国際金融資本の知られざる歴史⑩ ~ロンドン家の躍進(前編)~
【前回の内容】
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1.イギリス王室を手懐けたライオネル
1836年、ロスチャイルドグループを率いたネイサン・マイアー・ロスチャイルドが58歳で亡くなると、ロンドン家は長男ライオネル(28歳)が引き継ぐこととなった。

翌1837年、ヴィクトリア女王(18歳)がイギリス女王に即位したが、パクス=ブリタニカの波に乗って、ロンドンのロスチャイルド家は、ライオネルとその息子達の時代にさらに躍進することとなる。

先代ネイサンの時代から借金漬けだった歴代のイギリス王たちに、20年以上に渡って多額の資金を融通し続けてきたロスチャイルド家に対して、若干18歳で即位したヴィクトリア女王も全幅の信頼を寄せるようになっていた。
要人に信書を送る際には「完全に安心でとても迅速」と評判だったロスチャイルド家の「郵便(密使)サービス」を(その内容を盗み見られるとも知らずに)愛用し、「銀行サービス」はもちろんのこと、「ホテル予約」などもすべてロスチャイルドに頼り切っていたため、女王の動静はすべてライオネルに把握される有り様だった。
1838年6月、ライオネルはヴィクトリア女王から勅許状を与えられて「亡き父ネイサンとその子孫」がオーストリア帝国の「男爵」の称号をイギリスでも名乗ることを許されている。
(オーストリア帝国の男爵位を取得した経緯は②を参照のこと)
2.政治的な権力拡大を目指すライオネル
イギリス王室を手懐けたライオネルは、現地に派遣した「代理人」たちを使ってビジネスを拡大してゆく一方で、自身はイギリス社会において「政治的な権力」を手にすることに注力し始めた。
まず、1837年、キリスト教徒に改宗したユダヤ人「ベンジャミン・ディズレーリ」を支援して、「保守党」の下院議員として送り込むことに成功する。

ライオネルの忠実な家来であるディズレーリの活躍により、1844年には「ピール銀行条例」が成立し、ロンドン家が支配するイングランド銀行は、晴れてイギリスで唯一の「通貨発行権」を持つ「民間の中央銀行」となった。(イングランド銀行とディズレーリについては③を参照のこと)
続いてライオネルは、ユダヤ人に「政治的な権利」が与えられることを目指し、自由主義的な政治家の応援にも力を入れ始めた。
ピール銀行条例を提案したイギリス保守党の首相「ロバート・ピール」も、イギリスで初めて「ユダヤ人解放法案」の成立を目指した、ロスチャイルド贔屓の人物であった。

ライオネルは「イギリスで最も影響力の人物のひとり」として担がれるようになり、今度は彼自身が「庶民院(下院)」から出馬するよう要請されるようになった。
そして1847年、シティの選挙区から、ディズレーリやピールが所属していた「保守党」ではなく、現在のイギリス自由民主党の前進「ホイッグ党」から出馬して、選挙で大っぴらに金をばら撒いて、金に群がるキリスト教徒たちを買収して、圧倒的大差で見事当選を果たした。
3.ユダヤ人としてイギリス議員を目指したライオネル
1847年、ライオネル(39歳)は下院議員に当選したが、当時のイギリス議会は「キリスト教徒としての宣誓」しなければ、当選しても議席に就くことはできなかった。
「ユダヤ人」であることに強いこだわりを持っていたライオネルは「キリスト教式の宣誓」を拒否したため、結局、議席に就くことはできなかった。
ピールの次に首相となったホイッグ党のジョン・ラッセルもまた、ロスチャイルド家に近い人物であり、ライオネルが議席に就けるようにするため、「ユダヤ人救済法」を議会に提出した。

この時、ディズレーリは「ユダヤ教とキリスト教は兄弟である」、「ユダヤ人は本来保守的な民族なのに、こんな扱いばかり受けるから革新政党の方に追いやられ、その高い知能で革新政党の指導者になってしまうのだ。これは保守党にとって大きな損失だ」と演説して、野党議員でありながらホイッグ党から当選したライオネルを熱烈に応援した。
ディズレーリが保守党議員を説得した甲斐もあり、ユダヤ人救済法は下院ではなんとか成立したものの、最終的には、伝統としきたりを重んじる「貴族院(上院)」によって否決されてしまった。
その後、ライオネルは総選挙がある度に出馬して当選を繰り返したが、その度に、貴族院の反対によって「宣誓の壁」に阻まれ続けたため、貴族たちを篭絡するための「接待攻勢」を開始することとした。
4.ユダヤ同胞のために道を切り開いたライオネル
ロンドンの一等地「ピカデリー」の107番には初代ネイサンが構えた大邸宅があったが、さらに148番にも、ライオネルが6階建の豪華な大邸宅を構えた。

また郊外には、ネイサンが1825年に購入した別荘「ガナーズベリー・パーク」があったが、さらにバッキンガムシャーに、ライオネルの弟アンソニー(41歳)が豪華別荘「アストン クリントン ハウス」を1851年に建築した。


これらロスチャイルドの邸宅や別荘には、後に首相となる「ディズレーリ」や「ウィリアム・グラッドストン」などの大物政治家たちが頻繁に招かれて、饗応を受けた。

また、貴族院(上院)での支持を得るためにイギリス貴族への賄賂や接待攻勢を行ったうえ、さらに国民と貴族から信頼を集めていた「ヴィクトリア女王の王配 アルバート公」にも買収工作を進めて、家族ぐるみで「親密な関係」を築いた。

こうした工作活動の甲斐もあり、庶民院(下院)の保守党指導者で大蔵大臣になったディズレーリの尽力により、「ユダヤ人救済法」が1858年に成立したことで、上院・下院それぞれで「独自の宣誓」が行えるようになった。
1858年7月26日、ライオネル(51歳)は、通常の宣誓ではなく、旧約聖書によってユダヤ式の宣誓を行って、ついに「ユダヤ人初の国会議員」として議席に就くことに成功した。
しかし、下院に議席を手に入れたライオネルは、結局ほとんど登院することはなかった。彼が議員を目指した真の目的は、自らが先陣を斬ることで、「ユダヤの同胞たち」のために下院議員への道を切り開くことにあった。
そして翌1859年の選挙では、ライオネルの弟「マイアー(41歳)」も自由党(旧・ホイッグ党)から出馬して、下院議員となることに成功した。

【⑪に続く】
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