アサシンとは何者だったのか?――伝説の暗殺者を追う
「アサシン」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
ゲームや映画などでは、音もなく敵に近づき、暗殺を実行する人物として描かれることがあります。
英語の assassin は、現在では「暗殺者」という意味です。
実は、この言葉には、中世のイスラム世界で活動したある集団が関係しています。
彼らは、現在ではニザール派イスマーイール派と呼ばれています。
そして、その歴史を語るうえで欠かせない人物が、ハサン・サッバーフです。
では、彼らはいったい何者だったのでしょうか。
山の要塞を拠点にした人々
時代は11世紀。
現在のイランにあたるペルシアでは、セルジューク朝という大きな国家が勢力を広げていました。
一方、その支配に対抗するイスマーイール派の人々も活動していました。
その中心となったのが、アルボルズ山脈の中にあるアラムートという要塞です。
1090年、ハサン・サッバーフはアラムートを掌握し、ここを拠点として勢力を築きました。
彼らはセルジューク朝のような巨大な軍隊を持っていたわけではありません。
そこで、正面から大軍と戦うのではなく、山岳地帯の要塞を利用し、各地の拠点を組織しながら対抗しました。
その戦術の一つが、敵の重要人物を狙った暗殺でした。
ハサン・サッバーフは、圧倒的に軍事力で勝るセルジューク朝に対して、暗殺を有効な戦術として利用しました。
実際に暗殺を実行したのは、**フィダーイー(献身的な信徒)**と呼ばれる人々です。
こうして彼らは、後世のヨーロッパで「アサシン」として知られるようになりました。
「ハシシで暗殺者を操った」という伝説
アサシンについて調べると、必ずと言っていいほど登場するのが、ハシシの話です。
ハシシとは、大麻(カンナビス)の樹脂を加工したものです。
後世に広まった有名な物語では、ハサン・サッバーフが若者たちにハシシを与え、その意識を変化させたうえで、美しい庭園へ連れていったとされています。
そこには、美しい景色や食べ物などが用意されていました。
若者たちは、それを天国や楽園のような場所だと思った。
そして現実に戻されたあと、
「命令を実行すれば、再びこの楽園へ行ける」
と思い込まされ、暗殺を実行するようになった。
これが、現在でもよく知られている「アサシン」の物語です。
しかし、ここには大きな問題があります。
この物語を裏付ける確かな同時代の証拠はありません。
ニザール派のフィダーイーが、ハシシを使って洗脳されていたということを示す確実な証拠は確認されていません。
むしろ、このような物語は、ニザール派を恐れていた人々や、後世のヨーロッパ人によって作られ、広がっていった伝説と考えられています。
実際、イスマーイール派研究の専門機関であるイスマーイール研究所も、ハシシによってフィダーイーの行動を説明する物語が、後世の伝説として形成されたことを指摘しています。
つまり、
「アサシンはハシシで洗脳された暗殺者だった」
というのは、歴史的事実として確認された話ではありません。
では、「アサシン」という名前はどこから来たのか?
ここも面白いところです。
ヨーロッパの人々は、ニザール派イスマーイール派を指して、Assassinsと呼ぶようになりました。
この言葉は、アラビア語の ḥashīshī / ḥashshāshīn などの語形と関係すると考えられています。
ただし、
「ハシシを使う人々だったから、アサシンと呼ばれた」
と単純に考えるのは危険です。
この言葉は、ニザール派の人々に対する侮蔑的な呼び名として使われた可能性が高く、必ずしも「彼らが実際にハシシを使っていた」という意味ではありません。
その言葉が十字軍やヨーロッパの人々によって取り入れられ、やがてヨーロッパの言語の中で「暗殺者」を意味する言葉へと変化していったと考えられています。
つまり、
ハシシの伝説
と
assassinという言葉の語源
には関係がありますが、
「実際にハシシを使って暗殺していたからアサシンと呼ばれた」
と断定することはできません。
このあたりは、史実と伝説を分けて考える必要があります。
では、彼らは何を信じていたのか?
ここから、ハサン・サッバーフを理解するために重要な話に入ります。
彼らは、単なる暗殺者の集団ではありません。
彼らはイスラム教徒でした。
ただし、イスラム教には複数の大きな分派があります。
ハサン・サッバーフにつながるのは、その中のシーア派です。
では、シーア派とは何なのでしょうか。
スンナ派とシーア派
イスラム教には、大きく分けてスンナ派とシーア派という二つの大きな流れがあります。
ここで最初に覚えておきたいのは、
スンナ派もシーア派も、どちらもイスラム教である
ということです。
どちらも、
唯一神アッラーを信じる
ムハンマドを預言者と認める
クルアーンを聖典とする
という基本的な信仰を共有しています。
では、なぜ分かれたのでしょうか。
大きなきっかけとなったのが、ムハンマドの死後の指導者をめぐる問題でした。
ムハンマドが亡くなった
632年、イスラム教の預言者ムハンマドが亡くなりました。
すると、
「ムハンマドの後、イスラム共同体を誰が率いるのか?」
という問題が起こります。
ここで考え方が分かれていきました。
非常に簡単に整理すると、次のようになります。
スンナ派
スンナ派では、ムハンマドの後のイスラム共同体を率いる人物をカリフと呼びます。
初期には、ムハンマドの仲間たちの中から指導者が選ばれ、アブー・バクルが最初のカリフとなりました。
つまり、非常に大まかに言えば、
「ムハンマドの死後の共同体の指導者は、ムハンマドの血筋だけに限定されない」
という考え方です。
シーア派
一方、シーア派では、ムハンマドの家族、とりわけアリーとその子孫を正統な指導者として重視します。
アリーはムハンマドのいとこであり、娘ファーティマの夫でもあります。
シーア派では、アリーとその子孫につながる正統な宗教的指導者をイマームと呼びます。
つまり、非常に簡単に言えば、
スンナ派:ムハンマドの後の共同体の指導者を、血筋だけに限定しない
シーア派:ムハンマドの家族、とりわけアリーの系統を正統な指導者として重視する
という違いから始まったと考えると分かりやすいでしょう。
ただし、実際の歴史や両派の思想は、この一言だけでは説明できないほど複雑です。
「カリフ」と「イマーム」
ここで、二つの言葉を整理しておきましょう。
カリフ
→ ムハンマドの死後、イスラム共同体を率いる政治的・宗教的指導者を指す言葉。
イマーム
→ 特にシーア派において、正統な宗教的指導者を指す重要な言葉。
特にシーア派では、
「誰が正統なイマームなのか?」
という問題が非常に重要になります。
そして、ここからさらにシーア派の中でも分裂が起こっていきます。
シーア派も一つではない
シーア派の内部でも、
「では、誰を正統なイマームとするのか?」
という問題をめぐって、いくつものグループに分かれていきました。
その一つが、イスマーイール派です。
イスマーイール派は8世紀に成立したシーア派の一派で、その後、イスマーイール派の内部でも後継者をめぐる分裂が起こりました。
1094年、エジプトを支配していたファーティマ朝のカリフ・イマーム、アル=ムスタンスィルが亡くなると、後継者をめぐって大きな対立が起こります。
このとき、
ニザールを支持する人々
と
ムスタアリーを支持する人々
に分かれました。
このうち、ニザールを正統なイマームとする流れが、後のニザール派イスマーイール派です。
そして、このニザール派をペルシアで組織し、大きな勢力へと発展させた人物こそ、ハサン・サッバーフでした。
ここまでを整理すると
最初は「アサシン」という一つの言葉から始まりました。
しかし、その背景には、次のような長い歴史があります。
イスラム教
↓
スンナ派・シーア派
↓
シーア派
↓
イスマーイール派
↓
ニザール派イスマーイール派
↓
ハサン・サッバーフ
↓
アラムート
↓
アサシンの伝説
こうして見ると、「アサシン」は単なる暗殺者の物語ではないことが分かります。
そこには、イスラム教の中での後継者問題や宗派の分裂、ペルシアの政治情勢、セルジューク朝との対立など、長い歴史がありました。
おわりに
最初は、ゲームや映画で見る「暗殺者」から始まった話でした。
しかし、歴史をたどっていくと、
「なぜ彼らは暗殺という手段を選んだのか?」
という疑問の答えには、宗教と政治の両方が関係していることが分かります。
そして、ハサン・サッバーフも、単なる「暗殺教団のボス」と考えると、その人物像を見誤ってしまいます。
彼はイスマーイール派の宗教家であり、後にニザール派の指導者となった人物でした。
では、そもそもイスラム教はどのようにして生まれたのでしょうか。
そして、ムハンマドとはどんな人物だったのでしょうか。
次回は、さらに歴史をさかのぼって、**「イスラム教の誕生」**から見ていきたいと思います。
アサシンという一つの言葉から始まった旅は、イスラム教の始まりまで続いていきます。
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