ。5期生全体が束になっても敵わないほどの岩盤のような支持層を持っている。だからこそ、運営はグループのリソース――楽曲、メディア露出、プロモーション――の多くを、必然的に彼女たちに配分せざるを得ない。 
 しかし、ここに不幸なミスマッチが生じている。かつてのエースたち――白石麻衣や西野七瀬らが担っていたのは、村の外へ積極的に打って出て、その成果を村に持ち帰るという「外部への拡張」の役割だった。対して、遠藤や賀喜の魅力は、むしろ村の中で静かに美しく輝くその「内向性」にある。   
 誤解しないでほしいが、彼女たちを非難する意図は毛頭ない。時代は変わり、かつてのような国民的人気を再度獲得することが困難な現状において、彼女たちのビジュアル、個性やふるまいが、ファンを繋ぎ止める大きな拠り所になっているのは間違いないからだ。
 問題は、彼女たちの資質ではなく、組織の構造にある。「圧倒的な人気を集めるトップの性質」が内向きであるために、そこにリソースを投下すればするほど、結果としてグループ全体の視線やエネルギーも自然と内側に固定され、滞留してしまうのだ。本人の適性をねじ曲げてまで、過去のエースの模倣を強要することはできないし、するべきでもない。ただ、エースに投下されたリソースが外部への拡張に変換されないことで、グループ全体の視線は緩やかに、しかし確実に内向きになっていった。

 本来であれば、この閉塞感を打破し、再び外部への拡張を担う「外燃機関」としての役割こそ、最強世代たる5期生に期待されたもののはずだった。しかし悲劇的なことに、彼女たちが持ち合わせた巨大なポテンシャルの多くは、外へ向かうどころか内部の序列闘争の熱狂に飲み込まれてしまったのである。

 かくして主力が外部への拡張性を失い、内部での熱量の再生産と共食いに終始しているのが、斜めに、露悪的に見た乃木坂の現状である。 これでは、どれだけ熱量が高くても、それは閉ざされた系の中での循環であって、未来があるわけではないし、そもそも高く見える熱量も期内部の序列争いがトリガーであって、乃木坂そのものにモチベーションが高いわけではないのかもしれない。
 誤解を恐れずに言えば、期別行動がグループの延命に非常に効果的だったのは事実だともう一度強調しておきたい。 だが、それはまごうことなきドーピングであり、いずれ必ず限界が訪れるシステムだった。 代替材としての新しいメンバーと、代替の物語としての期のドラマを紡ぐ構造。 それは、主要メンバーの卒業によってグループの寿命が徐々に燃え尽き、もはやテセウスの船と化した乃木坂で本質的な何かが失われていても、それが見えないようにオタクの目を背けさせるための装置だった。 表向きに継承が上手くいっているように見せかけ、「乃木坂だけは例外的なグループであり、ずっと美しい関係性の中で王座に座り続けられる」という心地よい幻想を抱かせるには、このシステムは十分すぎたのだ。 そして、その限界の到来を決定的に加速させたのは誰か。 人気が二極化した3期生ではない。 全盛期をコロナ禍が直撃し、スキャンダル、卒業、休業、そして人気低下……諸々の要因によって中上位層が崩れ、結果として遠藤と賀喜の独壇場にならざるを得なかった4期生でもない。 皮肉にも、それは「過去最強」と謳われた、5期生だったのだ。 あまりにも強く、あまりにも完成された代替材であったがゆえに、彼女たちは母屋を飲み込み、循環を止めてしまった。
 
 だが、最後にこれだけは付け加えなければならない。 今の乃木坂46の屋台骨が、なんとか崩れずに残っているのは、間違いなく5期生の功績であるという事実を。 循環を止めたのも彼女たちだが、崩壊を食い止めているのもまた、シングル売り上げの多くをミーグリを売ることで支えている彼女たちなのだ。
 もし、乃木坂46がかつてのような「天空の国民的アイドル」という幻想を捨て、ルックスが優れ、売上が安定した「有名アイドルグループ」としてアイデンティティを再定義し、生き残りを図るのであれば、 乃木坂が乃木坂として存在していられる時間の多寡は、間違いなく彼女たちの双肩にかかっているのだ。


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