国際金融資本の知られざる歴史⑪ ~明治維新とロスチャイルド(前編)~
【前回の内容】
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1.太平洋ハイウェイ構想
アメリカが「米墨戦争」でメキシコから奪ったカリフォルニアにおいて、1848年に金鉱石が発見されたことで「ゴールドラッシュ」が始まった。

ロスチャイルド家は、世界中の「金塊(ゴールド)」をロンドンのイングランド銀行で独占的に管理することを目指しており、アメリカで発掘された金塊をイギリスまで輸送するためのアメリカの西海岸(太平洋)と東海岸(大西洋)を繋ぐ「大陸横断鉄道」の建設計画を強く支持した。

当時アメリカでは、特に中部州・西部州で「労働者不足」が深刻化しており、ゴールドラッシュには「鉱山労働者」が、大陸横断鉄道には「建設労働者」が大量に必要となることから、今後さらなる労働力不足が懸念された。
また、砲艦外交によって清国と「望厦条約(1844年)」を締結したアメリカは、巨大な貿易市場である中国に本格的に進出するチャンスを伺っていた。
そこで、蒸気船で太平洋を越えて中国まで最短距離で到達する太平洋航路を開発すれば、貿易競争において地理的に欧州よりも遥かに優位に立てる上、さらに中国から低賃金の肉体労働者「苦力・クーリー」を大量に連れ帰ってくることで、国内で不足している労働力も補えると考えた。

この夢の「太平洋ハイウェイ構想」の実現にあたり最大の障害となるのは、太平洋航路の途中にあり、中国・オランダ以外との貿易を拒否し続けていた未知の国「日本=江戸幕府=Jeddo」である。
当時の日本は、アメリカにとっては「まったくの未知数の市場(=魅力がない)」であったが、中国航路の途中にある「給油給水スポット・修理拠点」として、いつでも自由に寄港できるように安全を確保すべき国であった。

2.日本開国計画を立案したアーロン・パーマー
太平洋ハイウェイ構想を提唱し、アメリカ政府に対して日本に開国を迫るよう熱心にロビー活動を行ったのは、ニューヨークの弁護士で、ロビイストの「アーロン・ヘイト・パーマー」という人物である。
彼は、1837年に起きた金融恐慌によってロスチャイルド家の既存代理店(JL&S・ジョセフ商会)が破綻したときに、その後継者として、アメリカ市場における「起債事業」や「債権回収」を任せられた2人の「代理人」のうちの1人であった。
そして、もう1人の代理人は1837年にフランクフルトから到着した「オーガスト・ベルモント」である。つまり、パーマーとベルモントは「仕事仲間」であり、「ライバル」でもあった。
※代理人オーガスト・ベルモントの経歴については⑨を参照のこと。
1849年、パーマーは米国務長官のクレイトンに宛てて日本開国計画書と称する提案書を2回に渡って送付している。その内容は次のようなものである。
■ 日本はエネルギッシュな民族で、新しいものを同化する能力はアジア的というより、むしろヨーロッパ的と言える。西洋諸国の芸術や新技術に対する好奇心が極めて高い。
■ 名誉を重んじる騎士道のセンスを持ち合わせており、アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画し、行動規範は名誉と信義を基本としている。盗難や経済犯罪は極めて少ない。
■ 同一民族による独立を2500年も維持し、同一の言語と宗教を持っている。支那に隷属することもなく、外国に侵略されたり、植民地化されたことがない。
■ 日本は東洋におけるイギリスになるだろう。
■ 1637 年以来、中国とオランダを除くすべての外国との交流と貿易を封鎖して孤立してきた神秘的な日本帝国には「無尽蔵の貴金属の鉱山」があると信じており、「石炭」についても同じことが言える。
■ 日本では「アメリカ人の捕鯨船員」が虐待され、時には処刑されている。この問題を直ちに解決するよう求め、もし改善を拒否するなら「江戸湾」と「松前港」を封鎖すべきだ。2隻のフリゲート艦があればそのような封鎖は実行できる。
■ 江戸に特使を派遣して「貿易特恵」を与えるよう勧告すべきである。この任務は「武装蒸気船」に任せるのがよい。ペリー提督を始めとする経験豊富な海軍士官たちも、この計画に賛同している。
■ セントルイスまたはミシガンからサンフランシスコまたはサンディエゴまでの「大陸横断鉄道」を建設すべきである。この鉄道は「太平洋の蒸気船ルート」と共に、アメリカ東海岸(NY)と極東(上海)を結ぶものになる。このような輸送ネットワークが完成すれば、上海からニューヨークまで25日、ロンドンまで35日で移動できるようになるだろう。
1849年~1852年にかけて、パーマーはアメリカ海軍・東インド艦隊のマシュー・ペリー提督と日本遠征について繰り返し愚論を交わした。そのペリー提督の「娘婿(=義理の息子)」はオーガスト・ベルモントである。

つまり、アメリカによる日本開国とペリー来航は、ロスチャイルド家の希望に沿って、その代理人たちが計画したものである。
なお、パーマーが書簡に記した「アメリカ人捕鯨船員の虐待と処刑」とは、日本という未知の国にまるで関心の無い国民世論を動かすためにでっちあげた「ウソ」であったが、この話がメディアに報じられたことで、アメリカ国民はすっかり騙されて日本に憤るようになった。世論が動いた結果、海軍予算の大幅に引き上げにも成功した。
江戸幕府が1825年に発令した「異国船打払令」は、アヘン戦争で清が大敗したことがオランダ商人(中国・長崎)経由で日本にも伝わっていたため、1842年に「薪水給与令」に変更されていた。そのことは、広州や上海で貿易を行っていた「ラッセル商会」などを経由して、パーマーらも知っていたが、アメリカ世論を動かすために、あえてを無視してホラ話を吹聴してまわった。
3.黒船来航と日米和親条約
東インド艦隊司令官のマシュー・ペリーは、アーロン・パーマーと議論を繰り返し、太平洋ハイウェイ構想が「アメリカの国益」にどれほど重要であるかを十分に理解していた。そして、開国を迫るにあたり、日本という国を入念に分析するため、1852年に出版された「日本」と題された本を熟読した。

この本には、次のような内容が詳細に記されており、ペリーは来航前には相当な日本通となって、現代の一般的な日本人よりも遥かに日本の歴史や文化を理解していた。
■ 八幡神とは、戦いの神として崇められた応仁天皇のことで、 応仁天皇の母である神功皇后が三韓征伐を行った。
■ 日本には源頼朝や尼将軍(北条政子)がいた。
■ 日本には2人の皇帝がいる。1人は世俗権力を掌握する皇帝(征夷大将軍)であり、もう1人の皇帝は神の子孫(天皇)で、日本人の心の将軍(祭祀王)であって、兵力は保持していない。
■ 日本人は花が好きで、煙草が好きで、よく働き、遊ぶことも好きである。
■ 世界中のどの国よりも教育が行き届き、どんなに貧しい農民でさえ、少なくとも読むことはできる。
■ オランダで、シーボルトが持ち出した地図(伊能図)を見たイギリス士官が、その素晴らしさに驚嘆しており、高い技術力を持ち合わせていると推測される。
さらにアメリカは、ハーグに派遣した駐オランダ大使ジョージ・フォルサムを通じて、オランダ政府から日本地図や参考書を3万ドルで入手してペリーに渡している。

なお、この大役を果たしたフォルサムの後任として、1853年10月からオランダのハーグに米国大使としてオーガスト・ベルモントが赴任している。
そしてペリーは蒸気船2隻を含む4艦隊を率いて、1852年11月24日に東海岸のノーフォークを出港した後、喜望峰を経由してインド・香港・上海へと寄港したあと、1853年7月8日に、江戸湾入り口の浦賀に到着し、開国を迫るフィルモア大統領の親書を江戸幕府に届けた。(黒船来航)

親書を届けた後、ペリーはマカオに戻って、アメリカ商人の「ラッセル商会」の邸宅に宿泊していた。
1818年に設立されたラッセル商会は、1840年代からアヘン密貿易にも手を出して、イギリスの「ジャーディン・マセソン商会」の陰に隠れて荒稼ぎした企業で19世紀におけるアメリカ最大のドラッグ犯罪組織と評されている。

ちなみに、ラッセル商会がアヘン密売で稼いだ利益はアメリカに持ち帰られて、その一部はイェール大学・プリンストン大学・コロンビア大学などの東海岸沿いの名門大学に寄付されており、アメリカ東部エスタブリッシュメントと中国大陸との強い絆はこの頃から始まったとされる。
そして、ラッセル商会の共同経営者の1人だったのが、徹頭徹尾 中国に肩入れして日米開戦に誘導したフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領の「母方の祖父」であるウォーレン・デラノである。

ウォーレン・デラノ(1809年 - 1898年)
滞在先のマカオにて、ロシア帝国の海軍中将プチャーチンが日本開国の交渉のために「長崎」に向かったと聞いたペリーは、急ぎ2回目の交渉を開始するために、蒸気船3隻を含む9隻の船団を編成して日本に向かった。

そして1854年2月13日に再来航したペリーは、江戸幕府に手土産を献上し、同年3月31日には「日米和親条約」を締結して、下田港と函舘港の2港を開港させることに成功した。



4.安政の五カ国条約の締結へ
アメリカでは「太平洋ハイウェイ」の主要ルート上にある函館港と下田港を「ガソリンスタンド」としていつでも利用できるようになったことで当初の目的を達して、日本に対する興味は急激にトーンダウンした。
その後、通商条約を結ぶために初代総領事タウンゼント・ハリス(52歳)が下田港に降り立ったのは、日米和親条約の締結後から2年以上が経過した1856年8月21日のことであり、ハリスに同行したのは通訳ヘンリー・ヒュースケン(24歳)だけで、護衛も護艦も付かない「孤独な赴任」であった。

ハリスは、元々は「教育行政」の専門家であり、ニューヨーク市の教育局長としてNY市立大学シティ・カレッジの創設に関わるなどの経歴を持つ人物で、1849年(45歳)に貿易商に転身してから1854年(50歳)でようやく外交官にデビューしたばかりの新米担当者だった。
それでもハリス(54歳)は、2年間を掛けて江戸幕府と粘り強く交渉して、1858年7月29日には大老の井伊直弼(43歳)と「日米修好通商条約」の締結し、横浜・函舘・神戸・長崎・新潟の五港を「貿易港」として開放させた。
なお、五港開港に伴って下田港の開港は1860年に解除されている。

その後3か月の間で、オランダ・ロシア・イギリス・フランスも、アメリカと同じ内容の修好通商条約を締結して「安政の五カ国条約」が成立した。

しかしこの後、日本にとって幸運な事に、欧米列強国はそれぞれ、次のような状況となったことで、遠く離れた極東の見知らぬ国に、本腰を入れて干渉しようとする国は無くなった。
アメリカは、南北戦争(1861年~1864年)で内戦状態に突入した。
イギリスは、第二次アヘン戦争(1856年~1860年)と第一次インド独立戦争(1857年~1858年)を経て、植民地経営の見直しを迫られた。
ロシア帝国は、クリミア戦争(1853年~1856年)で英仏との戦力差を痛感し、内政の抜本的な改革に着手する必要があった。
フランス帝国は、メキシコ出兵(1861年~1867年)で泥沼の戦いに手を突っ込んだ挙句、普仏戦争(1870年~1871年)においてプロイセン(ドイツ)に大敗を喫した。
しかし、列強国に代わって、幕末日本において「革命」・「内戦」が起こるように暗躍したのは、「国境を超越した勢力=グローバリスト」であるロスチャイルド家であった。
【⑫に続く】
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