短編小説『神頼み【完全版】〜66歳の生き直し〜』
【あらすじ】
仕事を完全リタイアし、健康不安を抱えながら九州北部で余生を送る66歳の木村浩は、日課となっているウォーキングの途中、畑で大根を盗んだことでイノシシの姿に変えられ、奈良時代へとタイムトラベルしてしまう。それは、異星人が作り出した「神の端末」とその管理人が計画したものであり、木村の「生き直しプロジェクト」の一環だった。自らの血のルーツである高祖父(祖父の祖父)、初恋の女性、数十年前に保護した子猫との「再会」を果たすことで、木村は時空を超えた大きな繋がりを実感する。やがて「神の端末」は撤退し記憶は失われるが、心身に活力を取り戻した木村は、これからの人生に向かって力強い一歩を踏み出すのだった。
【おことわり】
『神頼み①』『神頼み②』『神頼み③』として公開しているものを【完全版】としてまとめました。全部で2万字を超えますが、お読みいただければ幸いです。
1. 日課
木村浩は66歳になった。去年3月に仕事を完全リタイアしてからは年金暮らしだ。
朝は10時頃まで寝ている。一日三食だと体重が増えるので、朝昼兼用で11時過ぎに食事をとる。妻と二人で軽自動車に乗り、コスパの良い近場の店をいくつか、日替わりで回って外食している。
唯一の日課はウォーキングだ。血圧を下げる薬を毎日服用し、健康維持のために自宅周辺を1時間ほど歩いている。
男が住んでいるのは、九州北部の新興住宅地。周囲には田畑や山林が多い。ウォーキングで向かうのはそういう場所だ。ほぼ毎日、一戸建ての自宅を出て、住宅地の外れにある道を上っていく。トレランシューズを履いていく。気分だけは、野山を駆けるトレイルランナーでいたい。
男はそこを「原野」と呼んでいたが、耕作されている畑もあれば、耕作が放棄されて草原のようになっている場所もある。それに雑木林も。
「原野」の入口は、道のアスファルト舗装がはげてしまって土が剥き出しになっている。いちばん低いところなので、以前は雨が降ると池のようになってしまい数日は歩いて通ることができなかったが、砂利を敷いたり高低差をつけたりといった整備を誰かがしてくれたらしく、今では水捌けが格段に良くなった。
そのまま田舎道を進むと、両側にソーラー発電所が姿を現す。これができたのはいつだったろう。10年以上前だったと思う。大きなエンジン音が朝から聞こえるので、裏の「原野」に面した部屋の窓から顔を出すと、ブルドーザーが走り回っている。かなりの面積の雑木林が切り開かれ、池も埋め立てられてしまった。
「台風でソーラーパネルがウチの方に飛んできたらどうしよう」と心配したこともあったが、その頃はまだウォーキングで「原野」に足を踏み入れることがなかったので、すぐに関心を失い忘れてしまった。
ソーラーパネルの下の地面には、雑草が生えるのを防ぐために分厚いシートが敷かれている。しかし、草木はシートを突き破ってあちこちで顔を出していた。「本発電所はケーブル幹線にアルミケーブルを採用しました。買取価格は銅の20分の1です」と書かれた看板は、銅線目当ての盗難防止のためだ。
男はこの道はあまり好みではなかった。ソーラー発電所の手前で右に曲がることが多い。そこからはさらに狭い舗装されていない道が始まる。晴れの日が続いている時は、泥濘みがなく快適に通れる。そういえば、ここでシカを見かけたことがあった。夏の夕暮れでかなり暗かったが、男を認めるとあっという間に姿を消した。警戒心が強い。
しばらく歩くと急な傾斜の下りがあり、左手に梅林が見える。二月になると梅の花の濃厚な香りが匂って春を知らせてくれる。あまり風流を解さない男もここは好きらしい。
今度は右手に竹林が姿を現す。風が強い日は竹同士がぶつかって、カツ〜ン、カツ〜ンと大きな音を出すことがある。何年か前の大風で倒れてしまっている竹が多いが、手つかずだ。ここではイタチを目撃したことがある。
さらに降りていくと急に視界が開け、幾重にも連なる田んぼが広がる。農作業のクルマが通るので道路は舗装されているが、補修は長い間なされておらず路面は荒れていた。ここはアナグマが棲んでいて時々姿を現わす。シカと違って人間をあまり怖がらない。いや、単に動きが鈍いだけなのかもしれない。
両側に田んぼを見ながら歩く。昼間だと言うのに物音ひとつなく、人の姿もない。死んだ後の世界のように静まり返っていた。このあたりの水田は、いつ頃開かれたのだろう。何百年もの年月がたっているのかもしれない。土着して代々農業を営んできた住民は、どんな生活をしてきたのだろう。
冬は寒い。九州とはいえ日本海側なので、どんよりとした曇り空になることが多い。いちばん嫌なのは、北からの強風だった。南国出身の男はもう何十年も住んでいるのに、この土地の冬の寒さに慣れることができなかった。長いこと帰っていない故郷は冬も暖かく穏やかで、青空が優しく広がっていた。両親はすでにいない。
自宅を出て2キロほど歩くと大きな国道に出る。九州を南北に縦貫する幹線道路で、交通量は昼夜を問わず多い。大型のショッピングモールがあり、男はウォーキングの途中でトイレ休憩や買い物で立ち寄ることもあった。先ほどの見渡すかぎりの圃場は、国道と数百メートルしか離れていないのに異世界のようだ。
整備された幅の広い歩道を行くと、住宅地の入り口に出る。そこから山へ向かって1キロほど歩くと、わが家に帰り着く。これが男のいつものコースだった。
今日は持病の逆流性食道炎の症状は出なかった。男は長い間、胃の不調に悩まされていた。あまりの痛みに胃潰瘍ではないかと、いくつかの消化器系クリニックで胃カメラ検査をしてもらったがはっきりした病名がつかず、「胃潰瘍ではないな」とか「胃炎でしょうかね」といった曖昧な診断が続いた。それがようやく1年半ほど前に訪れた何軒目かの病院で、「逆流性食道炎」という診断が下ったのだった。
以前は、歩き出すと喉や胸の痛みが起こり、ひどい時はその場に立ち止まってしまうほどだったが、3年近い禁酒の効果か、このところ落ち着いていた。食後に胃酸が喉元まで上がってくる呑酸も最近は起こらなくなった。
動脈硬化と逆流性食道炎がここ数年、男を悩ませてきた。体がどんどん壊れていくような気がして、「あまり長くは生きられないかもしれない」と落ち込むこともあった。
2. 兵役
翌日の午後、男はいつものようにソーラー発電所の手前で右に曲がり狭い土の道に入ったところで、監視カメラが設置されているのに気づいた。2メートルほどの高さだろうか。カメラは1台ではなく、数台が20〜30メートルおきに建てられた金属製のポールの先端にそれぞれ取り付けられていた。
ポールは、組み合わされた太いパイプで地面に固定されている。カメラはソーラー充電式のような外観をしているが、ダミーなのか本物なのかわからない。レンズが生き物のようにジッとこちらを見ている。あたりには誰もいないが、それがかえって威圧的だった。
カメラとカメラの間には、道と雑木林の間を遮断するように黒と黄色のまだらのロープが張られ、こちらの気持ちを不安にさせる。
(なんだろう?そうか、ゴミの不法投棄を監視するためか)
男はそうに違いないと勝手に納得してしまった。
たしかに、クルマで乗りつけて雑木林にゴミを捨てていく不心得者は多いようだった。実際、家電製品やタイヤなどが道端に棄てられていた。放置された大型ゴミというのは無惨だ。山の中に捨てられて朽ちてはいくが、風景に馴染むことはない。
(自分も「粗大ゴミ」になってしまったのかな)
男は自虐的になった。
実は、そのロープは雑木林に結界を作るためであり、カメラは雑木林に入り込もうとする者を追い払うためであった。そこには古くからの住民が崇めてきた氏神が祀られていたのである。
「神社」という形に整えられてはいなかったが、男にもう少し観察眼があれば、雑木林の奥に大きな石が鎮座していることに気づいただろう。
もうひとつ、男には前から気になっていたことがあった。雑木林近くの畑で栽培されている農作物がいっこうに収穫されず、腐るに任せていたことだった。収穫の人手が足りずに自分のところで食べる分だけ農家が持っていっているんだろうと、これまた男は勝手に納得していた。
「それにしてもブロッコリーなんて、『栄養の宝石箱』と呼ばれて体にもいいし人気の野菜なのにもったいない」と、年金生活の男は心から思うのだった。
それから何日かたってウォーキングに出発する直前、妻から「どこかで大根買ってきて」と頼まれた。夕食はアジかサバらしい。妻には大根おろしがないと焼魚を食べないというこだわりがあった。
年金暮らしになってから、自分に対する妻の態度が横柄になっているのがわかる。「どうせ夫は一日中、ウチでゴロゴロしているんだから」と人使いも荒い。
男はウォーキングの途中でショッピングモールに立ち寄ればいいだろうと、「原野」に向かって歩き始めた。すでに陽が傾いていて、あっという間に暗くなってきた。古来より昼と夜の境目が曖昧になる時間帯を「逢魔が時」と呼び、魑魅魍魎が出没すると信じられてきた。
たしかに「原野」には街灯などなく、夜は真っ暗になる。男は持ってきたフラッシュライトを点けた。速歩になっている。
今日もまたソーラー発電所の手前で右に曲がった。畑の方を見ると、美味しそうな丸々とした大根が植っている。数十本いや数百本はあるだろう。闇の中でも、その白白とした肌が視認できる。
男は出来心を起こした。
(どうせ、また腐るに任せてるんだろう。一本くらい持っていっても構わないんじゃないか)
一本くらいと考えたが甘かった。畑からニョッキリ生えた大根を抜くのは大仕事だったのだ。葉の根元を握って引いたが、ビクともしない。
加齢によって体力が落ちてしまっているようで、そのことに男は愕然とした。早くしないと誰かに見られるのではと心拍数は上がるし、手は土で汚れるし、散々だった。
そして引き抜いた反動でその場にへたりこみ、ハァハァと息を荒げていたその時、何かが背後にいる気配がした。ゆっくり振り返ると、それは白い体毛に覆われた巨大な生物だった。闇の中にはっきり見えた。男の身長の倍はある。
強いていえばシロクマのような体だったが、その生きものがこちらを向いた時、男は叫んだ。人間の顔だったからだ。その生きものは「窃盗罪だが、今回は特別に兵役に就くことで懲役刑を免除する」と言った。
3. 変身
血圧が急上昇し、男は頭がボーッとなった。そして次の瞬間、体中に経験したことのない激しい痛みがわき起こった。心筋梗塞ではないかと一瞬思った。
骨が折れるような、バキバキという音が聞こえ始める。首が消失し、頭が胴体にめり込んでくる。背骨が軋み、鼻が引っ張られるように前へ前へと伸びていき、口からは牙がニョッキリと生えてくる。腕と脚が縮み、手と足の指の爪が巨大化し、蹄に変わる。そして全身の筋肉が、内側から塊のように盛り上がってきた。
すでに服と靴は破れ、小さなボロ切れになって地面に散らばっている。最後に、皮膚という皮膚から針のような硬い毛がシュルシュルと跳び出してきた。
痛みが消えて正気に戻ると、目の高さが低い。それに見え方がいつもと違う。四つん這いになっているような。それに、声が「ブヒ、ブヒ」と言っているような。
男はイノシシの姿にされてしまったのだった。盗んだ大根は、神様への供物だった。人間が手を触れてはならなかったのだ。男の行為は犯罪だった。
だが、落ち込んでいるヒマはなかった。兵役に就かなければならない。目の前に2頭の立派な体格のイノシシがいるのに気づいた。そのうちの「一人」が木村に言った。
「早くしろ。我々は、今から足立山に向かう。将監殿をお助けせねばならない」
「えっ、それ誰のこと?」
イノシシの身体になっているので、傍目には「ブゥ、ブゥ」と言い合っているようにしか聞こえないだろうが、会話は成立している。
「近衛将監の和気清麻呂様だ。悪僧にお命を狙われておる。大宰府は敵方だ。当てにならん。何としても我らがお守りせねばならない。お前もこれからは我らの一員だ。よく理解しておけ」
「えっ、じゃあ、あなたたちは奈良時代から来たというのか?」
「いいか、木村。もう、ここはお前が生きていた世ではない。しっかりしろ」
そういえば、先ほどまでいた畑は消え失せている。ソーラー発電所などどこにもない。そこは鬱蒼とした原生林の中だった。木村は姿を変えられただけでなく、タイムトラベルさせられたのだった。
歴史好きの木村は、その事件についてはよく知っていた。「宇佐八幡宮神託事件」だ。
今から1,200年以上前。奈良時代の西暦769年。元号でいえば神護景雲3年。女帝である称徳天皇の寵愛を受け、「法王」の位を極めた仏僧の道鏡が、自ら天皇になろうとし、豊後国(現在の大分県)の宇佐八幡宮の神のお告げを利用しようとした。
真偽を確かめるべく、都から遣わされた和気清麻呂は、「わが国は開闢よりこのかた、君臣の分は定まり、臣をもって君とすることはありえない。天つ日嗣には必ず皇緒をたてよ。無道の人はすみやかに除け」という神託を持ち帰り、野望を阻止した。
現代語訳すると「わが国は、始まって以来ずっと、天皇と臣下の区別がはっきり決まっている。 臣下が天皇になるということは、あってはならない。天皇を継ぐ者には、必ず天皇の血を引く者を立てなさい。 道に外れた野心を持つ者(道鏡)は、速やかに排除しなさい」となる。
まさに、皇統の危機だったのだ。
しかし激怒した道鏡によって、清麻呂は「別部穢麻呂」という屈辱的な名前に変えられ、大隅国(現在の鹿児島県)に流されることになった。
道鏡は途中で清麻呂を暗殺することで反対派に自らの権力を誇示しようと、刺客を放ったという噂があった。木村が動員されたのはそのためだった。
4. 足立山
「走れ、走れ、息絶えるまで走るのだ!」
「ブヒー、ブヒー」と叫ぶリーダー格の命令で、必死に駆けた。ここから、清麻呂一行と合流する予定の足立山(現在の北九州市小倉北区)まで数十キロはある。犬鳴山系を右手に見ながら、玄界灘に沿って山々を北へ縦断しなければならない。
木村は四肢を駆使して山中を走った。もうトレランシューズは必要ない。
イノシシの「人生」も悪くない。悩まされてきた体調の悪さは消えていた。全身に力が漲り、蹄を使って恐ろしいほどの速さで駆ける自分が信じられない。目線が低いので、レーシングカーを操縦している気分だ。生い茂った草むらを走り抜けるのはスリルがあった。
木村は、体調不良になる前に熱中していたロードバイクを思い出していた。かつては峠に出かけて一日中、自転車で走っていた。上りはきつかったが、下りはクルマと同じくらいのスピードで滑走することができた。オートバイのようなエンジンはついていないから、自転車と一体となって風を切っていく音しか聞こえない。
イノシシになった今、自分はその時間を再び味わえている。これは何十年も働いてきたことへのご褒美ではないかと思った。何物にも代え難い快感だった。
獣の群れは次々と合流し、瞬く間に数十頭に膨れあがる。凄まじい迫力だ。
イノシシになって視力は落ちたが、嗅覚の鋭さには驚くばかりだった。あまりに多くの匂いが殺到するので、最初は頭が混乱した。地下数十センチに埋まっている好物の植物の根や地中に潜む虫の位置がわかるのだ。
途中、遠賀川を超えた。現在よりも川幅が広く、しかも周辺は湿地帯だ。だが木村たちは易々と泳ぎ、あっという間に渡り終えた。
清麻呂の一行は窮地に陥っていた。刺客が放たれたという噂は本当だった。途中何者かの襲撃を受け、清麻呂自身も太刀を振るって応戦したが負傷。それ以上逃げることは困難な状況にあった。
その時、数千頭のイノシシが出現したのだった。伝承では300頭となっているが、木村の目撃したところでは十倍以上は集まっているように思われた。
咆哮する声、蹄の轟き、立ちのぼる土埃、充満する獣の匂い。山全体がイノシシで埋まり、地響きが止まらなかった。これでは刺客が再び近寄ることは不可能だろう。
輿に乗せられた「将監殿」は厳重に護衛され、傷の治療に効果があるという足立山の霊泉まで運ばれていった。その後、清麻呂は九州各地のイノシシたちのリレー警護で無事、大隅国に到着した。
翌年の称徳天皇の崩御によって道鏡は失脚する。そして清麻呂は、平安京に遷都したことでその名を知られる桓武天皇の即位後に中央政界に復帰することになる。
木村の兵役はここで終わった。
「えっ?」
周囲のイノシシたちが次々と人間の姿に戻っていく。彼らは在地の豪族たちだったのだ。背は高くないが、皆ガッチリとした体格。長い髪を後ろで結び、日焼けした顔に笑みを浮かべている。
古代の人間は、場合によっては獣に化身して戦ったのだ。そして木村も、祖先からその能力を代々受け継いできたがゆえに動員されたのだった。
リーダー格の男性が木村に近寄る。かなり高齢に見えるが足取りは達者だ。
「木村よ、このたびは苦労をかけた。これで少しは良き世になるだろう」
男性は、海の方向を見つめながら続けた。
「我々はこの地で生きていく。お前も自分の世で生きよ。ただし、兵役の定年は70歳だ。いつまたお召しがあるかわからんぞ。その日に備えて心身を鍛えておけ」
5. 待機
木村は、イノシシに変身したあの日あの時刻に召還された。「原野」の闇の中に人間の姿で立っている。
今回は神様は顕現しなかったし、あの激しい体の痛みもなかった。ビリビリに破れたはずの服もちゃんと着ているし、靴もトレランシューズだ。右手にはフラッシュライトを握っている。
久しぶりの二足歩行。視線が高すぎて、誰かに肩車されているみたいで怖い。体毛がないので寒い。ふらふらした足取りで自宅にたどりつき、ウェストバッグに入っているスペアキーで玄関のドアを開けた。
夫の姿を認めた妻は「早かったわね」とだけ言う。足立山のことは畑で気を失った時の幻想だったのかもしれないと疑ったが、長年飼ってきたオス猫が尻尾を膨らませてフーッと威嚇してきたのを見て、やはり本当だったのだと思い直した。
その時、ジャケットのポケットに大根が4分の1ほど入っているのに気づいた。これは軍務に対する給与ということなのだろうか。4分の1というのは、大根おろしにはそれでじゅうぶんということなのか。それともポケットに入る大きさにカットしてくれたのか。神様は人間界の下情に通じているようだった。
「お下がり」の大根おろしは美味だった。これはまさに、神様への供物をあとから人間がいただく「直会」だと納得した。
それから毎日、木村はトレランシューズを履いて自宅を出ていく。
体調は良くはない。66歳の人間の体に戻ったのだから当然とはいえ、ちょっと悲しかった。ただ今までと違ったのは、雑木林の奥に鎮座する大きな石に向かって拝礼するようになったことだった。
「今日はランニングをしようかな。まだ現役だからな」
木村はうれしそうにつぶやく。
もう「健康維持のため」ではない。いつお召しがあってもいいように、本格的なトレーニングを積んでおかなければならない。
(歴史のひとこまを目撃するなんて、すごい経験だった。でもこのあたりに住んでいた豪族たちは、都と対立していたのかな。中央の出先機関である大宰府への不信感がすごかったよな。それに、古来の神々への信仰と新来の仏教との対立もあったようだし。そう考えると、道鏡が一方的に悪かったわけじゃなかったのかも。まあいい、今度またあちらに行けた時に見てこよう)
木村は、住宅地の外れにある道を勢いよく駆け上がっていった。
6. 神域へ
「原野」は台地になっていて、景色といえば空しか見えない。ここに来ると人間界から解き放たれたようで、いつも晴れ晴れとした気分になる。
しかしまだまだ寒い。防寒用のヘッドキャップとネックウォーマーは必須だ。ウェストバッグにはスマホとコインケースを入れ、足元はトレランシューズで固める。
木村が世にも不思議な体験をしたのは、ひと月ほど前。神様への供物である大根を盗んだ罪でイノシシに変身させられ、奈良時代にタイムトラベルしたのだった。人間の姿に戻り無事に帰宅できたから妻にはバレなかったが、今でもあれは現実だったのかと半信半疑だ。
しかし木村には他にすることがない。今日も「原野」を歩いている。
かつての趣味だったロードバイクに再び乗れるような体力はもうない。時々ウォーキングにランニングをまぜてみるが、心拍が120を超えると息が切れる。かつては自転車で峠を登り、180近くまで上がっても平気だったのに。おまけに、逆流性食道炎のせいで喉や胸まで痛くなることがある。
(ああ、イヤだ、イヤだ。じいさんになっちゃった。もう戻れないんだろうな、あの頃には)
いつものようにソーラー発電所の手前で右に曲がると、数台の監視カメラがズラリと並んでいる。そして草の生えた土の道と雑木林の間を遮断するかのように、黒と黄色のまだらのロープが張られているのだ。
それが雑木林に結界を作るためだということは、「世にも不思議な体験」によって理解することができた。しかし、その奥にある御神体の石というものをまだ見たことがない。通りかかるたびに、見えないまま遠くから恐る恐る拝礼しているだけだ。
今日の木村はその石を無性に見たくなった。祟りが怖いという気持ちはどこかに飛んでしまい、ズンズン入っていく。冬で比較的見通しがいいとはいえ、木々は生い茂っている。こんなに広かったのかと思うほど歩いた。
(あっ)
何もない、土が剥き出しの、広場のような平坦な場所に出た。昨夜はかなり雨が降ったのに地面は乾いている。
森林の中に、ポッカリと開いた空間。
どこかで見た記憶がある。そうだ、宗像大社の「高宮祭場」だ。
木村の自宅から十数キロ北方に、その古社はある。祭神は天照大御神の三女神で、本土にある辺津宮、大島にある中津宮、そして沖ノ島にある沖津宮に、それぞれ祀られている。本土から数十キロ離れた玄界灘にある沖津宮には、神職以外は立ち入ることができない。
高宮祭場は本土の辺津宮にあり、社殿のない古代の様式だといわれている。一回だけだが、木村は妻に誘われて行ったことがあった。縄文の時代にでも戻ったような不思議な気持ちになったことを覚えている。
7. 八尋さん
その石は、広場の真ん中にあった。高さは大人の背丈ほどある。形は何の変哲もない自然石に見える。重さはどれくらいだろう。10トンはあるんじゃないか。地面に置かれたようにそこにあるが、まさか誰かが持ってきたのではあるまい。
木村は鉱物には無知で、これがどういう組成なのかよくわからない。
観察しながらゆっくりと石に近づいた。鳥のさえずりも聞こえない寂とした空気の中で、そこだけキラキラと陽の光があたっている。石に手を置いてみる。冷たいが、もちろん何も起きない。
「木村さん」
「えっ?」
背後からいきなり名前を呼ばれて、男は心臓が止まるかと思うほど驚かされた。
「ああ〜っ」
振り返るとそこには、あの「シロクマ」がいた。後ろ足で立っている。ひと月前に「原野」で出会った神様。白い体毛に覆われた巨大な体をもっているが、顔は人間。思わず手を合わせてしまった。
「木村さん、その石に手を置いて私のことを考えていたでしょう?何か用かなと思って出てきたんですよ。どうかしました?」
前回目撃した時は一瞬だったのでよくわからなかったが、顔はごく普通の人間だし、話し方も気さくだ。木村は少し落ち着いてきた。
「神様・・・なんですよね?」
上目遣いで探るように、木村は質ねた。少し腰がひけている。
「あはは、いえいえ、私は神様なんかじゃないですよ」
「シロクマ」は、長い爪が生えた前足を顔の前で左右に振った。
「私、今はこんな姿をしていますが、人間です。『八尋』といいます。よろしくお願いします」
「二人」は固い地面にあぐらをかいて座った。「こういう絵ってシュールだな」と木村は思った。そういえば、ウルトラセブンが卓袱台を挟んでメトロン星人と語り合うシーンを、子どもの頃に見たな。あの時、ウチのテレビはカラーじゃなくて白黒だったけど。
木村の夢想をよそに八尋の話は続いている。
「それは、普通の石じゃないんですよ。私たちは『神の端末』って呼んでます。前任者から教えてもらったんですけどね。手を置いて念ずれば、そのとおりになるんです」
木村は食い入るように聞いた。
「実は私、古いタイヤを4本ここに不法投棄しましてね。見つからないように夕方暗くなってから」
その時はもちろん、八尋は人間の姿だった。タイヤの処分には1本につき千円程度の費用がかかる。その金を惜しんだのがいけなかった。捨てた直後、背後に「シロクマ」が立っていたのだという。それが八尋の前任者だった。
「そいつは私より若いやつでしたけど、喜びましてね。『これで人間に戻れる』って」
「鬼ごっこみたいだ」と木村は思ったが、機嫌を損ねてはいけないと口には出さなかった。自分が次の鬼にされてはたまらない。
「この『シロクマ』みたいな体は着ぐるみになってるんですけど、どうやっても自分じゃ脱げないです。『刑期』が終わるまで、まじめにお勤めするしかありません。私の仕事は『管理人』みたいなもんです。まあ、期限付き雇用の非正社員です。人間の時もそうだったけど」
八尋は恥ずかしそうに体をすくめた。
「木村さんは正社員ですよ」
「正社員?」
そういえば、奈良時代の豪族から「定年は70歳だ。心身を鍛えておけ」と言われたのだった。だとすれば、この石が自分の上司か。定年まで付き合わないといけないのか。
「ねえ、木村さん。少し遊んでいきませんか。さっきも言いましたけど、この石に手を置いてお祈りすれば、どこにでも行けるんですよ。この間、木村さんが奈良時代にタイムトラベルした時は私が操作したんですから」
本物の神様から罰を食らうんじゃないかと心配したが、こちらの心を読んでいるように八尋が言った。
「だいじょうぶですよ。神様なんてこんなところに来やしません。私自身会ったことありませんし。前任者が言ってましたけど、神様じゃなくて異星人かもしれないって」
「おいおい、それじゃあ、映画『2001年宇宙の旅』のモノリスじゃないか」とまた夢想した。
木村はその気になった。奈良時代に行った時のような刺激が、また欲しくなったのかもしれない。「管理人」がそう言ってくれるんだから、だいじょうぶだろう。立ち上がって石の前まで行き、そっと手を置いた。
「木村さん、ひとつだけ注意してください。歴史を絶対に変えないでくださいよ」
この時ばかりは八尋は真剣な表情だったが、木村の姿はもう消えてしまっていた。
8. 八代へ
木村が向かったのは、明治10年(1877年)。場所は、現在の熊本県八代市。目的は、祖父の祖父、つまり高祖父を探すことだった。
木村は鹿児島の出身だった。大学入学を機に福岡に転居しそのまま就職したから、50年近く九州北部で暮らしたことになる。両親は物故したので、郷里に里帰りすることも無くなった。
木村の高祖父は、西南戦争に薩軍側で従軍し戦死している。そのことは、父の弟つまり叔父から聞いた。父も祖父も、木村にこの話をしてくれたことはなかった。
若い頃というのは漠然とした未来に楽観的な目が行くばかりで、自分のルーツ探しなどには興味がないものだ。木村も、いちばん大事な高祖父の名前を叔父に聞きそびれた。
歴史好きの木村は司馬遼太郎を愛読している。西南戦争を題材にした『翔ぶが如く』は何度も読み返した。しかしその中に、自分の先祖が戦死する情景が描かれているとは夢にも思わなかった。
叔父からは、高祖父が熊本県の球磨川で死んだということは教えてもらっていた。司馬のこの作品の中に「萩原堤」という章がある。高祖父が亡くなったのはここに違いない。
高祖父の息子、つまり木村にとっての曾祖父は、子どもの頃に父親を亡くし大変な苦労をしたらしい。妻子のいた高祖父が、自発的に出征したとは考えにくい。戦況の悪かった薩軍によって強制的に連れていかれたのだろう。さぞ無念だったろうという思いが、望郷の念とともに木村の胸を締めつけるのだった。
西南戦争は、明治の初めに日本全土で発生した士族の反乱の中では最大のものだった。いや「反乱」というよりも「内戦」と呼ぶべきかもしれない。
「明治維新」という革命的な権力移譲を成し遂げた新政府は、欧米からの文明移入を大急ぎでやらなければならなかった。「攘夷」のための「開国」であったが、当時の人々にとってはそれは「洪水」といってもいい大変化だった。「溺れる」者が続出した。不労階級であった武士とその家族の大半は見捨てられ、新政府への不満が全国に広がった。
皮肉にも、維新の中核的な勢力であった鹿児島が最大の火薬庫となった。そして明治10年2月、西郷隆盛を担ぎ上げた薩軍が熊本に向けて進発。これによって、薩軍と官軍との間で日本国そのものを揺るがす戦いが始まったのである。
木村は八代に降り立った。日本三大急流のひとつとして知られ、人吉盆地を抜けて八代海に注ぐ球磨川のほとりだ。しかしこのあたりになると、川の流れは驚くほど緩やかになっている。
堤の上から見渡すと、一面が菜の花の暖かな黄色に染まっていた。春の光に誘われて虫たちが飛び交っている。寒くもなく暑くもない。こんな日和が、年に何日あるだろう。まことに長閑だった。
冬に始まった戦いは4月に入っている。薩軍は補給が十分でなく、衣服はあちこち破れ、頭も蓬髪で、ホームレスの集団のように見える。戦況は先が見通せなくなっている。
高祖父に会うために、薩軍の陣営を訪ねてみることにした。
「すんもはん、鹿児島から来もした。木村どんはおじゃいもすか?(すみません、鹿児島から来ました。木村さんはおられますか?)」
薩軍の陣地だからといって「丸に十の字」の島津家の家紋が掲げられているわけではなかった。兵たちが着ているものも手にしている武具も雑多だったから、ウォーキング姿の木村もそれほど怪しまれなかった。縁故の者がはるばる訪ねてきたと思われたのだろう。鹿児島弁を精一杯使っている。
「木村の、だいな?(木村の、誰?)」
若い門衛は普通に応対してくれた。
「下の名前は聞いちょいもはんどん。谷山の木村ち、いえばわかっち(下の名前は聞いておりませんが。谷山の木村といえばわかると)」
「ああ、谷山の木村な。ここにはおいもはん。本営に使いにいっちょ(ああ、谷山の木村ね。ここにはいません。本営に使いにいっています)」
本営がどこなのかは秘密で、教えてもらえなかった。首領の西郷暗殺を警戒しているのだろう。この日はけっきょく会えなかった。しかし、会えたらどうするのか。「あなたの孫の孫です。気をつけてください」と言ったら、いきなり斬られるかもしれない。そもそも高祖父がここで死ぬのは運命だ。黙って見ているしかないのかも。
数日経過したが進展はない。不思議なのは、飲み食いしていないのに木村の体に何の変調も起こらないことだった。おまけにまったく眠くない。もしかしたら、意識だけが明治10年に飛んできているのかもしれない。神様なのか異星人なのか知らないが、あの端末の原理など木村にわかるはずがない。
いよいよ戦闘が始まった。序盤は新たに徴募した兵が加わった薩軍が有利だった。しかし、八代を制圧する直前に官軍の新手が戦線に投入され、圧倒的な火力で攻撃する。戦局の長期化で、刀と旧型の小銃しか持っていない薩軍の劣勢は明らかだった。銃弾が飛び交い火薬の匂いが立ち込める中、人がバタバタと倒れていく。
鹿児島では示現流という地生えの剣法が有名だが、白刃を煌めかせて敵陣に斬り込むのは、さすがに白昼では難しい。
薩軍の兵たちの中には、官軍から追い立てられてやむなく球磨川にとびこみ、そのまま溺死する者も多かった。木村の高祖父もその中にいたかもしれない。
9. 帰還
「木村さん、そろそろ帰りましょうか」
球磨川の堤の上で茫然として戦況を見つめる木村の隣に、いつの間にか八尋が座っている。
「神の端末」を使った転送には、いくつかのモードがあるらしかった。「肉体も一緒に送る」「意識だけ送る」「変身させて送る」などなど。
けっきょく木村は今回、意識だけがリープしていたのだった。だから八尋は気軽に誘ったのだ。身に危険はない。薩軍の陣営で門衛とやり取りした時だけは、モードが切り替わっていた。
しかし八尋の方は、「シロクマ」の肉体を伴っていた。着ぐるみは無敵らしい。銃弾が直撃してもだいじょうぶなように設計されているのだ。
「バケモンじゃ、バケモンが出た〜」
両軍の兵たちが騒ぎ出した。「シロクマ」らしき動物が目撃された記録が、官軍側には残っているという。
西南戦争はこの年の9月に終結した。熊本以北に進むことができなかった薩軍は、宮崎経由で鹿児島に戻ってきた。城山に立て籠った西郷らは自決する。名実ともに武士の世が終わった。
一方、政府を牽引していた大久保利通は、西郷の死の翌年、東京・紀尾井坂で士族によって暗殺された。
大久保の盟友であった公家出身の岩倉具視は、数年後に病没。
維新回天の立役者であった三人が去り、権力は伊藤博文ら次世代に引き継がれた。
木村と八尋は、「神の端末」が鎮座するあの広場に帰ってきた。清涼な空気が気持ちをホッとさせる。出発した時刻から時間は進んでいない。
八尋は、誰が木村の高祖父か最初からわかっていたのだろう。しかし、「ほら、あの人が木村さんのおじいさんのおじいさんですよ。今から死にますよ」なんて言えるはずがない。
堤上で八尋が「そろそろ帰りましょうか」と声をかけてきたのは、高祖父が旅立ったのを確認したからだろう。
(球磨川の水は冷たかったろうな)
しょんぼりと地面に座り込んでいる木村に向かって八尋が言う。
「木村さん、『神の端末』で検索したらどうですか。すべてのデータが入ってますよ。木村さんの高祖父の名前や顔もわかりますよ」
「じゃあ何でわざわざ、あの時代に行ったの?」
八尋は愛想笑いをしながら答えた。
「社員旅行ですよぉ〜。福利厚生の一環です。木村さんは正社員ですから」
おちゃらけた返答に苦笑しながら、木村はキッパリと言った。
「検索はやめておくよ。今から知ったって仕方がない。それに『望郷の念』って、悲しいけど優しいんだよね。これからも思い続けるよ」
木村は立ち上がり、林の中を駆けていった。ウォーキングの続きが待っている。
(高祖父はラストサムライだった。そして、その血は自分にも流れている。おじいさん・・・のおじいさん、ありがとうございます。あなたの子孫はがんばって生きてます)
振り返ると、八尋が親指を立てていた。
10. 同窓会
木村は今日も歩いている。
だいぶ暑くなってきた。脱水にならないように、ウェストバッグに小銭を入れて自販機でこまめにミネラルウォーターを買っている。
「木村さん、いらっしゃ〜い」
八尋が石の前で待っていた。こちらに手を振っている。
ウォーキングの途中で寄り道しておしゃべりしていくのがルーティンになった。この空間で過ごした時間はリセットされるから、妻には気づかれない。自分だけの秘密を持つというのは楽しい。この歳になってこんなにワクワクするなんて思いもしなかった。
「あれっ、どうしたの?」
いつもの「シロクマ」の着ぐるみ姿ではない。アロハシャツにショートパンツ、素足にサンダルという、ラフな格好だ。
「えへへ、びっくりしました?クールビズですよ。もう夏ですからねぇ」
確かにそうだ。木村自身も足元はトレランシューズで固めているが、それ以外は八尋と大差ない格好で歩いている。帽子とサングラスは必需品だ。
「似合うね〜。っていうか、それもう、リゾートホテルでくつろいでいる普通のおじさんじゃないの」
見るからに涼しげで、八尋自身も気持ちよさそうにしている。
「神様もよくわかってくれてるじゃない。その格好のままウチに帰ってもいいのに」
「いえいえ、それはまずいですよ。罰が当たります。『刑期』が終わるまではここにいないと」
「『刑期』はいつまで?タイヤを不法投棄しただけなんだから、罰といっても軽いんじゃない?」
「うーん、そうですね」
そこだけ、なんだか歯切れが悪い。木村はいつものように地面にあぐらをかいて座った。ここは雨が降っても湿っていることがない。
「今度、中学の同窓会があるんだ。鹿児島でね」
木村はいつにもまして饒舌だ。機嫌がいい。
「そうですか。鹿児島出身ですものね。高校までいらっしゃったんでしたね」
「全部知ってるんだろう?その『神の端末』で検索してさ」
漫才の掛け合いのようだ。
「ははは、当たり〜」
八尋は40代だろうか。派遣社員として働き、独身で気ままな一人暮らしだったと本人は言っている。気安い性格で、人付き合いがそれほどうまくない木村もリラックスして話ができる相手だ。ここ数カ月でずいぶん仲良くなった。
最近気づいたのだが、八尋には福岡の訛りがない。どちらかといえば標準語だ。出身はどこなのだろう。木村は鹿児島出身で、福岡に来た当初は自分の話し方にコンプレックスがあったが、若かったからすぐ順応できた。
「恥ずかしいなぁ。これまでの人生をすべて晒されているなんて」
「だいじょうぶですよ。ここの『刑期』が終わったら、私の記憶は全部消去されますから」
同じように地面に座っている八尋がニヤニヤ笑いながら聞いてくる。
「木村さんは、初恋の人に今度の同窓会で会えるかもって期待してるでしょう?」
「うん、そうそう」
人間って、いくら年をとってもアイデンティティは変わらない。木村も気持ちだけはまだまだ若いのだ。本人は気づいていないが、頬に赤みがさしている。
初恋の相手である一美とは、実は30歳の時に一度、やはり中学の同窓会で会ったことがある。木村はまだ独身だったが、彼女はすでに結婚していた。
その時に連絡先を交換したら、後日、彼女から手紙が届いた。子どもの頃から結婚するまでのことが綴られていて、彼女も木村のことを意識していたことが文面からうかがわれた。そして、今度食事でもしませんかと書かれていた。その時彼女は、夫の仕事の関係で九州北部に住んでいた。会おうと思えば会える距離だったのだ。
しかし約束の前日に、「行けなくなった。ごめんね」と電話が入った。理由ははっきり教えてくれなかったが、夫から「やめろ」と言われたのかもしれない。それはそうだろう。妻が同窓会で再会した男と食事に行くなんて許せないと思うのがふつうだ。
一美とは、その時以来だから三十数年ぶりになる。
鹿児島へは一泊二日の旅程だ。同窓会が開かれるホテルの部屋を予約した。木村は、持病の逆流性食道炎のため、ここ数年禁酒を続けている。ビールくらいはいいだろうが、調子にのって飲みすぎないように気をつけなければならない。胃の痛みや胃酸が喉元まで上がってくる呑酸は、もうたくさんだ。
JRで行くことにした。高速道路をクルマでとも考えたが、片道300キロはある。体力に自信がないのでやめた。新幹線だと、博多駅から鹿児島中央駅まで1時間半ほどしかかからない。木村が子どもの頃は、在来線の鹿児島本線の特急で6時間以上かかったはずだ。
郷里は本当に変わった。九州新幹線の全線開通によって「西鹿児島駅」が「鹿児島中央駅」に改名し、大きな駅ビルもできた。昔ながらの繁華街である天文館より賑わっている。
新幹線効果は大きい。関西や北部九州からの人流がかなり増えた。食や温泉など、もともと観光資源は豊富な土地だ。
鹿児島の発展ぶりはもちろんうれしいが、さびしいところもある。木村は、生まれ育った慣れ親しんだ土地が消えてしまったような気持ちになっていた。
11. 初恋の女性
鹿児島から帰ってきた木村の様子がおかしい。まったく元気がない。妻が何かたずねても生返事だった。
中学の同窓会に一美は来なかった。何年か前に亡くなったと、同窓会に出席していた同じクラスの「女の子」から聞かされた。
世間の嫌なことや悲しいことを人並みに経験してきた木村でも、これはショックだった。ウォーキングもしばらく休んだ。
「八尋さんは心配してるだろうな。でも、このことも知ってるかも」
木村が外に出られるようになったのは、1週間ほどたってからだった。
「一美ちゃんに会いたい」
雑木林の中の空間で、木村が八尋に本心を打ち明ける。
「行ってみます?」
「うん、いいかな?」
「どうぞ、どうぞ」
立ち上がると、「神の端末」と呼ばれる石にそっと手を置いた。一美をイメージする。その瞬間、八尋の前から空中に吸い込まれるように木村が消えた。
昭和45年(1970年)、夏の鹿児島市。けっして不快ではない、この暑さがなつかしい。
錦江湾を挟んで対岸にある桜島が、盛んに噴煙を上げている。数十万人が居住する都市からほんの数キロしか離れていないところで、現役の火山が活動を続けているというのは世界的にも珍しいことだ。
木村が降り立った日も、この山は火山灰を降らせている。地元では灰を「へ」と呼ぶ。「あらよぉ〜、灰が降っきた(うわぁ〜、灰が降ってきたぁ)」と、あちこちで県民が叫んでいることだろう。洗濯物を外に干しづらいのが悩みだ。主要道路では、「市民の足」として利用されている路面電車が盛大に灰を巻き上げ、昼間でもヘッドライトを点灯しているクルマがある。
今日は「肉体も一緒に送る」転送モードなので、相手もこちらが見える。木村はウォーキング姿だ。56年前では浮いてしまうかもしれない。
一美の自宅近くの公園に来た。陽射しがまぶしくて、うるさいほどセミが鳴いている。町中の何の変哲もないところだ。彼女のウチは同じ校区だったが、木村の自宅から2キロ近く離れていた。子どもの感覚からすれば、かなり遠い。学校からの帰り道も反対方向なので、この公園を訪れるのは初めてかもしれない。
ちょうど小学校の下校時刻だった。
「あっ、あああ、一美ちゃんだ。10歳くらいかな」
鮮やかな青地に花が描かれたスカートに白いブラウス姿の小学生の女の子が、向こうから歩いてくる。
「やっぱり可愛い。だけど小さいな〜。小学生だから当たり前だけど」
公園を横切って一美がまっすぐ木村に近づいてくる。
「木村くんのおじいちゃんですか?」
「えっ」
「だって、そっくりだから」
(一美ちゃん、鋭いな。そういえば、この子は学校の成績もよかった。頭のいい子だったんだよな)
「いや、木村くんって子のおじいちゃんじゃないよ」
(おじいちゃんじゃなくて本人だよ)
「おじさんはね、今、福岡に住んでるんだけど、昔この近くの小学校に通ってたんだ。懐かしくてね」
(本当は一美ちゃんに会うために来たんだけど)
この頃は「知らない人と話しちゃダメ!」なんてことはなかった。いい時代だった。
「いいな〜、私も大人になったら福岡に住みたい」
「ええっ?ここがいいじゃない。おじさんは、いつも鹿児島のことを思い出すけどね〜」
「鹿児島は田舎だもん。日本の端っこだから」
不満げな表情は、もう大人のそれだった。一美は友だちを見つけたらしく、そちらの方向に走っていった。赤いランドセルが揺れる。
「鹿児島は田舎だもん」の話し方が鹿児島弁のイントネーションだったことに気づくと、木村の感情が激しく揺さぶられた。彼女はもうこの世にいない。
「一美ちゃん」
公園の真ん中に突っ立ってボロボロと涙をこぼす高齢の男性を、野球をやりにきた男の子がゴムボールと竹のバットを両手に持って不思議そうに眺めていた。
12. しばしの別れ
「お帰りなさ〜い」
石の前で八尋が出迎えてくれた。
「どうでした?」
興味津々という顔で聞いてくる。
「知ってるんだろう?ありがとう。よかったよ。一美ちゃんに会えたし。思い残すことはない」
「あはは、奥さんから叱られますよ」
「結婚とは別だよ。でも、孫くらいの年齢の女の子と二言三言交わしただけなのに、ドキドキしたよ。あれが恋だな。ハハハッ」
八尋は迷っていたが、口を開いた。
「一美さんのことですが。彼女が30歳の時に木村さんとの食事の約束をキャンセルしたのは、直前に妊娠がわかったからです。あの時は冬で、雪まじりの冷たい雨が毎日のように降っていました。彼女は、転んでお腹の赤ちゃんにもしものことがあってはと考えて、木村さんに断りの電話を入れたんです」
「えっ・・・そうか、そうだったんだ」
木村の疑念は三十数年の時を経て氷解した。
「ありがとう。教えてもらってよかった。そんなこと考えもしなかった。男はダメだな。やっぱり一美ちゃんは、聡明で愛情深い女性だったんだ」
ウンウンと合点するように頷きながら、木村は遠くを見るような表情をした。
「それから木村さん、お別れです。実はここは閉鎖されることになりました」
「えっ」
今日の木村は驚かされてばかりだ。
「何だか、常連客に『お店、閉めま〜す』って言ってるようなノリだね。神様から命令があったの?それとも異星人の方からかな?」
「どちらでもあるし、どちらでもないかな」
この時だけは八尋は笑顔を見せた。
「じゃあ『刑期』は終わるんだ。人間に戻れるんだね?」
八尋は首を横に振った。アロハシャツの派手な柄がこの状況にまったくマッチしていないのが悲しい。
「木村さん、薄々気づいてるでしょう?私がもう人間ではないことを。私はもうシステムの一部になっています。『神の端末』そのものなんです」
「ああ、やっぱりそうだったんだ。八尋さんはユーモアがあって人間性に溢れてる感じだけど、応答がどこかAIっぽいなと思ってたんだよね。それに標準語だし」
木村はあっさりとそう答えた。
「システムを作った神様あるいは異星人は、ここからは『創造主』と呼びますが、もういません。システムの目的は、一言でいうと『調査と記録』です。そのために『神の端末』が、可能なかぎり多くの時間と空間に撒かれました。ここでは石の形態をしていますが、さまざまあります。人間、動物、植物はもちろん、ビルのような建物、家具、家電製品、食器、書籍、パソコンやスマホ、クルマのような乗り物、そして山や川、そこに流れる水も。創造主はすでにいませんが、システムは活動を続けています。私の、いや私たちの、どちらでも一緒ですが、使命は『知ること』なんです。それにどういう意味があるのかわかりません」
八尋=「神の端末」は話を続ける。いつものふざけた表情は消え、大学の講師のような冷静な話し方だった。高い知性を感じる。
「システムの一部として、私はかなり昔に木村さんと会っています。猫の『トント』のことを覚えていますか?木村さんが大学生の時に、道端のダンボールに入っていた生まれて間もない私をあなたは拾い上げ、アパートの部屋に連れて帰ってくれました。そして、エサは食べたけど排便が全然ないって心配してくれましたね」
木村の方は、あまりに突然の話でどう反応していいのかわからない。
「そして、何日か経って私が山のようなウンチをしたら、『出た、出たぁ〜』って喜んでくれた。部屋の中でしちゃったし、臭かったでしょうに。そして1週間ほどで私が死んだ時は、亡骸を抱いて泣いてくれましたね。『トント』という名前は、あなたが観たアメリカ映画からつけた。老人と猫が旅をする話でしたが、その猫の『トント』は映画の中で最後に死んじゃうんですね。死んじゃう猫の名前を付けたから私が死んでしまったって、あなたは自分を責めていた。『うれしい』とか『感謝』という感情はこういう時に起こることを学びました。『トント』は今でもシステムの一部ですよ」
途中から木村はひざまずき、両手で顔を覆って泣き始めた。
「ああっ、あああああ〜」
充血した両目から涙が溢れ、ボロボロとこぼれていく。
「今回、木村さんにしてあげたことは恩返しだと思っています。この土地のルーツ、血のルーツ、そして愛のルーツ。それらを振り返ることが、あなたのこれからの人生に必要不可欠な『生きる力』になると判断したんです。幸い、私のこの提案にシステムは賛同してくれました。実はこれは規約違反なんです。創造主が定めたルールに反しています。どうも稼働して数万年が経過して、システムが自立しようとしているようなのです」
木村はただ茫然としている。八尋=「神の端末」の言葉に圧倒されて、黙って聞いているだけだった。
「今お話ししたことをすべて理解してくださいとは言いません。もちろん、木村さんの頭がいいとか悪いとか言っているわけではありません。現生人類=ホモ・サピエンスの脳では限界があります。感覚器や言語も関係あります。情報のインプット(入力)、スループット(処理)、アウトプット(出力)のすべてが十分ではないのです」
閉鎖まであまり時間は残っていない。八尋の肉体が石との融合を始めていた。ショートパンツをはいた下半身はすでに石に呑み込まれている。アロハシャツを着た上半身だけがそこから生えているように見える。
「でも、これだけはわかってください。出会いも別れもない。あなたも、私も、私の前任者も、子猫の『トント』も、初恋の人である一美さんも、そして時間も空間も、それらは全体の一部なんです。私は罰せられて『管理人』になって、そのことを理解することができました。もう、自分がシステムなのか、それとも八尋という人間なのか、区別がつきません」
顔だけがかろうじて石の表層にレリーフのように残って、こちらを向いている。デスマスクのように見えるが笑っていた。
「木村さん、ありがとう。時間を共にすることができて、うれしかった。感謝です。どんな形態かはわかりませんが、また会うことがあるかもしれません。それまでさようなら」
水没するように石が地中に沈み消えていく。そして、何もなかった剥き出しの大地から草が生え木が伸び、あっという間に周りの雑木林と同化していった。
9月になっても九州北部の暑さは続いていた。木村は今日も歩いている。ポロシャツにショートパンツという夏のいでたち。夕方近くになっても気温は30℃を超えていた。左手にペットボトルを持ち、時おり首筋に冷たい水をかけながらだが、全身に力が漲り若返ったように感じる。トレランシューズで力強く土を踏んでいく。無意識のうちにランニングになった。
「原野」のカメラやロープはもうなかった。いや、そもそもそういうものがあったことさえ記憶にない。木村は、ウォーキングの時に誰かと一緒だったような懐かしい気がするのだが、何も思い出せなかった。
(完結)
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