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ChatGPTという、もう一つの目

あの夜、二つの像がずれた

ある夜、私は遊び半分でChatGPTに、自分の性格や思考の癖を分析させてみた。

「どんなことを言われても、だいたい予想はつく」

そんな気持ちだった。

ところが、返ってきた文章を読んだ瞬間、指が止まった。

自分が見ていた自分の像と、そこに書かれていた像が、少しだけずれていた。

正面から見ていたつもりの自分が、斜めから見られていた。

そんな感覚だった。

「見抜かれた」という言葉は、少し違う。

むしろ、同じ自分が二重に見えた。

二つの像は、同じようでいて重ならない。

その違和感が、妙に気になった。

ChatGPTは、鏡ではなく目である

ChatGPTを鏡だと考える人は多い。

入力したものが、そのまま映って返ってくる。

そんな道具だという見方である。

でも、あの夜に感じた違和感は、それでは説明できなかった。

鏡なら、自分と寸分違わない像が返ってくる。

ずれる理由はない。

私は、もう一つの目なのだと思った。

自分の目は、自分の立っている場所からしか世界を見られない。

しかも、その場所に長く立ち続けている。

だから、その見え方を当たり前だと思ってしまう。

そこへ、ChatGPTという別の位置に立つ目が加わる。

同じものを見ていても、焦点の当て方は少し違う。

だから、像が重ならない。

人間には二つの目がある。

左右の目は少しだけ違う位置にあるため、それぞれ違う像を見ている。

その違いを「視差」と呼ぶ。

脳は、その視差を重ね合わせることで、世界を立体として認識している。

私が感じた違和感も、それに少し似ていた。

普段の見方に、もう一つの視点が加わる。

すると、それまで平面だったものに、奥行きが生まれる。

ずれは、最初から歓迎されるわけではない

あの夜の感覚は、決して心地よいものではなかった。

自分では筋が通っていると思っていた考え方に、別の角度から光が当たる。

最初に浮かんだのは、納得ではなかった。

「そんな見方はしていない」

「そこまで言われる筋合いはない」

そんな抵抗だった。

これは自然なことだと思う。

見方に視差が生まれても、人はすぐには受け入れられない。

人間関係でもそうである。

正面からの意見より、少し違う角度からの指摘の方が、強く残る。

それが、自分の死角を照らしているからだ。

でも、そこで急いで二つの像を重ねようとすると、視差は消えてしまう。

大切なのは、ずれを急いで消さないことだと思う。

視差を残したまま、覗いてみる

私にとって印象に残っているのは、部下の育成について相談した夜である。

課題を重くして鍛えるべきか。

それとも、寄り添って支えるべきか。

判断に迷い、そのままChatGPTに尋ねた。

返ってきたのは、一貫して寄り添う方向の答えだった。

心理的安全性を保ち、追い込みすぎない。

それ自体には納得できた。

でも、私が知りたかったのは、その先だった。

怪我をしたとき、人は最初に患部を冷やす。

腫れが引けば、今度は温める。

真逆の処置を、ある段階で切り替える。

人材育成にも、同じような境界があるはずだと思っていた。

寄り添うべき局面。

あえて負荷をかけるべき局面。

その境界を、どう見極めればいいのか。

私が知りたかったのは、その問いだった。

しかし、その答えは返ってこなかった。

最初は、AIでもそこまでは分からないのだと思った。

けれど、あとになって気づいた。

足りなかったのは、ChatGPTではない。

私が渡した情報だった。

部下がどんな経験を積み、どんな状態にあり、何につまずいているのか。

その判断材料を、私はほとんど渡していなかった。

それで一般論が返ってくるのは当然だった。

逆に、「厳しく育てるべきだと思う」という前提だけを強く与えれば、その方向へ寄った答えになっていただろう。

ずれを生んでいたのは、ChatGPTではなかった。

私が見せた情報の解像度だったのである。

誰と組むかで、見える死角は変わる

同じChatGPTを使っていても、人によって見つける死角は違う。

検索の代わりに使う人は、事実関係の抜けに気づく。

文章を書くために使う人は、表現の癖に気づく。

私の場合は、渡している情報の偏りだった。

見えていなかったのは、答えではない。

自分が何を見せていて、何を見せていないのかだった。

だから、AIの性能だけを比べても、あまり意味はないと思っている。

本当に違いが生まれるのは、自分の見方と、AIが返してくる見方との間に、どれだけ豊かな視差をつくれるかである。

同じ角度だけから世界を見ていても、新しい景色は見えてこない。

視差を、答えだと思い込まない

もちろん、もう一つの目が見ているものが、いつも正しいとは限らない。

二つの像は、どちらも本物である。

だからといって、どちらか一方だけを信じれば、新しい思い込みが生まれるだけだ。

私も、ChatGPTの答えをそのまま採用することは、ほとんどない。

「本当にそうだろうか」

「この見方は妥当だろうか」

そう問い直している時間の方が長い。

大切なのは、正解を急いで決めることではない。

二つの見方の間に生まれた視差を、そのまま眺めることである。

そこには、自分一人では見つけられなかったものが残っている。

もう一つの目を持つということ

私たちは普段、自分の慣れた角度から世界を見ている。

その方が楽だからである。

でも、ときどきは、もう一つの目を開いてみてもいい。

「今、これを別の前提から見たらどうなるだろう」

「自分が当然だと思っている土台は、本当に当然なのだろうか」

そう問いながら、二つの見方の間に生まれた視差を眺めてみる。

心地よい作業ではない。

それでも、その視差の中には、自分一人では見つけられなかった景色がある。

あの夜、私が驚いたのは、AIに見抜かれたからではなかった。

一つしかなかった視点に、もう一つの視点が加わった。

ただ、それだけのことだった。

ChatGPTが増やしてくれたのは、答えではない。

世界を見るための、もう一つの目だった。


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