国際金融資本の知られざる歴史⑫ ~明治維新とロスチャイルド(後編)~
【前回の内容】
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1.横浜浄瀧寺のイギリス領事館
日英修好通商条約が締結された翌年の1859年、初代駐日イギリス総領事としてラザフォード・オールコック(50歳)が日本に赴任してきた。

オールコックは南京条約(1842年)の締結後に中国に渡り、福州・アモイ・上海・香港など各地で外交官と勤務した極東専門のベテラン外交官であった。上海領事時代には第二次アヘン戦争を引き起こす原因を作っている。

日本に赴任したオールコックは、7月6日に江戸高輪(東禅寺)に仮の英国公使館を設営した後、7月1日に開港した横浜(浄瀧寺)にも領事館を開いた。


2.ジャーディン・マセソン商会の横浜支店
オールコック来日と同時期の1859年7月、ロスチャイルド家の中国代理人ジャーディン・マセソン商会(JM商会)から、創設者ウィリアム・ジャーディンの姉の息子であるウィリアム・ケズウィック(25歳)が上海からやってきて、JM商会の横浜支店を開設している。
※JM商会については⑦も参照のこと

~同商会創設者ウィリアム・ジャーディンの甥~
1860年、ケズウィックは、鹿島岩吉(鹿島建設の創業者)に依頼して、横浜の地元民から「英一番館」と呼ばれた日本初の洋館を建設した。

横浜では、英国領事館の浄瀧寺とJM商会の英一番館は直線距離でわずか3キロ程度で、JM商会にとっては英国領事館から「極東における最新情報」を収集する絶好のロケーションであった。

また、JM商会はオールコックの書記官としてエイベル・ガワーという人物を代理人として送り込み、彼を通じて英国政府の内部情報を入手していた。
ケズウィックは1862年に上海に帰国しているが、後任の支店長としてエイベルの兄サミュエル・ガワーを上海から派遣している。
3.英国公使館焼き討ち事件
江戸高輪の東禅寺に仮設されていた英国公使館が、1861年7月5日と1862年6月26日の2回にわたり、攘夷派の志士たちに襲撃される事件が続いた。

江戸幕府は、イギリス総領事オールコックの要請に基づき、安全上の理由から「品川御殿山」に正式な英国公使館を建設する計画を立てた。

しかし、新たな公使館が完成する直前の1863年1月31日、竣工途中の建物に何者かが火を放って焼き打ちする事件が起きた(英国領事館焼き討ち事件)
放火犯は、高杉 晋作(24歳)を隊長に、久坂 玄瑞(23歳)を副将とする長州藩の御楯組(みたてぐみ)の12名だったが、犯人不明のまま事件は有耶無耶に終わった。長州藩のライバル薩摩藩が1862年9月に生麦事件を起こしたことに影響され、自分たちも負けずと攘夷を実行したとされている。

~大名行列に対して無礼を働いたイギリス人を薩摩藩が斬り捨てた~
4.長州ファイブの留学目的
英国領事館焼き討ち事件からわずか5カ月後の1863年6月27日、焼き討ちの実行犯の3名 伊藤 博文(22歳)・井上 馨(27歳)・山尾 庸三(26歳)に、遠藤 謹助(27歳)・井上 勝(20歳)を加えた長州5人組(長州ファイブ)がイギリスに留学するために密出国した。
当時の出国は発覚すれば死罪となる重罪であったが、その命懸けの留学先は「焼き討ちをするほど憎い敵」であるはずのイギリスであった。

(1863年6月27日に横浜出航・1863年11月4日にロンドン到着)
そしてイギリスと日本は、生麦事件の賠償を巡って薩摩藩と対立が先鋭化しており、出航から2か月後の1863年8月には薩英戦争に発展するほどの緊張関係にあった時期であった。

また、長州藩は長州ファイブが出航する直前の1863年6月25日に、孝明天皇が下した攘夷の勅命を実行に移し、馬関海峡を封鎖して航行中のアメリカ商船に無通告の砲撃を行った。さらにその後20日以内に、フランスの小型軍艦とオランダの外航船に対しても同様の攻撃を実施している。

長州ファイブの留学を手引きし、彼らを横浜から船に乗せて送り出したのは、1862年から1865年までジャーディン・マセソン商会(JM商会)の横浜支店長を務めたサミュエル・ガワーであった。
そして、長崎に寄港した五人を出迎え、今度は上海まで送り出したのは、1859年に来日して、1861年にJM商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立したトーマス・ブレーク・グラバーだった。

~ジャーディンマセソン商会の長崎代理店~
さらに、上海に到着した5人を出迎えたのは、1862年に帰国後、JM商会の上海支店長となったウィリアム・ケズウィック(29歳)である。ケズウィックが長州ファイブに全面的に協力し、彼らの留学を斡旋したと言われる。

また、ロンドンに到着した長州ファイブの面倒を見たのは、JM商会のもう1人の創業者ジェームズ・マセソンの甥ヒュー・マセソン(42歳)だった。
※ヒュー・マセソンについては⑧も参照のこと

~JM商会創設者ジェームズ・マセソンの甥~
ヒュー・マセソンは、長州ファイブがロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(UCL)に入学できるよう手配し、さらにUCL教授のアレキサンダー・ウィリアムソンの自宅で寄宿できるように便宜を図っている。

なお、ウィリアムソンの父親は東インド会社で書記官を務めた人物であり、ロスチャイルドグループが東インド会社の貿易利権を引き継いでいたことを考えると、ウィリアムソンも「ロスチャイルドの関係者」と言える。
※東インド会社とロスチャイルド家の関係は⑦も参照のこと
つまり、長州ファイブのイギリス留学は、出航から留学先まですべて「ロスチャイルド人脈」と深く結びついていたということになる。
なぜロスチャイルドグループは、イギリスに敵意を剥き出しにして焼き討ちテロを起こした犯人たちの面倒を見たのだろうか?利益に聡い彼らが親切心だけで動いていた可能性はまず無いだろう。
実は、品川御殿山に建設途中だった英国公使館が焼失したことを受けて、英国総領事オールコックは「政情不安定で異邦人にとって危険な江戸」ではなく、外国人居留地があった横浜に、あらためて公使館を建設することに決定している。
品川御殿山の公使館が焼け落ちたことで最もメリットがあったのは、イギリス政府の関係者から最新情報を入手したいと願っていたJM商会であった。
距離が離れた江戸にイギリス政府の関係者が移転しまうのを阻止するため、JM商会が「留学斡旋」と「現地案内」を交換条件に長州藩を唆して、攘夷に見せかけた焼き討ちテロを実行させたと考えれば矛盾は生じない。

1867年に新たに建設された英国領事館は、JM商会の英一番館から1.5キロ程度の距離である「山手居留地120番」に置かれた。


ロスチャイルド家は、将来日本の指導者となる可能性が高い留学生を次々と呼び込み、西洋の文化や常識(特に金融や経済システム)を至上のものとして洗脳教育することで、遠く離れた地において、イギリスにとって都合のよい国家、極東におけるイギリスを生み出そうと考えた可能性がある。
長州ファイブを含む日本人留学生たちがロスチャイルドの「真の狙い」に気づいたかは判らないが、結果的には、彼らが明治政府で活躍し、日本に次々と導入したもののほとんどが英国式の仕組みだったことは確かである。
なお、長州ファイブの帰国後の活躍は次の通りであった。
■ 伊藤 博文は、1885年の初代を含め、計4回も総理大臣を務めた。
■ 井上 馨は、初代外務大臣に就任した後、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などの要職を歴任して、軍務系を除くほぼすべての大臣を務めた。
■ 山尾 庸三は、ヒュー・マセソンの強力の下、東京大学工学部の前身となる工学校を創設したほか、中央官庁街である霞が関の建設を計画するなど、明治政府の基盤作りに多大な功績を残した。
■ 遠藤 謹助は、1870年から死ぬまで造幣局に勤務し続けて、日本の「造幣の父」として呼ばれる存在になった。
■ 井上 勝は、日本の鉄道事業の発展に尽力し、日本の「鉄道の父」と呼ばれる人物となった。
5.JM商会 横浜支店長 吉田健三
ジャーディン・マセソン商会(JM商会)は、吉田 健三という人物を、1868年から日本人初の横浜支店長(おそらく4代目支店長)として雇用した。

~ジャーディン・マセソン商会 横浜支店長(1868年~1871年)~
吉田は、1864年に越前福井藩を脱藩して浪人となった後、大阪で医学を、次いで長崎で英学を学んだ。そして、1866年にイギリス軍艦に乗って英国に密出国し、2年間滞在した後に帰国した。彼がなぜイギリスに渡ったのか、イギリスでどのように過ごしたのかは判っていない。
1868年に帰国した後、ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長に就任し、その後3年間に渡って活躍し、明治維新政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買で目覚ましい業績を挙げて、JM商会から慰労金1万円を受け取った(現在価値で5000万円程度)
その後、慰労金を元手に実業家に転身し、義弟と太田醤油造合資会社を設立したほか、東京日日新聞(現・毎日新聞)、東京絵入自由新聞(自由党の日刊機関紙)などマスメディア産業にも進出した。
そして、板垣 退助らが始めた、憲法制定や国会開設に向けた政治運動の「自由民権運動」を経済的に支援し、1881年には板垣の腹心の竹内 綱の五男を養子に迎えたが、1888年に40歳で急死した。
吉田健三が急死した時にその巨額資産を受け継いだ11歳の養嗣子が、後に、第二次大戦終戦後に総理大臣となる吉田 茂である。吉田 茂は「和製チャーチル」と呼ばれ、GHQ占領下の日本で徹底的な従米路線を貫いた。

~ジャーディン・マセソン商会横浜支店長 吉田健三の養嗣子~
6.その他の人物
1860年頃のイギリス政府は、インド大反乱とアヘン戦争によって深刻な財政難に陥った反省から、武力による植民地支配という方針を見直し、日本を統治のではなく「貿易」を通じて搾取さえできれば十分、と考えていた。
その証拠に、初代駐日総領事オールコックは、日英間の本格的な戦争に繋がりかねない武力紛争(薩英戦争・下関戦争)を引き起こした責任を取らされて解任されている。
イギリス公使館通訳アーネスト・サトウは、1866年に英字新聞に匿名で「英国策論」を寄稿し、それを自ら和訳して諸藩に配ることで、倒幕の大義名分を探していた勢力(薩摩藩・長州藩・土佐藩など)に大きな影響を与えた。
また、サトウの父デーヴィッドは、ラトビア出身の英国人で敬虔なルーテル派のプロテスタントだが、シティのロンドン塔近くのユダヤ人街(Old Jewry)に住んで金融業を営んでいた。ユダヤ教になんの縁も無い者がユダヤ人街に居住することは殆ど無いことから、サトウ家は「改宗ユダヤ」であった可能性は捨てきれない。

さらに、オールコックの後任領事であるハリー・パークスは、領事としては「幕府寄り」の姿勢を貫いていたが、本国との通信文の中で伊藤博文、五代友厚、寺島宗則らの薩長英国留学生を「エージェント(=代理人・スパイ)」と呼んで、本国からは「イギリス政府が日本において求めるものは政治的な影響力ではなく、ただ貿易の発展だけである。従って、いかなる内乱にもイギリス政府は中立の政策を維持すること」と厳命されていたにも関わらず、1886年には自ら薩摩藩・長州藩・伊予藩を歴訪するなど精力的に倒幕派勢力とも接触した。
パークスの長女マリオンは、ジャーディン・マセソン商会のウィリアム・ケズウィックの実弟で、同商会の重役ジェームズ・ケズウィックと結婚した。パークスもまたJM商会の関係者となっている。

【⑬に続く】
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【参考書籍】
