掌編小説『死んでも生きる〜ある「高齢者」の一日〜』
【イントロダクション】
高齢の男はウォーキングだけが唯一の生きがいだった。その日も自宅を出たのだが・・・
その男はもう仕事はしていなかった。かなり年をとっているようにみえる。
朝はけっこう遅くまで寝ている。一緒にランチに出かけていた妻はもういない。家を出ていったのかそれとも亡くなったのか、男には判然としない。
そろそろ歩き始める時刻だ。
男が住んでいるのは九州北部の新興住宅地だった。周囲には田畑や山林が多い。向かうのはそういう場所だ。
男は長い間、風呂に入っていなかった。シャワーも浴びていない。体がかなり臭くなっているはずなのだが、鼻が悪いためか自分ではわからなかった。
寝ていた時の服のままで、ゴミ屋敷のように荒れてしまった自宅を後にする。外に出ても人の姿やクルマを見かけない。
男は住宅地の外れにある道を上っていく。思いどおりに手が動かないので、お気に入りのトレランシューズを履くことはあきらめた。玄関に置いてあったサンダルで行く。
息切れやめまい、それに逆流性食道炎の症状は出ない。ただ腰が曲がり脚の動きも悪いので、歩く速度はゆっくりだ。スマートウォッチを着けてこなかったので心拍数はわからない。
「原野」と呼んでいる場所に出た。畑もあり、以前はさまざまな野菜を見ることができたのに荒れ放題になっている。代わりに雑草が男の背丈を越える高さまで生い茂っていた。
季節はもう夏に入っているらしい。セミの声が喧しい。気温は30℃に達しているが、男は暑さを感じなかった。
時おり動物の姿を見かけるが、男を認めると逃げていってしまう。そういう時はどうしようもない寂しさを感じる。
両側にソーラー発電所があるところまで来ると、誰かがこちらに向かってきた。男は挨拶しようと思ったが、うまく言葉が出なかった。相手も高齢者らしかった。歩くのがつらそうに見えた。二人はそのまますれ違ったが、お互いに「ああ、ああ」という声を出すだけだった。
途中で右に曲がって道を降りていくと、幾重にも連なる田んぼが広がっている。雲ひとつない青空が広がっているのに人の姿はない。死後の世界のように静まり返っていた。
しばらく行くと大きな国道に出る。九州を南北に縦貫する幹線道路で交通量は昼夜を問わず多い。しかし今日はクルマが一台も走っていない。「なぜだろう」という疑問は起こったが、男は答えを思いつかなかった。
道路の向こう側に人の姿があった。一人ではない。十人くらいいる。みんな同じ服を着ている。こちらを認めて騒ぎ出した。
「止まれっ、それ以上近づくな。撃つぞ!」
大型スピーカーから、ものすごい音量で聞こえてくる。
事情を呑みこめない男がかまわず歩き出すと、何かが体にぶつかった。痛みは感じない。しかし男は驚いて来た道を引き返した。歩くのが大変だったが必死に体を動かした。
202X年、九州北部で始まった未知のウイルスによるパンデミックは、致死率がきわめて高く、死者数が急増した。潜伏期間が長かったのだ。政府はやむなく、いくつかの自治体を警察と自衛隊によって封鎖した。心肺停止になった患者がしばらくすると「生き返る」という事案が頻発したからだ。
それはまさに、フィクションの世界で長らく愛されてきた「ゾンビ」そのものだった。調査や救出を目的として感染地域に入った警察官、消防官、自衛官らが次々に襲われ、犠牲者がゾンビ化したため、やむをえない措置だった。
当該自治体の境界には蛇腹鉄条網を積み上げたバリケードが築かれ、自衛隊が張りついて警戒に当たることになった。ゾンビ化した住民が境界に近づいた場合は追い払うように指示されていたが、危害を加える可能性がある場合は銃撃が認められた。
いずれ「死ぬ」だろうと思われたが、上空からのドローンによる調査では、ゾンビの個体数はいっこうに減っていないようだった。事態は長期戦となった。
男は自宅に逃げ帰った。35歳の時にローンを組んで建てたマイホームだ。しかし家族は誰もいない。
外はまだ明るかったが、男は一階の和室に敷かれた布団に潜りこんだ。そこはかつて男が臨終を迎えた場所だった。今は人間だった時のように気持ちよく眠ることはできなかったが、食事をする必要はないし、先ほどのように銃で撃たれても出血せず痛みもなかった。今の方がよほど楽に「生きられる」というものだった。
(完結)
本作品の「創作の裏側」です。あわせてこちらもどうぞ。

