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止まらなかったカメラ——ニコンと報道現場の時代

昭和、平成の報道現場で求められたカメラ。

それは、まず現場で止まらないこと。
つまり壊れないことだった。

ピント合わせだ、適正露出だというのは、カメラマン側の責任であった。カメラに求められるものは、性能表の数字ではない。
根性であった。


報道現場はカメラを選ばない

雨にずぶ濡れになる。
極寒地でボディが凍りつく。
カメラマンが走る。
肩から下げた複数のカメラ同士が、ガンガンぶつかり合う。隣にいるテレビカメラや照明とぶつかる。
護送車ともぶつかる。

遊園地のジェットコースターにぶつけたカメラマンもいた。
寒暖差や湿気で、水滴だらけになる。
車やヘリの機内を転がっていく。
ビールをドバドバと浴びる。

それぐらいは、よくあった。

めちゃくちゃな環境だが、持っているカメラマンも同じ目に遭っている。だから、カメラにも我慢してもらうしかない。

他社の機材や、鉄パイプとガチャガチャ当たるニコン
真ん中のチビが私である

結果、真鍮のブラックボディは満身創痍になる。ペンタプリズムはへこみ、角は剥げ、黒い塗装の下から地肌の金色の真鍮が見えてくる。

それが、プロっぽい感じにもなっていった。

新聞社のカメラマンが、たいていニコンを使っていた理由は単純である。

とにかく頑丈だったからだ。

何しろ、日本光学である。戦前は軍艦の測距儀など軍用の光学機器を作っていた会社である。戦後、仕事を失い、カメラを作った。

だからというべきか、ニコンは無駄に頑丈で、重く、壊れにくかった。

支給されたニコンF


支給されたニコンF。重く、角張り、無骨だった。

新聞社の写真部で仕事を始めた時、支給されたのはニコンFだった。

重い。
角張っている。
無骨である。
とにかく強そうだった。

そのまま凶器である。

フィルムの巻き上げも重い。シャッターダイヤルやレンズの絞り環のクリックもしっかりしていて、手が触れたぐらいでは勝手に動いたりしない。

そのあたりが、実にプロっぽかった。

ニコンFとカコのストロボ 新聞社修行時代

先輩が使い込み、ボロボロになっていたニコンFだった。
だが、これがまあ、結構調子はよかった。

支給されたのは、そんなニコンFのボディ白と黒の2台。

レンズは、28ミリ、35ミリ、50ミリ、55ミリのマイクロニッコール、85ミリ、105ミリ、200ミリ。合計7本である。

これにカコのグリップストロボと積層電池を加える。

それらすべてを革のバッグに入れると、持ち上げるだけでも大変な重量になった。

新人には、ズームレンズなど支給してもらえなかったのである。

しかし、それでは実際の取材が大変だった。だから私は、そこに私物のニコンF2、モータードライブ付きボディと、80-200ミリのズームレンズを追加して使っていた。

モーターF2にズームをつけると、2キロぐらいあったような気がする。毎日ダンベルを持っているようなものである。

ニコンは頑丈だった。

だが、あまりに重かった。

落としても壊れるな、という時代

新聞社内では、こんなセリフまで飛び出す。

「落としただけで壊れたぞ。ダメだな、このカメラは」

毎週、新聞社を定期巡回してくれるニコンの報道機材課の人たちは、よくこんなめちゃくちゃを言われていた。

そもそもカメラは精密機械である。
落としたらそりゃあ壊れるだろうよ。

しかし、そんな話は聞いてもらえなかった。
カメラへのパワハラである。精密機械なのです、とは認められない時代だったのだろう。

いつも動いてナンボなのであった。

冗談抜きで、こんな伝説まであった。

飛んできた弾丸がニコンに当たり、カメラは壊れた。しかし、カメラマンは無事だったという話である。

ただ、その話がいかにもニコンらしく語られていたことは確かだった。

それでも止まらなかった

台風の横殴りの雨の中でもニコンは止まらなかった。

伊豆大島噴火の取材に行った時のことである。
チャーターした漁船から桟橋に飛び移ろうとした。
ところが、高い波で失敗。

私は何とかコンクリート護岸に乗れたが、首から下げていたニコンF2は、船とコンクリート護岸の間に挟まれた。

派手な音がした。

外装は派手に歪んだ。

それでもフィルムを巻き上げることはできた。
写真も撮れた。
すげえ、と思った。

御巣鷹山でもそうだった。
JAL123便の墜落現場へ向かうため、何時間も山の中を彷徨った。F3とFMの2台のカメラは泥だらけになった。
真っ茶色の塊2つになってしまった。

それでもレンズフィルターを拭けば写真は撮れた。

あまりにひどい汚れだったので、そのままバケツに入れて、銀座のニコン・プロサービスに持ち込んだ。

呆れられた。

それでも、きれいにしてもらえた。

今思えば、めちゃくちゃな使い方である。

それでも動き続けたニコンは、やはりすごかった。

露出計のない職人技

新聞写真は、白黒の時代だった。

だから、露出も今から考えれば、ずいぶん大ざっぱなものだった。ほとんどカメラマンの勘である。

露出計すら付いていない、ニコンFやF2のアイレベルボディが、昭和の報道現場では主力だった。フォトミックなど、ほとんど見たことはなかった。

それでも、慣れとはすごいものである。

このくらいの部屋の明るさなら、シャッタースピードは30分の1秒、絞りはF2.8。

そのまま明るい表に出れば、250分の1秒のF8。

大体、それで問題なく撮れた。

言ってみれば、それが職人技だった。

ニュース写真では、大きめのストロボを使う撮影も多かった。だから、被写体までの距離から露出を計算することもできた。

実際、露出をどうするかは、その後のフィルム現像の時間や、紙焼きでの焼き込み、覆い焼きとも関係していた。

多少の失敗なら、あとで救済できたのである。

後年、フォトミックファインダーに変えたF2

金属製ボディの温もり

報道ニコンは、ブラックボディが主力だった。
傷が増えるほど、報道現場の道具になっていった。

もとは戦場取材で、クロームボディがピカリと光り、そこを狙撃されるという理由から、特別にブラックボディをメーカーに発注したことに始まるという。

だから、ブラックボディはプロ仕様と言われた。

実際、街のスナップでも黒いボディはありがたかった。
目立たないのである。

冬の寒い日。
冷えきったカメラを、現場で握る。
現場に向かう船の船底で握る。
空撮のためのヘリやセスナの中で握る。

最初は冷たかったボディが、自分の体温を受けて、次第に温もりを帯びてくる。真鍮が何かを受け取っていく。
フィルムの巻き上げまで軽くなったような気がした。

こういう時の一体感が、たまらなかった。

機械式ニコンの頂点

そんなこんなで、私はニコンF、F2、F3、F4までの4機種を、メインのカメラとして使った。

サブカメラとしてはニコンFMやFEなども使った。
シャッターのシンクロスピードが速く、FEはAEを搭載しているという理由だ。両機共、なかなか丈夫だった。

良き相棒としてのニコンの特徴は、いきなり壊れないことだった。巻き上げが重くなる、シャッターボタンが重くなる。
そろそろヤバいかもよ、と、なんとなくわかるのがありがたいのだ。
シャッターは10万回保証などと言われていた。
デジタルカメラの今とは違い、フィルムカメラの10万回はすごい回数であった。

ニコンFやF2のアイレベルは、電気を必要としない。
すべてがスプリングなどの機械式で動いていた。
電池がなくても、もちろん写る。
低温下でも写る。
水にも強かった。

探検家の植村直己は、極寒地にF2のチタン製ボディを持っていった。エベレストにも登ったカメラであろう。

チタンモデルは、やがて我々報道カメラマンにも支給されるようになった。このあたりが、報道ニコンの最高潮であった気がする。

ニコンF2チタン 私物

電子化と、赤い線

しかし、F3からは電池が必要になった。

そのため、緊急用の機械式シャッター、60分の1秒も装備されていたが、次第にスパルタンなニコンのイメージは、少しおしゃれなニコンへと変わり始めた。

ジウジアーロのデザイン。前面には赤い線が入った。

AE・電子化の流れだったが、雨の中で使って大丈夫なのか、という不安の声もあった。
その後F3Pという、いわゆるプレス用のモデルも追加された。F3Pは軽い雨対策がされ、プリズムカバーはチタンで強化されストロボ用ホットシューが付くなど、いくつかの加工が施されていた。

私が現場でガンガン使ったのは、このF3Pくらいまでである。

その後、F4が登場した。
オートフォーカース機となり、単3電池を入れるようになった。

EOSの衝撃

ちょうどその頃、キヤノンからEOSシステムが発表される。

オートフォーカスを搭載したこのカメラは、ピント精度が非常に高く、その合焦速度もすばらしかった。

ニコンF4の「ジーコ、ジーコ」と音を立てる低速のAFは、まったく使い物にならなかった。だが、EOSは初めて仕事に使えるオートフォーカスだと思った。

テストで使った。

鈴鹿サーキットのF1取材。
高速で走る車の流し撮り。
あるいは、正面からブレーキングシーンを狙う。
そんな速度でも、オートフォーカスが追従した。

ああ、これはニコンにはできないな。

残念ながら、その頃、私とニコンの長い付き合いは終わった。

確実に写っている

しかし、今振り返ると、あのニコンで取材をしていた若い頃が、とても懐かしくなる。

ニコンもメガネもでかい昭和であった

現場でシャッターを押せば、必ず写るという手応えがニコンには確かにあった。

山の中で。
船底で。
3000フィートの上空のヘリコプターの中で。
地下深い炭鉱の一番奥の粉塵舞い散る切羽で。

今日は何か撮れるのだろうか。
そんな不安を抱えつつ向かった現場。

ニコンは必ず動いてくれた。

シャッターを押した瞬間に、その手応えがあった。

「写っているよ」

そう教えてくれるようなカメラたちだった。

たまに、あの頃に戻りたくなるのであった。


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