【駐在員の本音】アメリカに慣れたと気づいたのは、赤信号の交差点だった
第110話
仕事帰り、いつもの交差点で赤信号に止まった。
左から車が来ていないことを確認する。
歩行者もいない。
右折禁止の標識もない。
そのまま右に曲がった。
特に何かがあったわけではない。
クラクションを鳴らされたわけでも、危ない場面があったわけでもない。
ただ、少し走ったところで、ふと思った。
今、何も迷わなかったな。
赴任したばかりの頃なら、赤信号で右に曲がるだけでも、もっと緊張していた。
最初は、後ろに車が来るだけで焦った
アメリカでは、右折禁止の標識がなければ、赤信号でも安全を確認して右折できる。
赴任前から、そのルールは知っていた。
でも、知っているのと、実際に運転するのとでは全然違った。
赤信号で止まる。
右に曲がっていいはずなのに、なぜか自信がない。
本当に今、進んでいいのか。
標識を見落としていないか。
歩行者はいないか。
左から来る車との距離は十分か。
一つずつ確認しているうちに、後ろに車が止まる。
すると、急に落ち着かなくなる。
早く行けと思われているような気がする。
もちろん、後ろの運転手が何を考えているかなんて分からない。
それでも、バックミラーに車が映っているだけで、勝手に急かされているように感じた。
焦って曲がるのも怖い。
そのまま止まっているのも気まずい。
結局、信号が青になるまで待ったことも何度かあった。
今振り返ると、ずいぶん慎重だったと思う。
でも、当時はそれなりに必死だった。
知らない道で事故を起こしたくなかったし、警察に止められるのも怖かった。
もし何かあっても、英語で状況をきちんと説明できる自信はなかった。
赤信号で右に曲がる。
たったそれだけのことに、いろいろな不安がくっついていた。
同じ道を、何度も走った
通勤や買い物で、同じ道を何度も走った。
最初の頃は、交差点に近づくたびに標識を探していた。
信号を見る。
左から来る車を見る。
歩行者を見る。
右折禁止ではないか確認する。
頭の中で順番を追うように運転していた。
それが、少しずつ変わっていった。
特別な練習をしたわけではない。
運転が急にうまくなった実感もなかった。
ただ毎日、同じように車に乗り、同じような交差点を通った。
気づけば、一つずつ頭の中で確認しなくても、自然に見られるようになっていた。
とはいえ、「今日から慣れた」と感じた日はない。
昨日まで怖かったのに、ある日突然、平気になったわけでもない。
迷う日もあったし、初めて通る交差点では、今でも少し構える。
それでも、同じことを繰り返しているうちに、以前ほど考え込まなくなっていた。
慣れるときは、たぶんそんなものなのだと思う。
生活に慣れた実感は、いつも後から来た
アメリカに来たばかりの頃は、生活の一つひとつに少し力が必要だった。
初めて一人でガソリンを入れたときもそうだった。
カードを入れる順番は合っているか。
ZIPコードには何を入れるのか。
給油が終わったら、ノズルを戻すだけでいいのか。
後ろに人が待っていると、それだけで少し焦った。
スーパーのセルフレジでも、画面に見慣れない表示が出るたびに手が止まった。
店員に「How’s it going?」と声をかけられたときも、最初はどう返せばいいのか考えていた。
本当に近況を聞かれているのか。
それとも、ただの挨拶なのか。
今では、そこまで考えない。
普通に給油するし、セルフレジも使う。
店員に声をかけられれば、短く返す。
別に、英語が急にうまくなったわけではない。
今でも聞き取れないことはあるし、知らない単語も多い。
それでも、以前なら少し身構えていた場面で、今は自然に動けるようになった。
不思議なのは、そういう変化には、自分ではなかなか気づかないことだった。
目の前のことをこなしている間は、ただ必死だった。
しばらくしてから、
そういえば、最近はもう迷っていないな。
と気づく。
生活に慣れた実感は、いつも少し遅れてやってきた。
今でも、分からないことは多い
もちろん、アメリカの生活に完全に慣れたとは思っていない。
初めて行く場所では、今でも駐車場の入口が分からないことがある。
店員の英語が速ければ、聞き返す。
運転中に見慣れない標識が出てくると、一瞬迷う。
工事中の交差点や交通量の多い道路では、今でも緊張する。
何でも分かるようになったわけではない。
ただ、赴任したばかりの頃に比べると、立ち止まる場面は確実に減った。
以前なら少し疲れていたことを、今は何も考えずに済ませている。
そのことに気づかせてくれたのが、あの赤信号だった。
海外生活に慣れるというと、英語が話せるようになるとか、現地の文化を理解するとか、もう少し大きな変化を想像していた。
でも、実際はそんなに分かりやすいものではなかった。
赤信号で右に曲がる。
ガソリンを入れる。
店員の挨拶に短く返す。
以前は少し緊張していたことが、いつの間にか日常になっている。
ここで暮らすというのは、そういう小さな変化が積み重なっていくことなのかもしれない。
この右折も、いつかしなくなる
日本に帰れば、赤信号で右に曲がることはなくなる。
今では何でもないこの動作も、少し先にはしなくなる。
そう考えると、少し不思議な気持ちになった。
赴任した頃は、怖かった。
右に曲がっていいと分かっていても、後ろの車を気にしながら、何度も確認していた。
それが今では、ほとんど意識せずに曲がっている。
慣れるまでに時間がかかったことほど、慣れてしまうと何も感じなくなる。
そして、何も感じなくなった頃に、その生活が終わろうとしている。
アメリカが、自分の国になったとは思わない。
今でも、日本の方が落ち着くことは多い。
それでも、ここで何年か暮らしたことで、体に残ったものはある。
運転の仕方もそうだし、人との距離の取り方もそうだと思う。
自分では気づかないうちに、少しずつ変わっていた。
次の交差点でも、赤信号に止まった。
左から来る車を見る。
歩行者を確認する。
右折禁止の標識がないことを見る。
そして、そのまま右に曲がった。
明日もたぶん、同じように曲がる。
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