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国際金融資本の知られざる歴史② ~ロンドン家・天才ネイサン~

【前回①の内容】

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1812年9月、わずか一代で巨額の財産を築き、ロスチャイルド家を世界一の大富豪に育て上げた初代のマイアー・アムシェルが亡くなると、マイアーの三男で英国ロンドンを本拠地とする「ネイサン・マイアー・ロスチャイルド」がロスチャイルド財閥を率いることとなった。

初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド(1812年没)
ロンドン家 三男 ネイサン・M・ロスチャイルド(Nathan M. Rothschild) 1777年-1836年
ロンドン家初代 ネイサン・マイアー・ロスチャイルド(1777年 - 1836年)


1806年 結婚で広がるユダヤ商人ネットワーク

1798年に父の命を受けて若干21歳で渡英したネイサンは、綿花ビジネスで一稼ぎした後、1804年に国際金融取引の中心地シティCity of London)に移り住んだ。

そして1806年にネイサン(29歳)は、ハンナ・コーエンと結婚した。
彼女は、ロンドンで有名な国際的ダイヤモンド商人のリーヴァイ・ベアレント・コーエンの長女である。

ダイヤモンド商人 リーヴァイ・ベアレント・コーエン(1747年 - 1808年)
ネイサンの妻 ハンナ・ベアレント・コーエン(1783年 - 1850年)

そしてハンナの妹ジュディスは、英国ユダヤ人代表委員会の会長職を39年間(1835年~1874年)も務めた銀行家モーゼス・モンテフィオーレと1812年に結婚した。

ハンナの妹 ジュディス・モンテフィオーレ(1784年 - 1862年)
ハンナの夫 モーゼス・モンテフィオーレ(1784年 - 1885年)
英国ユダヤ人代表委員会(Board of Deputies of British Jewish)

ネイサンの義弟となったモーゼス・モンテフィオーレの母親はMocatta & Goldsmid社を経営する世界有数のゴールド商人のモカッタ家出身であった。

1684年設立 モカッタ&ゴールドスミッド社の金塊

ネイサンは、閨閥により広がったユダヤ商人ネットワークをフル活用し、金塊や貴金属の投資においても莫大な利益をあげるようになった。

ネイサンの結婚により広がったロンドンのユダヤ商人の閨閥
ネイサンの結婚により広がったロンドンのユダヤ商人の閨閥

なお、ハンナの「いとこの孫」には、マルクス主義の生みの親カール・マルクス、オランダの世界的電機メーカーPhilipsの創業者フレデリック・フィリップスがいる。
彼らはどちらもロスチャイルド家の閨閥と言える。

悪名高きマルクス主義の祖 カール・マルクス(Karl Marx) 1818年-1883年
悪名高きマルクス主義の祖 カール・マルクス(Karl Marx) 1818年-1883年
1891年にフレデリック・フィリップスが創業したフィリップス電機
1891年にフレデリックが創業したフィリップス電機

またネイサン(37歳)は、1814年にハンブルグを拠点とする「M.M.ウォーバーグ銀行」をNMロスチャイルド銀行の傘下に収めている。以降、ウォーバーグ一族はロスチャイルド家の「代理人」として大活躍することとなる。

M.M.ウォーバーグ銀行

ポール・ウォーバーグは、1914年にアメリカのFRB設立の立役者として、初代ニューヨーク連銀理事となった。

FRB設立の立役者 ポール・ウォーバーグ(1868年 - 1932年)

また、エリック・ウォーバーグが1966年にウォーバーグ・ピンカスというPEファンドを設立したとき、バイデン民主党政権の国務長官アントニー・ブリンケンの父ドナルドも創設者の1人として名を連ね、後に取締役会長にもなっている。

アメリカ民主党政権とウォーバーグ財閥との繋がり

なお、ブリンケン親子の経歴については下記参照のこと。


1815年 ワ―テルローの戦いで天文学的資産を稼ぐ

ナポレオン皇帝ロシア遠征(1812年)で大敗を喫すると、フランスと戦う同盟諸国にイギリスが資金援助するにあたり、ネイサンイギリス国債を大量に引き受けた。

イギリス政府が「ナポレオン戦争(1803年~1815年)」および「米英戦争(1812年~1815年)」を戦うために発行した国債の約半分は、NMロスチャイルド銀行が引き受けている。

また1814年には、ネイサンとパリ支店のジェームスは、フランス南方のピレネー山脈を越えたイベリア半島においてナポレオン軍と交戦中だったウェリントン公爵の下まで、遠く離れたロンドンから金塊(イギリス軍兵への支給金)を輸送して、イギリス軍の勝利に貢献している。

パリ家 ジェームス・マイアー・ロスチャイルド(1792年 - 1868年)
初代ウェリントン公爵 アーサー・ウェルズリー(1769年 - 1852年)

これらの功績によりネイサンは、イギリス政府やウェリントン公爵に大きな恩を売ることができ、政治的にも「大きな影響力」を持つ銀行家となった。

そして1815年6月18日、エルバ島に追放されたナポレオンが復権を賭けて挑んだ最後の戦いである「ワーテルローの戦いが勃発した。

ナポレオンと対峙したイギリス連合軍の総司令官はウェリントン公爵であった。ネイサンはこの戦いでもウェリントン公爵まで軍資金となる金塊を届けている。

ワーテルローの戦い(1815年6月18日)

そして、「タクシス家との繋がり」や「大陸封鎖令をすり抜けた密貿易ルート」によって、ヨーロッパ大陸で広大で迅速な情報ネットワーク網を構築していたネイサンは、誰よりも早く「イギリス勝利」の報を掴むと、すぐさまロンドン証券取引所に赴いて、悲壮な面持ちでイギリス国債を売り始めた。

すでにシティで1、2位を争う投資家となり、迅速で正確な情報網を持つことで有名なネイサンが国債を売り始めるのを見た他の投資家は「イギリス軍が負けた!!」と勘違いを起こして、パニックになって続々と国債を投げ売りし始めた。これによってイギリス国債は大暴落を起こした。

ネイサンは代理人たちに命じて、バーゲンセールとなったイギリス国債を密かに買い集めた。そして48時間が経過して、ようやくロンドンに「イギリス勝利」の情報が伝わると一転して国債価格は高騰し始めた。

ネイサンは、買い集めた国債を最高値付近で売り抜けて一夜にして「巨万の富」を手に入れたと言われている。一説では、ワーテルローの戦いの前後わずか5年間で資産額を7万弱に増やしたと言われているが、ネイサン自身は「1815年からの5年間で資産は2500倍になった」と控えめに答えている。


1821年 ヨーロッパ5ヵ国に広がるロスチャイルド財閥

1815年にナポレオン戦争が終結すると、ロスチャイルド五兄弟はフランクフルトの本店に集まり、新たなパートナーシップ契約を締結し直した。

ロスチャイルド家は、5つの商会から構成される単一企業として「グループ全体の貸借対照表」を毎年作成し、表面的には5つの企業に分かれていながらも、各地に有力な投資案件があれば、グループ間で柔軟に資本を移動させて、実態としては「1つの巨大な企業」として莫大な利益を稼ぎ続けた。

1815年時点の、ロスチャイルド五家の資本配分は次のとおりであった。

1815年時点で、これら5つの商会を合計すると世界最大の銀行に成っていたが、そこから1818年までの3年間で、その資産を13倍に増やしている。

さらに1825年の資産額は、1815年の36倍に膨れ上がり、ロスチャイルド家は、もはや他の資本家が束になっても全く及ばないほどの「異次元レベルの超巨大財閥」へと急成長している。

ロスチャイルド五家は、各々がイギリスを始めとする世界各国の政府国債を引き受け、それを他グループと協力して大陸各地で証券化して外債として販売するビジネスモデルで大成功した。まさに現代まで続く国際的な債券取引市場は、すべてロスチャイルド家が創り上げたと言える。

1817年には、フランスのパリにおいて、末弟ジェームスが「ロスチャイルド・フレール銀行(ロチルド銀行)」を設立して、追放先から続々とフランスに帰還した貴族たちを顧客に取り込み、王位に返り咲いたブルボン家が戦勝国に賠償金を支払うために発行するフランス公債を取り扱って大きく成長させた。

パリ・ラファイエット通りにあったRothschild Frères 銀行本店
パリ・ラファイエット通りにあった ロスチャイルド・フレール銀行本店

1819年には、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて、次兄ザロモンが「SM・フォン・ロスチャイルド銀行」を設立し、オーストリア公債を扱って巨額の利益を上げた。

オーストリア帝国(1804年–1867年)の国章

1821年には、オーストリア帝国が占領したナポリにおいて、長弟カールが「CMロスチャイルド銀行」を設立し、イタリア貴族で両シチリア王国の首相ルイージ・デ・メディチに取り入り、巨額公債を扱って稼いだ。

両シチリア王国の首相 ルイージ・デ・メディチ 1759年-1830年
両シチリア王国の首相 ルイージ・デ・メディチ(1759年-1830年)


1822年 オートリア帝国の男爵位を手にする

次兄ザロモンが、ウィーン会議(1814~185年)を主催したオーストリア帝国の外相メッテルニヒに、巨額で低利な個人的融資を実行して以来、ロスチャイルド兄弟は特別な関係を築いていった。メッテルニヒは、1821年にオーストリア帝国の初代宰相となった人物である。

オーストリア帝国外相のメッテルニヒ 1773年-1859年(後に、オーストリア帝国初代国家宰相)
オーストリア帝国外相のメッテルニヒ 1773年-1859年
(後に、オーストリア帝国初代国家宰相)

当時のヨーロッパ貴族における垂涎の名誉職である「オーストリア帝国総領事」の地位に、1820年にネイサンがロンドン駐在として、1821年にジェームスがパリ駐在として、それぞれ任命されて免税などの特権を与えられた。

そして1822年には、ロスチャイルド五兄弟とその嫡子全員が、オーストリア皇帝フランツ1世から「男爵位」と「紋章」を授けられた。

神聖ローマ帝国最終皇帝フランツ2世=オーストリア初代皇帝フランツ1世(1768年 - 1835年)
神聖ローマ帝国最終皇帝フランツ2世=オーストリア初代皇帝フランツ1世(1768年 - 1835年)

ロスチャイルド家の紋章は、向かい合う「獅子」と「一角獣」が、「5本の矢」と「鷲」が描かれた楯を抱えたデザインとなっている。

ロスチャイルド家の紋章

「鷲」はオーストリア帝国の、「獅子」は南ユダ王国の、「一角獣」は北イスラエル王国の紋章である。そして楯に描かれた「5本の矢」は、初代マイアーの5人の息子、つまりロスチャイルド五家を表している。

CONCORDIA、INTEGRITAS、INDUSTRIAは、ロスチャイルド家の家訓であり、それぞれ「調和」・「誠実」・「勤勉」という意味である。

こうして、2代目当主ネイサンの時代に、ロスチャイルド家の無敵の「5本の矢」体制が確立された。この後も、ネイサン率いるロスチャイルド財閥の大躍進は続いてゆく。

ロスチャイルド家の「5本の矢」体制の完成

【③に続く】

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