国際金融資本の知られざる歴史⑤ ~フランクフルト本家・ウィーン家・ナポリ家~
【前回④の内容】
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1.長男アムシェル と フランクフルト本家の歴史
1812年に初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルドが68歳で亡くなると、その長男アムシェル(39歳)がフランクフルト本家を継いで「M.A.ロスチャイルド銀行」の総裁に就任した。

アムシェルは、保守的で敬虔なユダヤ教徒であり、野心や独立心はあまり無く、兄弟の中でもっとも用心深く、静かな生活に憧れたと言われている。

弟のネイサンやジェームスのような天才的な商才は無かったものの、父親マイアーが築き上げたヘッセン選帝侯との良好な関係を維持し、ウィーン会議(1815年)にて成立した「ドイツ連邦」において、その財政官を務めることとなった。


また、ドイツ連邦を構成する中小規模の領邦国と良好な関係を築き、1820年~30年にかけてはM.A.ロスチャイルド銀行がドイツ語圏における主要な国債発行人となった結果、ドイツの証券金融の中心地はフランクフルトとなった。

現代でもフランクフルトは、ドイツにおける「国際金融の中心地」となっており、欧州中央銀行(=ユーロ圏の中央銀行)、ドイツ連邦銀行(=ドイツの中央銀行)、ドイツの4大銀行がフランクフルトに本社を構えている。

1835年(62歳)には、タウヌス鉄道(フランクフルト~ヴィースバーデン間)の建設事業に、M.A.ロスチャイルド銀行も資本参加している。

1855年にアムシェル(82歳)が亡くなると、彼には子供がいなかったため、M.A.ロスチャイルド銀行は、ナポリ家カールの長男マイヤー・カール(35歳)と三男ヴィルヘルム・カール (27歳)が共同経営者となって事業を引き継ぐこととなった。


だが、マイヤーとヴィルヘルムのどちらにも息子がいなかったため、1901年にフランクフルト本家は断絶となり、M.A.ロスチャイルド銀行も清算されることとなった。
2.次男ザロモン と ウィーン家の歴史
初代マイアー・アムシェルの次男ザロモンは、1819年(45歳)にオーストリア帝国の首都ウィーンに派遣されて、翌1820年(46歳)には「S.M.ロスチャイルド銀行」を設立している。

ザロモンは、陽気で優しくへりくだることを知っており、ロスチャイルド家を「成金」として見下す貴族たちとでも人脈や信頼関係を築くことができる、いわば一家の外交官的な存在であった。
弟ネイサンのことをナポレオン皇帝に例えて「私のロンドンの弟は最高司令官です。私は部下の元帥に過ぎない」と述べて、ネイサンの才能を認めて、弟の指示に忠実に従った。
ザロモンは、オーストリア帝国宰相のメッテルニヒとその腹心フリードリヒ・ゲンツと特別な関係を築き上げて、オーストリア帝国の重要なプロジェクトにいくつもの融資を行った。

1836年(62歳)の時に始まったオーストリア帝国で初めての蒸気鉄道ノルド・バーン鉄道の建設事業では、S.M.ロスチャイルド銀行が中心的な役割を果たして「鉄道王」と呼ばれるようになった。

1833年(59歳)には海運会社オーストリア・ロイドの発起人となった他、1843年(69歳)には現チェコ共和国のヴィトコヴィッツ製鉄所を買収して、独占所有して1840年代に始まったオーストリアの産業革命にも貢献した。
ザロモンは慈善事業についても積極的に行って、病院建設や給水設備の普及に莫大な寄付を行ったりおり、1843年(69歳)にはユダヤ人で初めて「オーストリア名誉市民権」を与えられた。
1848年にオーストリア帝国革命が起きると盟友メッテルニヒも失脚することとなり、同時にザロモン(74歳)も「反ロスチャイルド感情」に駆られた暴徒たちから襲撃されて、娘ベティの嫁ぎ先であるパリ家ジェームスの下まで亡命せざるを得ない事態に陥った。

その後ザロモンは、ウィーンに一度も帰国することなく、1855年に亡命先のパリで81歳で他界したため、S.M.ロスチャイルド銀行は、ザロモンの長男アンゼルム・ザロモン・ロスチャイルド(52歳)に引き継がれた。

アンゼルムは、1826年(23歳)にネイサンの娘シャーロット(19歳)と結婚しており、1848年(45歳)に起きたオーストリア帝国革命で「滅亡の危機」に瀕していたウィーン家の再建に奔走した。
1855年(52歳)には、オーストリア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国の有力銀行の1つとなる「クレディタンシュタルト銀行」を設立して、オーストリアの鉄道建設において、パリ家ジェームスの政敵・商売敵であったぺレール兄弟のクレディ・モビリエ銀行と激しく争って勝利を収めている。

S.M.ロスチャイルド銀行は、1866年にアンゼルムの息子アルバート・ザロモンに引き継がれ、さらに1911年からはアルバートの息子ルイ・ナサニエルが引き継いだ。


しかし、1938年にオーストリア=ハンガリー帝国がナチスに併合されると、ウィーンのロスチャイルド家の財産はナチス・ドイツにすべて略奪されて、そのままウィーン家は没落してしまった。
3.四男カール と ナポリ家の歴史
初代マイアー・アムシェルの四男カール(42歳)は、1820年にナポリ反乱の鎮圧のためにオーストリア帝国が軍隊を派遣したことをきっかけに、両シチリア王国のナポリに派遣されて、翌1821年(43歳)には「C.M.ロスチャイルド銀行」を設立した。

カールは、神経質で自分に自信が無く、兄ネイサンの才能に憧れて偶像化する一方で恐れた。長兄アムシェルの指示に従ってナポリに移住したものの、外国生活には馴染めず「私はビジネスは嫌いで、生きるのに必要な衣類とパンさえあればよい」と言ったとも伝えられている。
カールとC.M.ロスチャイルド銀行は、両シチリア王国の元首相で、ナポリ革命後に樹立された新政府の下で財務大臣に就任したルイージ・デ・メディチと深い関係を築き、両シチリア王国の国債を引き受けて成功を収めた。

1826年(48歳)の時にカールは、後に初代ベルギー国王となるレオポルド1世(36歳)をナポリにあった自身の大邸宅に招待している。

また1829年(51歳)にはフランクフルト駐在の両シチリア総領事に任命されている。そして1832年(54歳)には、ユダヤ人でありながら、カトリック教のローマ教皇グレゴリウス16世から「騎士団勲章」を与えられている。

1855年3月、カールは77歳でナポリで死去した。彼の財産の7分の1は、兄ネイサンの長男ライオネル(47歳)と結婚した長女シャーロッテ(36歳)に渡り、残りは3人の息子に均等配分された。

同年12月、長男マイヤー・カール(35歳)と三男ヴィルヘルム・カール (27歳)がフランクフルト本家を継ぐこととなったため、C.M.ロスチャイルド銀行は次男アドルフ・カール(32歳)が引き継ぐこととなった。

しかし、アドルフは商才に恵まれなかったため、1861年(38歳)にはC.M.ロスチャイルド銀行を清算して本家のM.A.ロスチャイルド銀行に資産を移して、1868年(45歳)からパリに移住した。
こうしてロスチャイルド五家のうち三家は没落していったが、ロンドン家とパリ家はその後も発展し続けて、世界を動かすほどの力を持つようになる。
【⑥に続く】
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