振り返りnote 〜冬の記憶〜
これは2022年1月19日に書いたエッセイの
再掲です。(現在と比べた加筆修正版)
注:悲しかった話を徒然なるままに書いたので、嫌いな人は読まない事をおすすめします。私のことを知りたい人だけどうぞ。下書き送り予定。
と書いて、やっぱりすぐに下書きに入れちゃった記事。冬になるとなんだか、華やかな気持ちよりも、しんみりするのは、こんな記憶が残っているからなのかもしれません。
「先逝く人々」
2021年の終わりから、2022年にかけて、
突然の悲しいお別れが続いていた。
いや、12月、1月。この寒い季節は、
祖母や母がこの世からいなくなった季節でもある。子供達が幼稚園の頃に祖母、
長男が高校受験の冬に母が旅立ちました。
祖母の旅立ち
朝、起きたら寒い。
近くに住んでいた高齢の祖母の家には、
こたつ以外の暖房もなく、毎朝、ちゃんと生きているか、本気で心配していた。
朝起きて、まず、思うことがおばあちゃんが死んでいないかということなのだ。
それに比べたら、今はなんて幸せなんだろうと思う。その心配はしなくて済む。
朝、子供を幼稚園に連れて行き、ママ友と少しおしゃべりをした後、祖母の家に行く。
それが日課だった。
祖母が入院してからは、それが病院になった。
1月の寒い日だった。
いつものように子供を送り、
痩せ細ってぶかぶかになってしまった
入れ歯を安定させる為のものを
ドラッグストアが開店してから
買いに行くつもりだった。
だからいつもより、遅い時間だった。
訃報はその時に届いた。
何故いつも通りの時間に行かなかったのか
悔やまれた。
病院で会った祖母は、旅立った後でも
温かかった。父の時と違って。まるで待っていてくれたかのように。
もしかしたら、祖母は最期の時を見せたくなかったのかもしれないと今は思う。
死に目に会えないということは
そういう事なのかもしれない。
「子供を見たりや」
それが、最期に会った時の祖母の言葉だった。
生前、祖母は、身の回りの手伝いをする私に
いつも「おおきに」と感謝してくれ、
少し認知症の症状が出て、激高したあとでも、
次の日に私が知らん顔をして行くと、
昨日の事など、すっかり忘れて
「よう来てくれたな」と満面の笑みで歓迎してくれた。
「私が死んだらアンタを守ってあげるな」
と冗談めかして言っていたが、
おばあちゃんのことだ。
本当にやってくれているかもしれない。
私には怖いものなど見えた事がないし、
気配も感じない。
ありがたく思うことにしている。
会いたかった母
母の時は12月のある日だった。
それまでに何度も入退院を繰り返していた。
家に帰りたいと何度も何度も言っていたが、
病状や、介護環境からそれは叶わなかった。
一番近くに住んでいた私は、母が入院するまでは、子供達をみてもらったりしつつ、
仕事をしながら、
母にボヤかれながらも、一人暮らしの母を
出来る範囲で側で支えたが、
無理をしているのではと
姉や他の姉妹はいつもそれを心配してくれていた。
入院してからは、仕事が終わってから
病院に通った。
その頃には仕事も夕方までになっていたので、
家に帰って、子供達に夕飯を用意したあと、
自転車で病院までの坂道を、走っていた。
母の着替えやタオルなどを持って。
病院に着くと、寝ている事が多くなった母の
隣に座り、とても静かな病院の独特な匂いのする暖かな空間で、母が目を覚ますまで、うとうとと私も眠っていた。
面会時間が終わる頃には、
何か持ってきて欲しいものはないかと
ひと声かけて起こした。
また明日来るからねと。
家に帰りたいと母は、何度も私や姉妹に病院から
電話をしてきた。
仕事を辞めて、母と一緒に住み、
付きっきりで介護出来たら、良かったのかもしれない。そんな道もあったかもしれない。
妹は、看護師で、若い頃看護師をしていた母は、
たいそう喜んだ。
そんな、妹だったのに、
家に帰りたいと母から頻繁に電話がかかってくる度に、優しく病状を説明して、今は無理なのだと
説得をしていたある日、
母は、思いが叶わないことに苛立ち、
あんたなんか、娘ではないと怒ったそうだ。
私も、祖母の認知症の症状が出ていた時に、
同じように言われたことがある。祖母の時は、
私達家族にとって、初めてのことだったから、
本当に大変だった。
「それは病気が言わせていること」
という考えに至るまでに、かなり苦しみ、
泣きながら、地域包括支援センターに電話したこともある。
母の時は一度介護を経験してそれを知っていたから、だいぶ落ち着いて関われたと思う。
でも思い通りにいかないのが介護。
それぞれ、辛かっただろうと思う。
皆、何かしら心にやりきれない思いを抱えての
介護だった。
何度かの、危篤の連絡。
もち直して、日常。
母が死にかけている時でも
笑顔で仕事をしていた私。
知らない人に罪はない。
最期の危篤の知らせの後、9日間
初めて仕事を休んだ。
皆が呼びかけるも、無反応になってしまったという母。
駆けつけて、呼びかけると、開かない目を開けようと一生懸命にまぶたを上げようとする母。
他の姉妹の呼びかけは、聞こえないようなのに、
私が呼んだ時だけ、まぶたを開けようとした。
聞こえているんだ。
姉妹の中で、一番厳しく叱られたのは私だ。
姉とは違い、
言うことを、聞かず、
母と一番ケンカをしたのも私だ。
嫌われていると思っていた。ずっと。
だけど違った。
きっと、私は母の一部になっていたのだと思う。
だから、母はあんなにも私に苛立ちを見せたのだ。なぜわかってくれないのかと。
家に帰りたい、会いたい。母の願い。
でも、そのとき、私にも守るべきものがあった。
母の願いを、希望を、叶えることは出来なかった。
私は、アニメのナルトで例えるならば
万華鏡写輪眼を手にしているのかもしれないなと
時々思う。最も親しいものを助けてあげることは出来なかった。
だけど、母には、最期の最期の一息まで、泊まり込んで寄り添えた。
意識はなく、酸素マスクをつけていた母。血中の酸素濃度を示す、SPO2の値が上がるたびに、よく頑張ったと頭を撫で、下がるたびに手を握って名前を呼び続けた。
ずっと一緒にいたがっていた母だから、
もう少し長く生きられたのではないかと思っていたが、今思えば、この流行り病の前で
良かったのだと思う。
母は、会いたかったのだ。
母はどちらかと言えば、子供に夢を託す方だった。自分が出来なかった事をやってくれれば喜ぶし、自分がして欲しくない事をすれば怒った。
子供の為に生きている、そう言っていた。
今年の始めに書いたこの記事だが、今読み返してみるとなんだ、全く同じじゃないか。
託す夢などないにしても、私とて同じ。
子育てって、きっと本質は同じもの。
母の事は大好きだし、感謝もしている。
だけど、私はたぶん、根っこの部分では、祖母や父に似たのだと思う。
母とケンカをした時、思い通りにならない私に、何の為に育ててきたかわからないと、売り言葉に買い言葉のように言われたことがある。
父の亡きあと、女手一つで育ててくれた母。
母子家庭だからと後ろ指を刺されないようにと
厳しかった母。
だけど、自分の幸せが母の思う幸せと違ったときは苦しかった。
楽しい事を話しても、浮かれないようにと
苦言を言われることの方が多く、
何かを相談しても反対されるので、
次第にあまり何も話さなくなった。
父親役もせねばならなかった母だから、
仕方のなかったことなのかもしれないけれど。
だから、私は母のようにはならないと、
子供達の負担にはならぬようにと、
自分のやりたいことは、例え少ししんどくても
やってきた。そのための工夫もしてきたつもりだ。子供がやりたがった事は出来る範囲で応援した。
現在、少し状況に変化が出てきた。
子供達が巣立ったあと、心配かけぬようにと始めた、バレーボールは、もう、やるか辞めるかの節目を迎えているし、(やってる間に心配かけた)
仕事もパートとしては、賞与まで頂き、充分な稼ぎ方が出来ているはずなのに、
人員削減による負のスパイラルから、
この店を人を守ろうと、本部からのアンケートには毎回長文で抗議している。ひと昔前なら、上に意見するなど、クビになっていてもおかしくない。
副業を探しながら、いつ辞めてもいいようにと考えている。色んな事をやってきているから、
けっこう潰しは効く筈だ。
自分のことは、自分でやるしかない。子供達には自分の夢など託さない。寄り添い、見守りはするけれど、自由に生きて欲しい。
そう以前は書いたけれど、
子供達は、家にいるのが好きなようで
あまり出歩かない。今は家にいながら、なんでも出来てしまうのだ。
子供達の成長に合わせて、寂しくなるはずが、
大学生の長男は、家から近い大学を希望して
通っているので、朝もゆっくり家にいて、
お昼も家に帰って来る。そして、また自転車で学校へ。そして、数時間勉強したら、暗くなる前に帰ってくる。なんなら、ご飯も作ってくれる。
家から離れたいと、電車に乗って短大に通っていた私とは、全然違うゆとり。
アルバイトもどうせ社会に出たら働かなあかんのやから、と必要最低限しか入れていない。
将来は結婚もしないといい、1人でも暮らしていけるようにと料理スキルを磨いているが、
たぶん、もうそれは、同世代のそれを軽く凌駕するほどの腕前だ。立派な我が家の主婦シェフである。
次男は、その甘さが可愛いのだが、長男のように
頭の回転が早いというか、要領がいいというわけではない。だが彼は昔から運がいいし、その優しさから、トラブルに巻き込まれる事が少ない。
子供の頃から生き物や何かを育てるのが好きなので、食器洗いの家庭内アルバイトで稼いだお金は
もっぱら食虫植物やプランターや土に消えている。週に2回の部活以外は学校から帰って来たらまず家にいる。逆にいないと何かあったのかと心配になるくらいだ。
たまにカラオケなど友達と趣味のことで
出かけるが、基本2人とも家にいる。
YouTubeを見たり、ゲームをしている。
友達ともっと遊ばなくて大丈夫なのかと心配もしてみるが、大丈夫なようだ。
まあ、私も他人のことは言えないけれども。笑
どうか、やりたいことを見つけて
反対されれば、怒ってでも
いかにそれが大事なのか教えて欲しい。
まぁ、反対はしないけど。
自業自得を教えてきたからね。
こう書いた記事だったけれど、彼らは
まだまだやりたいことを見つけるのは先なようだ。就職して、仕事をしだしたら変わるのかな。
これも他人のことは言えないな。
最近、悲しい話や
怒りを目にすることが多かった。訃報も多い。
82歳になる高齢の叔母が
突然、姉や私に電話をかけてきて
まるで最期のお別れのように
お菓子を贈るからと言う。
そんな事などした事がないのに。
いつもより、大きな元気な声で、
少し子供に戻って
お礼を言う。「おばちゃんも元気そうやね!楽しみにしてる」
母が亡きあと、ずっと気にかけていてくれたに違いない。少しもの忘れが激しくなったという
82歳の叔母が思い出してくれた、私達。
亡き妹の子供達。
私達が元気でいなければ
先行く人々が浮かばれない。
元気出して行こう。
たぶんいつか下書き送り。笑
だけど、今、書いておきたくて。
今年の始めに書いた記事。
刻々と日々変化していく日常。
どこに向かっているのかわからないけれど
何があるのかわからない、
思い込みを超えたところに未来はあるのでしょうね。
明日は明日の風が吹く。
さて、今日は何をしようかな。
とりあえずは、体のメンテナンスと
整理整頓かな。
整えていきましょう✨
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
今日も素敵な一日を。
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