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公衆電話の受話器には、知らない人の時間が残っていた

コインを入れた。

コロン、と落ちた。

あ、そうだった。

落ちる音がしてから、電話はまだどこにもつながっていない。
そのことを、手が先に思い出した。

生あたたかい受話器を持ち上げる。

耳にあてる前から、少し湿っている。
誰かの手のあと。
誰かの耳のあと。

知らない人の用事が、まだそこに残っている。

ツーン。

小さな箱の中に、金属のにおいがする。
雨の日の傘立てみたいなにおい。

もう1枚、コインを入れる。

指先が、少しだけ急ぐ。
急いでいるのに、動きは遅い。

番号を押す。

プッシュ音が、ガラスの中で跳ねる。
ひとつ押すたび、遠くの部屋へ、細い糸が伸びていく。

最後の数字を押したあと、急に静かになる。

呼び出し音。

耳の奥で、間が伸びる。

外を人が歩いている。
傘の先が床をつつく。
自転車のライトが、少しだけ白くにじむ。

ガラスには、こちらの顔も映っている。

電話をしている私の顔。
誰かを待っている私の顔。

自分の顔なのに、少しよそよそしい。

向こうが出る。

「もしもし」

声が来る。

同じ町の、どこかから。

それでも、少し遅れる。

「うん」

私の声も、ガラスに当たる。

向こうへ行く前に、いったんここに映る。
白くくもったガラスに、声の形だけが残る。

話す。

たいしたことは話していない。

今日どうだったとか。
何時に着くとか。
まだ起きているかとか。

言わなくてもいいことを、わざわざ言う。

言ったほうがいいことは、すこし避ける。

コインが中で待っている。

この電話には時間がある。
見えないけれど、確かに減っている。

だから、沈黙にも輪郭がある。

何も言わない時間が、ただの空白にならない。
相手の息が聞こえる。
こちらの息も、たぶん向こうに行っている。

ガラスに、互いの顔が映る。

少し遅れて重なる。

向こうの人が笑った気がする。
こちらの口元も、少し動く。

受話器のコードが、ねじれている。

指でなぞると、黒い皮のような感触がある。
何人もの手が、ここを持ったのだと思う。

後ろに人が立つ。

ガラス越しに、靴だけが見える。
紺色の傘の先が、床に小さな水を作っている。

言葉が短くなる。

「うん」
「あとで」
「大丈夫」

「大丈夫」と言った声だけ、少し小さかった。

コインで話せる時間は、長くない。

黙っていても、何かが減っていく。
話していても、やっぱり減っていく。

切れる前の音がする。

言いたいことが、急に小さくなる。

小さくなって、言える大きさになる。

「じゃあね」

それだけ言う。

受話器を戻す。

カチャン。

糸がゆるむ。

外に出ると、空気が少し冷たい。

さっきまでいた箱の中だけ、まだ息が残っている。

ポケットの中に、もう使わなかったコインが1枚ある。

指で触る。

まだ、少しあたたかい。



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二毛猫 虹をありがとうございます。