鳩に報道写真を背負わせた時代 〜スマホが全部を飲み込んだ〜
いまでは信じがたい
いまなら、スマホを向ければ写真が撮れる。
撮った写真は、そのまま送れる。LINEでも、メールでも、SNSでもいい。数秒後には、相手の画面に届いている。動画まで送れる。場所まで付く。場合によっては、こちらが送る前にクラウドへ上がっている。もう、少し怖いくらいである。
だから私たちは忘れている。
かつて写真は、撮るだけでも大仕事だった。
カメラは重い。フィルムの枚数は限られている。暗ければ写らない。ブレる。ピントを外す。撮ったあとも、現像するまで何が写っているのか分からない。
しかも新聞社にとっては、そこがゴールではなかった。
撮った写真を、どうやって本社へ届けるのか。どうやって紙面に間に合わせるのか。
そこからもう一つの闘いが始まった。
鳩にフィルムを背負わせた
明治から昭和にかけて、新聞社の屋上には鳩舎があった。
記者やカメラマンは取材現場へ行くとき、本社で飼われている伝書鳩を連れていった。原稿を書き、あるいは撮影済みのフィルムを小さく切り、遮光した筒に入れる。それを鳩の脚にくくりつけて空へ放つ。鳩は本社の屋上へ戻る。
鳩にフィルムを背負わせた。
なかなかの無茶である。
だが当時は、それが速かった。
日本では、東京朝日が明治20年代から伝書鳩の研究と訓練を始めたとされる。1897年、明治30年の八王子大火では、特派員が伝書鳩を携えて現地に入り、火災現場から原稿を送った。新聞社にとって、鳩はかわいい鳥ではなかった。通信インフラだった。
鳩にとっては重いフィルムを背負わされ、長距離を飛ばされる。
大迷惑。
ハトハラである。
だが、戦後も鳩は残っていく。
1945年8月6日、広島に原爆が投下された。翌7日、現地に入った通信社の連絡部員は、惨状を記した原稿を5羽の鳩に託した。そのうち2羽が西部本社に帰り着いた。
だが、その原稿は紙面には載らなかった。
まだ戦争は終わっていなかった。新聞は軍と政府の発表に縛られていた。鳩は帰った。原稿も届いた。だが、読者のもとへは届けられなかったということだろう。
1950年代半ばには、東京だけで朝日、毎日、読売、共同の4社あわせて約1200羽の伝書鳩がいたという。

今なら動物虐待とか言われそうな
飛行機が低空でフィルムをさらった
鳩だけではない。
戦前から戦後にかけて、日本の新聞社は固定翼機も使った。撮影もする。人員輸送もする。
そしてもうひとつの目的は、原稿や写真フィルムを、できるだけ早く本社へ届けることだった。
空港など、どこにでもある時代ではない。
ヘリではないからホバリングもできない。
そのため方法は荒っぽい。
地上に2本の支柱を立てる。その間にロープを張る。
原稿やフィルムを入れた容器を、そのロープに吊るしておく。
そこへ飛行機が低空で進入する。
これは本当に超低空である。
機体に取り付けられたフックが、ポールの間のロープを引っ掛ける。次の瞬間、容器だけが空中へ持ち上がる。ポールは地上に残る。飛行機は着陸しない。そのまま飛び去る。
いまで考えれば、かなり乱暴に見える。
ニュース原稿を空中でさらっていくのである。
だが通信網が未発達だった時代には、これが高速輸送手段だった。

アメリカ大陸では郵便収集にも使われたという
戦前から写真電送はあった
写真を遠くへ送る技術は、戦後に突然生まれたわけではない。
1928年、昭和3年。昭和天皇即位の大典をめぐって、新聞各社は写真をいかに早く送るかを競った。京都で撮った写真を、東京や大阪の紙面へどう届けるか。鉄道で運ぶのか。飛行機を使うのか。伝書鳩を飛ばすのか。それとも、電気信号にして送るのか。
このとき登場したのが写真電送機だった。
仕組みは、いまで言えばファクスに近い。紙焼き写真を円筒ドラムに巻きつける。ドラムを回転させながら、光で写真の濃淡を読み取る。明るい部分、暗い部分を電気信号に変え、電話回線などで送る。受信側では、その信号をふたたび画像に戻す。
日本電気が開発したNE式写真電送機は、この大典報道で成功し、国産技術として評価された。

だが、これで鳩や飛行機が消えたわけではない。
当時の写真電送機は大がかりだった。真空管を使った据置型で、どこへでも持って行けるものではなかった。回線も必要だった。山の中、海の上、災害地、火災現場で使えるとは限らない。
だから新聞社は、一つの方法だけに頼らなかった。
列車にも乗せる。
鉄道もまた、新聞社の通信手段だった。
地方で書いた原稿や撮影済みフィルムは、駅へ持ち込まれた。記者自身が列車に乗って運ぶこともあれば、駅員や乗務員に託して本社側の受け取り担当へ渡すこともあった。
電話で送れる原稿は電話で送る。
電報で送れるものは電報で送る。
だが、写真フィルムは運ぶしかなかった。
鳩に背負わせる。飛行機で吊り上げる。列車に託す。
送れる場所なら写真電送機で送る。
戦前の新聞社は、使える手段を全部使っていた。
押し入れが暗室になった
写真電送には厄介な問題が出てくる。
電送機は写真を送る装置である。だが、その前に、送るための「写真」を作らなければならない。
撮っただけでは送れない。まずフィルムを現像する。さらにネガから紙焼きを作る。その紙焼きを、写真電送機のドラムに巻く。これでようやく送信である。
支局なら暗室がある。だが事件現場、山間部、災害地ではそうはいかない。
場所によってはホテルも旅館もない。
近くの民家に頼み、押し入れを借りたこともあった。
押し入れを暗幕でふさぎ、現像液、停止液、定着液を並べる。そこでフィルムを現像し、紙焼きを作る。
現像とは、乾いているフィルムや印画紙を「濡らし、また乾かす」ということだ。時間がかかるのである。
家の人からすれば、突然やってきた新聞社の人間が押し入れにこもる。怪しい。しかも薬品臭い。だが、そこに翌朝の一面がかかっている。ごめん。
写真を送る前に、まず暗闇の中で「送れる写真」にしなければならなかった。

東京五輪が生んだSpeed Magni
昭和40年代に入ると、新聞写真の現場に奇妙な装置が現れる。
ニコンFの裏蓋を外し、そこに巨大なポラロイド写真のバックを取り付ける。Speed Magniである。
きっかけは1964年、東京オリンピックであった。
世界中の視線が東京に集まった。
新聞社にとって競争は撮った写真を、どれだけ早く紙面へ載せるかだった。
競技場で撮る。ヘリから撮る。すぐ写真にする。すぐ本社へ送る。そのために、ニコンFに巨大なポラロイド装置を背負わせたのだ。
Speed Magniは、35ミリ一眼レフのニコンFで撮りながら、その場でポラロイド写真を得るための特殊な報道用機材だった。
フィルムを現像し、ネガから紙焼きを作る時間が惜しい。
ならば撮ったその場で、電送にかけられるポラを作ればいい。これがSpeed Magniの発想だった。
便利ではあった。だが、スマートではない。大きい。重い。取り回しは悪い。ニコンFの下部に四角い増築部分が生えたようになる。小型カメラというより、小さな建築物である。

それでも、速報写真の現場では大きな意味があった。
新聞社にとって、ポラロイドは単なる確認用ではなかった。電送原稿そのものだった。
カメラの後ろの小さな引き伸ばし機
Speed Magniの内部構造は面白い。
ニコンFのフィルム面は24mm X 36mmと小さい。そのままポラバックをつけたら、ネガサイズの小さな写真しかできない。そのため途中に引き伸ばしレンズを内蔵させたが、そのまま設計すると縦長の巨大な代物になる。
そこで、内部に2枚のミラーを内蔵し、映像を折り返し、引き伸ばしレンズを通し、拡大してからポラロイドフィルム面へ投影したのである。
要するに、カメラの後ろに小さな引き伸ばし機を背負わせたような構造だった。こうしてポラロイドフィルムに焼き付けてから写真電送機にかけたのだ。
カメラなのか。暗室なのか。引き伸ばし機なのか。ポラロイドなのか。答えは全部である。
だからこそ大きかった。だからこそ便利だった。

上部の斜め部分にミラー1があり、パイプ内の引き伸ばしレンズで拡大され、下部のミラー2でポラロイド側に向きを変える
ヘリの中からポラを送る
Speed Magniは、ヘリコプターの中でも使われた。
ヘリから地上を撮る。すぐにポラロイド写真を作る。そのポラを、機内の専用写真電送機にかける。ポラ写真は厚いので、台紙をピリピリと剥がして薄くしたりもした。電送機は写真の濃淡を読み取り、無線で本社へ送る。
無線機からはピーガラガラと妙な音がして、ヘリから本社への写真電送には約5分かかった。
それでも、フィルムを地上へ持ち帰り、現像し、紙焼きを作るより早い。
オリンピックはスポーツの祭典だが、実は競技だけでなく、新聞社の速報技術を競う場でもあり、ニコンやキャノンも高速モータードライブカメラなど、毎回のように新設計のカメラやレンズを発表した。
ワニ口クリップで送る
デカかった電送機そのものも小さくなる。
1969年ごろ、松下の小型写真電送機201-Mが登場する。
重さは約5キロ。乾電池でも動かせる。肩から下げられる。
現場へ持ち出せる。
これは革命的だった。
支局なら電話回線があるが、事件現場や山中では、そう都合よくいかない。そこで、近くの民家や商店に頼み、電話を借りる。場合によっては公衆電話からもできた。
受話器の送話側を外し、端子にワニ口クリップを挟む。
そこへ写真電送機をつなぐ。
今なら電ハラかもしれない。
鳩に頼み、飛行機に頼み、今度は人の家の電話に頼む。新聞社は、とにかく頼れるものには頼った。ここで写真は、さらに「運ぶもの」から「送るもの」へ近づいた。

フィルムを直接読む時代へ
1980年代になると、さらに一歩進む。
フィルムから直接画像を読み取り、送信する装置が登場する。ニコンのNTシリーズである。NT-1000、NT-2000、NT-3000と続く小型写真伝送機は、新聞社の現場を変えた。
これまでは、フィルムを現像し、紙焼きを作り、その紙焼きをドラムに巻く必要があった。NTシリーズでは、現像済みのフィルムを直接読み取れるようになった。
携帯電話や衛星電話と組み合わせれば、海外、山岳、災害地、戦場に近い場所からでも写真を送れる。
ただし、この段階でもフィルム現像は必要だった。
撮影する。フィルムを現像する。フィルムを伝送機にかける。電話回線、携帯電話、衛星電話で本社へ送る。
写真はかなり自由に送れるようになった。だが、薬品と現像から完全には離れられなかった。
マビカはすぐには勝てなかった
1981年、ソニーはマビカを発表した。
「デジタルカメラの始まり」と語られることがあるが、正確にはデジタルカメラではない。CCDで受けた画像を、アナログ信号として小さな磁気ディスクに記録する電子スチルビデオカメラだった。
画期的ではあった。
だが、それは新聞写真の現場をすぐに変えたわけではない。画質、記録媒体、送信環境、機材価格。どれも報道の主力になるには足りなかった。フィルムの画質と信頼性はまだ強かった。
マビカは、すぐに勝った機械ではない。むしろ、長い移行期の入口だった。写真がフィルムから離れ、電子データになる。その方向を最初に見せた装置だった。
そしてスマホが全部を飲み込んだ
1990年代以降、デジタルカメラが実用化される。これが現代に近い撮影、送信システムである。
もはや説明は不要だろう。
ノートパソコン、モデム、携帯電話、衛星電話を組み合わせ、現場から画像データを送る時代が来た。もはやフィルムを現像する必要はない。暗室ナニソレである。
そしていまはスマートフォンで撮り、その場で補正し、通信回線で送れる。写真だけではない。動画も、音声も、位置情報も送れる。
印画紙やフィルムを濡らして乾かす必要もなくなった。
それどころか、ドローンに至ってはカメラが飛んでいき、勝手に空撮を送りつけてくるのである。
時代は変わった。
変わったのだが、
そのドローンは人間に代わりにフィルムを賢明に運んだ伝書鳩と、どこかにつながるところもあり、少々、悲しいようなほろ苦い感じもまたするのであった。

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